第97話 兄嫁の怒り

「ただいま~」

「戻りました!」

 帰ってきた息子におやつを食べさせ、彼に手伝わせながら料理をしていると、小玉しょうぎょくせいが帰ってきた。


 おかえりなさいと口々に言い、そのまま食事にする。

 この時間に、小玉はその日あったことと、明日の予定を簡潔に話す。


「明日ね、文林ぶんりん連れてくる」

「……そう」


 しゅう文林。あの美しい人。彼を思うと、心の中が弾むような気がする。それは子どものころ、小玉と一緒に川の底できれいな石を見つけたときに感じたものと似ている。けれども相手は石ころではない、生身の男だ。


 さんじょうは、亡き夫以外の男に好意的な感情を向けることに、罪の意識のようなものを感じていた。

 夫に対して抱く感情とはまったく違っても、好意は好意だ。

 夫を失って何年目になるだろう。だんだん記憶の中の顔がおぼろげになってきている。それも裏切りのように思えてならない。


 ふと、小玉が真剣な顔でこちらを向いた。まじまじとみつめてくる。

「……義姉ねえさん、後でちょっと話がある」

「え?」



 その夜、三娘の部屋に、小玉がやってきた。

もう」と言われ、酒杯を手に持つ。

 三娘はあまり酒を飲めない。村ではたまに飲んではいたが、帝都の酒は村のそれよりかなり強い。

 ちびちびとめる三娘とは反対に、小玉はくいくいと酒を干す。


 同じように育ったはずなのに、もはや道をたがえてしまったのだということを、こういうなにげない時に意識する。


「話って、何?」

「……義姉さん。兄ちゃんに操だてしてくれるのはうれしい。でも、自分の幸せを追求してもいいと思う」

 心臓が、跳ねた。


「文林のこと……好きなんでしょ」

 言いづらそうに小玉が言う……知っていたのか。知られてしまっていたのか。


「あ……あたし……」

「義姉さん、これは裏切りなんかじゃないと思う。兄ちゃんはもういなくなって何年も経つ。ここらじゃ、再婚だってあんまり珍しいことじゃない」


「再婚?」

 思いがけない言葉に、三娘はまゆをひそめた。


 そんな発想、三娘にはなかったし、言われても「そういえばその手があった!」というような気持ちにはならない。

 好きは好きでも、周文林は三娘にはそんな対象ではない。石ころと恋はできません。


「でも……」

 それを告げようとする三娘を止めて、小玉は熱弁する。


「文林は、いい男だよ。義姉さんさえ良ければ、再婚の話を持っていってもいい。丙のことだってきっとかわいがってくれる。あいつ、へいの勉強ほんとうによく見てくれて……あの男が、あんなに子どもに優しいだなんて思わなかった……まあ、お断りされる可能性もあるけど」


「そうね」

 三娘が同意したのは、付け加えられた言葉だけに対してである。とてつもなくあり得ると思った。


「ただね、小玉……」

 自分にには再婚なんて考えられないのだということを、きちんと伝えようとする三娘の言葉に、小玉の声が重なる。

「ただ……」

 お互い、相手の言葉に自分の言葉が重なったことに、ここで一瞬沈黙する。


「…………」

「…………」


 そして「あっ、ごめん遮って」、「ううん、あたしこそごめん、それでなに?」などとお互い譲り合ったあと、まずは小玉が話すことになった。


 なんだか話すときの呼吸が合わないなあ、と三娘は心の中でぼやいた。

 小玉が故郷を出るまでは、こんなふうになるなんてこと、めったになかった。

 けれども小玉が帰ってきた直後よりはましになっている。


 もう少し一緒に生活していたら、昔のようになれるのだろうか。

 ぼんやりと未来に思いをはせる三娘の前で、小玉が居住まいを正す。



「ただ、承知しておいて欲しいことが一件ございまして、実は……」

 告げられた言葉に、三娘は耳を疑った。



「……どういう、こと」

 目が据わっていることがわかる。小玉は身を縮こませている。



「本当にごめん。まさか、義姉さんが、あいつのこと、好きになるなんて思ってなくて……」

「あんたに怒ってるわけじゃないわ、あの男によ!」

「え……!」

 いきなりの「あの男」呼ばわりに目をぱちくりさせる小玉をよそに、三娘は手に持った酒杯を一気に干して、勢いよく卓上にたたきつけた。だん! とやけに激しい音が響き、一瞬息子が起きないか気にはなったが、それよりも優先しなくてはならないことがある。

「なに……? なんなの? あの男はつまり、あんたと関係を持ったのに、責任とらなかったってわけ?」


 小玉の話によると、かなり前、二人はうっかり肉体関係を持ち、そしてそれをなかったことにしたのだという。


「えーっと、まあ、そうなる……かな?」

「信じられない、なにそれ!」

 三娘は絶叫した。



 ――幼にしては父母に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う。



 婦徳とされる有名な言い伝えである。女性を男の付属品であるという見方ではあるが、半面、女性を庇護する考え方でもあった。


 さて、小玉は未婚である。従って、関一族は彼女を庇護しなくてはならない。

 捨ててきた村の親戚しんせきは除き、現存する関一族の男子は三娘の息子だけであり、息子が幼い以上、全ての権利と義務は、母であり後見である三娘に帰する。

 現在、経済的に小玉に頼っていようと、それでも小玉の体面は、三娘にとって守らねばならない対象なのである。

 村を早々に出た小玉にはわかりにくい感覚かもしれないが、結婚して、別の一族に入って生活した三娘にはそれは世界の真理ともいうべき事柄だった。


 大事な夫の大事な妹が男に手を出されて、責任もとってもらえずに放置されている。

 これは断じて許してはならない事柄だった。


 三娘はぎりぎりと歯ぎしりした。周文林に対する淡い好意など、もはや心の中のどこにもいだせなかった。

 今後は彼のことを、どぶの中の石のように見るに違いない。


「待って、あたし、他の男と付き合って、その時関係持ってたりもしてるんですけど! 前にその話した時、義姉さん、何も言わなかったよね!」

「それはその時点ではお互い将来責任を取るつもりで関係を持って、でもそのあと合意の上で別れたんでしょ。それはそれであんたたち二人の選択だから、問題ないのよ!」

「なに、その理屈! それなら、あたしたち、一応、合意の上で無かったことにするって決めたのよ。同じじゃない!」

「違うわ!」

「どこが!?」


 結局、殴り込みをかけるのを小玉に止められた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る