第111話 記念日

 急げ。

 急げ!


 小玉しょうぎょくは心の中で、何度も叫んだ。しかし同時にいてはいけないという声も聞こえる。一歩間違えれば、すべてをし損じるからだ。


 背後をちらと見る。


 まだ敵の気配は迫っていない……つまりは、まだ復卿ふくけいが敵をくいとめている「かもしれない」のだ。

「……小玉、前!」

 明慧めいけいの言葉に、小玉は前を見る。そこには武装した一隊がいた。一瞬警戒が走るが、旗を見て小玉ははっと息をむ。


 味方だ。


 小玉は馬の速度を上げ、一気にその一隊に近づいた。先頭にいるのは、王蘭英おうらんえいだった。

「無事だったのね!」

「蘭英さん! ……なんでここに!」

「奇襲があるという報告があって……」


 どこから、誰が……しかし、そんなことは今どうでもいい。


「蘭英さん! 人を借りるわ!」

「え、ええ!」

 半ばひったくるように、差しだされた旗をつかむ。


 ――どうか間に合って。


        ※


 復卿には、付き合っている女にたわむれに聞く問いがある。

「お前は、俺にれているか」

「はい」

「俺が死んだら悲しいか」

「はい」

「俺を死なせる者を恨むか」

「はい」

 大抵、このやりとりで、復卿は女との別れを決めていた。



「あの」こう復卿が男に走った。

 その噂はあっという間に広がり、復卿を知らない人間でさえも、今や彼が誰と付き合っているのかを知っているくらいだ。そういう人間が、こんな噂知ってどうする?

 と言ってやりたいくらいだ。その噂のでんの速さといったら、先日小玉主催で行われた、第八回焼き芋大会の際に、上官がわらに放った火が燃え上がるがごとく激しかった。

 余談だが、この大会、さすがに八回も回を重ねると、芋以外のものを焼く者も増えてきて、最近は食べ比べ大会のようになっている。


 なお今回は、ほおの葉に包んだ羊の肉を焼いた上官が優勝を勝ち取った。主催者が優勝してどうするんだ。


 閑話休題。

 比較的復卿のことを知っている者たちは、最初その噂を信じなかった。彼らは「黄復卿」と「女好き」が枕詞まくらことばのごとく深く結びついていると知っている。

 だが、「相手」を知った途端、「そうか!」と叫んで頭を抱えてうめき出す者が幾人かいたことから、復卿と同じくらい、「相手」も身近な存在だったからだ。「相手」は虎視こし眈々たんたんと復卿を狙っていたらしい。


 ――言えよ。そしたら、俺、警戒したんだけど。

 というのが、復卿の率直な感想である。知らぬは本人ばかりなりというやつだった。



 はっきり言おう、

「相手」との関係は合意の上ではない。


 酔いつぶされたすきに乗っかられて以下略というやつである。散々な目にあった。

 そして、その事実がひょんなことからもっとも身近な者たちに公開されたあとも散々な目にあった……というか目を向けられた。

 どういう目かというと、普段飄々ひょうひょうとしている上官の沈痛な目、普段磊落らいらくな同輩の慈しみに満ちた目、普段邪険な弟分のあわれれみの目である。

 特に弟分は、似たような危機に幾度かあっているため、限りなく親身な感情がそこにこもっていた。



 追い打ちをかけるように、普段不仲な同僚であるしょうじつが、いろんな差し入れを渡してくれた。奥方から預かったらしい。

「そのうち、家内が詳しい話を聞きたがってる」という声に、からかいの色は一切なかった。

 正直、心が折れそうになった。だが、ここで折れたらなし崩しになることは目に見えていた。

 そして、復卿の闘いの日々が幕を開けた。必死に逃げ回り、一時は女装もやめた。だが、「相手」は一切あきらめなかった。



 さすがに不思議に思って、復卿は「相手」に問いかけた。

「なあ、お前、なんで俺がいいんだ? 年も相当離れてるだろ」

 すると相手……楊清ようせいという、上官の従卒はにっこり笑って言った。

「それはあなたが、閣下に心底誠実にお仕えしているからです!」

 その答えに虚をつかれ、復卿は彼にあの問いを発した。

「お前は、俺に惚れているか」

「はい」

「俺が死んだら悲しいか」

「はい」

「俺を死なせる者を恨むか」

「いいえ」

「そうか」

「はい」

 清喜はすべてにはっきりと答えた。

「……そうか」

 その解答を聞いたから、復卿はこいつでいと思った。「回答」ではなく、復卿にとってそれは、限りなく模範的な「解答」だった。


「俺、あいつと付き合うわ」

 そう言った時、弟分のまなしが憐れみを通り越し、ついには哀しみ、更には絶望に満ちたことについては心がいたむ。


 だが、楊清喜は自分の死後に禍根を残さないという点では理想的な相手だった。

 復卿はいつか「彼女」のために死ぬと思っていた。自分の上官、誇りの恩人であるかん小玉のために。だが、その時、彼女に恨みを持つ者を残したくなかった。


 楊清喜は決してそうならない相手だった。なぜなら彼も、関小玉に心酔しているからだ。

 だからきっと、彼は自分が死んだ後、悲しみ、それでいて彼女のために死んだことを褒めたたえてくれるはずだ。


 それはいいなあと、心の底から思ったのだ。

 だから。

 だから今、腹を貫く熱い塊も、はいからこみ上げる鉄くさい液体も気にならない。

 目の前の敵を切り伏せて、ふと空を見上げた。


 声なき声で、決して届かぬ言葉を清喜につぶやく。

 ――なあ、俺たち付き合ってから、今日が一年目じゃなかったっけか。


        ※


 清喜が言った。

「この人のことを誇りに思います」

 そして物言わぬむくろとなった復卿の頬を、指の腹ででる。


 まるでむつみあいのように。

 それでいて、いやらしさはまるで感じられなかった。


 小玉もそっとその頬に触れる。冷たかった。

「どうしてこんなことになったの……」


 それは独り言ではなかった。


 半ば糾弾するように小玉は言う。

「教えて、文林ぶんりん

 背後に立つしゅう文林に。

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