第87話 続・小玉からの手紙

 小玉しょうぎょくの記憶の中で、かつて恋人にかけた言葉がよみがえった。


「ありがとう。あんたいい男だった」


 掛け値なしの言葉だった。笑いかけると相手は驚いたように笑って、

「お前……お前、本当にいい女だなあ」

 と言って、自分の頭にぽんと手を置いた。泣きたかったのに、妙に誇らしくもあった。


 それっきり、会っていない。


 自分の貧相な恋愛遍歴の中でもとびっきりのいい男だった。自分の出世が原因で別れを告げられたという点では同じ別れ方をした男もいたが、それでも彼とは最後までお互いを思いやれたと思っている。

 別れてもう何年にもなるという相手だというのに、その死を知って自分でも驚くほど喪失感があった。

 それは彼にまた会いたかったからだった。

 その思いは、未練によるものなどではない。


 再会した時は、相手は結婚していて、自分もできたら結婚していて、なんなら子どももいて、笑って昔あんなこともあったねと話す……そんなことがしたかったし、そんなことができる相手だったのだ、彼は。


 仮に自分が結婚し、子を持ってもそれができないのだということは、小玉を存外に打ちのめした。

 そして、その死に自分が関わっているかもしれない。


 わかっていたじゃないか、と自身に言い聞かせる。


 こんな仕事を続けることの結果を。遺族にののられたこともある。

 そのことに対して、小玉は常に覚悟していなければならなかったはずだ。

 だが、同時に慣れてはいけないはずでもあった。


 だから、ただ静かにせいの言葉を待つ。しかし、いくら待っても言葉はかけられなかった。相手の顔を見ると、なんだか困ったように言葉を探している。


 自分から問いかけることにした。

「彼、結婚は?」

「していません」

「隠し子とか」

「いてくれたらいいなとか思って探してみたんですけど、いませんでした」

「……彼の最期はどんなだったの?」

「……よくわかっていませんが、きっと満足してたと思います」


 病気だったんです。

 ぽつりと付け足された言葉に、なんだか彼の最期のありようが分かった気がした。

 寝床の中で死ぬのが似合わない人だった。きっと、彼らしい死に方を選んだのだろう。


「でも、のこすものはのこしていけばいいのに……」

「ほんとうですね」

「あの肝心なところで甲斐かいしょうなし」

 小玉の悪態に、清喜がふっと笑った。


 もうこの世に彼の血は存在しない。おそらくは清喜か、もしいるならば他の弟妹が楊の家を継ぐのだろう。しかし、それは彼自身の存続ではない。


 これから数百年も続いていたかもしれない彼の流れを断ち切ってまでして、あの戦はなにを得たのだろうか。

 その問いに対する答えを、小玉は持っている……なにも得ていない。


「閣下、僕の兄は満足して死にました。けれど、僕は思う。兄の死にどれくらいの価値があったか。きっと兄はどうでもよかったのでしょうが」

 清喜の問いに対する答えも持っている……なにもなかった。


 あの戦いは、前皇帝がなんとなく決めたもので、いたずらに将兵を死なせただけだった。

 だが、そう言いたくなかった。

 あの戦い自体が無意味だったとしても、彼らは無駄死にしていないのだと言いたかった。


 なら、どうすればいいのか。

 その意味を作らねばならない。そして、無駄死にをこれから増やしてはならない。「有意義」な死なら誰かを死なせてもいいというものでもないが。


 それはこれからの小玉の働きによるものだった。


 小玉はふと、手を見る。

 近頃の農作業ですっかりぼろぼろになった手だ。

 武器を握って生活している者とは似て非なる手。

 懐かしいこの手。


 だが自分は、この懐かしさの中にとどまってはいけない。

 とどまらないほうがいいのではなく、いけないのだと小玉は強く感じて身震いした。


 それはあの日、兄の身代わりで徴兵に応じた時から定められたものだ。

 あの時それを覚悟していなかったのだとしても、進んだからには引き返してはならないのだ。


 そしてあの日、沈賢しんけんきょうを見送った時のように流された結果として行き着くのではなく、自分の意思で進まねばならないのだ。


 今や小玉にとって運命は河の流れではなく、途方もない登山だった。

 登って登って……その結果、行き着くべきところに……頂上に、自分は行き着かねばならない。

 登頂した後の景観がどのようなものであるのかは知らなくても、目指すべきところは決定しているのだ。



 その夜、小玉は文林ぶんりんに手紙を書いた。

「清喜が元恋人の弟だった」

 手紙のあらましなどではなく、ほぼ全文である。

 これを受け取った文林がどう思うかを小玉が考えているかどうかなど、もはやいまさらのことである。



 そして、一晩考えて、小玉はある結論に行き着いた。

義姉ねえさん、へい、話があります」

 幾晩も話を重ねて、やがて一家が一つの意見にまとまった頃、その事件は起きた。

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