第86話 鮮やかな記憶

 昼間に起こったことで、胸に疑問がこびりついて現在にいたる。

 まさか、そんなと思いつつも、せいは問わずにいられなかった。


「閣下はあの男と結婚なさるおつもりになったのですか?」

 小玉しょうぎょくの返事は即答だった。


「全然」

 そして一拍。


「えっ?」

 清喜が思わず聞きかえすと、小玉は小玉で「うん?」とさらに聞き返してくる。

 しかし率直な清喜と、率直を通り越して身もふたもない小玉の会話が、えんだったりすれ違うわけもない。


「今日、悩んだそぶりをお見せになったのは、なぜですか?」

「あいつを殴る日取りは、いつが一番いいかと思って」

 質疑応答はあっという間に終わった。


 清喜はもらった答えに、なんだか泣きそうになった。

「そうか……そうですか」


「どうしたの一体」

 おそらく小玉の問いは、「どうしてそのようなことを聞いたのか」より、「どうしてそんな態度なのか」ということの方が比重が大きいのだろう。

 大雑把なように見えて、人のことをよく見ている人だ。いまの清喜の態度が、常の彼ならばありえないことくらいわかりきっているだろう。


 ――そう、そういう人だから、あの人は……彼は。


「閣下は……ようきょじんという男を覚えておいででしょうか」

 聞くのは今しかないと思った。多分、ここで聞かなければ、一生聞けないだろうと思った。

 聞くためにここに来たのだと思った。


 小玉が無言で目を見張った。

 記憶をたぐりよせている感じではない。ならば、すぐに思い出したのであろう。

 それくらい鮮やかな記憶であるならば、仮にそれが負のものであったとしても、彼――楊去塵はきっと満足だろう。


「随分懐かしい名前……兄弟? そうでなくても親戚しんせき? 名字同じだもんね」

「僕は弟です」

 清喜が言うと、小玉は軽く息をのみ、まじまじと清喜の顔を眺める。


 そして不意に苦笑した。


「言われてみれば似ているように見えてくるわ。不思議なもんね」

「そうですね」

 清喜も苦笑する。


 あまり似ていないと言われていた兄弟だった。

 年が離れていたせいもあるのだろうか。


 だから、小玉がこれまで自分の係累を連想できなかったのは無理のない話だった。

 同じ名字の人間など、そこかしこにあふれているし、そもそもこの村だって、ほぼ「関」と「陳」という名字の人間しかいない。同姓とは結婚できないきまりなので、他所よそから結婚相手を見つけないかぎり、この村の夫婦はたいてい「関」と「陳」の組み合わせになる。


 田舎には珍しくない話だが、おそろしく血縁関係の濃い村だ。顔だちもみなよく似ている。おそらく能力もにたりよったりだろう。


 だがそんな中で、この人は異色を通り越して、出色だ。


 清喜は目の前にいる人を見てそんなことを思った。そして、兄を思った。彼もまた故郷の中では異色ともいえる存在だった。そこが似ていたのかもしれない。


「彼は今?」

 小玉が言葉少なに問う。

「先年、戦死しました」


「どの折?」

創安そうあんの……」

 小玉も指揮をした戦いである。


「そう……」

 小玉がゆっくりと目を閉じた。

 わずかな光に照らし出された顔は一瞬で疲れきったように見えた。


 この人にこんな顔をさせるために兄は死んだわけではない。

 別に恨んではいない。

 自分も、そして確実に兄も。

 その事実を踏まえて、聞きたいことがあるのだ。

 それらを伝えなくてはならないと思ったが、声をかけるのをためらう疲労の空気に、清喜も黙って立ちつくす。記憶の片隅で兄の声が響いたような気がした。


「あいつ、いい女だった……本当にいい女だった」

 幸せだったのだ、兄は。

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