第82話 やっかいな男

「誰?」

 その男に久しぶりに会った時、そう思ったのは、小玉しょうぎょくだけのせいではない。


 もちろん相手の顔をほとんど忘れかけていた小玉のほうにも非があるが、相手の変貌へんぼうははるかにその非を上回っていた。

 どちらかというと……いや、穏便さを取り払っていうと、相手はまだ二十代のはずなのに劣化していた。

 なんかくたびれていた。

 どこか太っていた。

 うっすらはげていた。

 しかも変化の度合いがどれも著しいものはないため、個性というほど際立っておらず、それでいて総合的な見栄えがあまりにもよろしくないので、「印象の薄い残念なおっさん」になっていた。


 だれあろう、ほかのだれでもない。

 小玉の元許婚いいなずけである。


 別に九年前から美男子というわけではなかった。なんたって、小玉と「お似合いだね」と言われていた程度である。

 それでも、ほかの女が横恋慕する程度には魅力的だったはずなのだ。


 なにがあった。


 三娘に聞くと、略奪愛の結果は、物語のようにめでたしめでたしというほどではなかったが、それでも不仲が噂されるようなこともなく、ごく普通の夫婦として、五人子どもをもうけたらしい。

 そして、妻の方は先年なくなったんだとか。


 ああそれでくたびれていたのか、納得した。気の毒に。


 と、すんなり思えるほど、彼は過去の存在だった。かつて、心の中に暗がりを作るほどの相手だったはずが、大した変化だ。

 そして、過去の男のままでいてくれると、大変ありがたかったのに、現在の小玉にへんに絡んできたのである。



「結婚してくれ」

「無理」

 心の声がすなわち実際の声だったといわんばかりに、即答した。



 いつも、よく考えてから発言しろと言っていた文林ぶんりんも、今回ばかりは拍手しながらうなずいたことだろう。

 今自分は最善の対応をしたと、小玉は確信していた。

 だから、相手が「なんで断るんだ」という顔をしているのが、本気でわけわからない。


 だって無理でしょ無理無理無理本当無理とこれも思いっきり口に出したら、なんだかふらふらしながら去って行った。



 相手の姿を見送ってから、小玉は胸に手を当てて考えてみた。自分はまちがっていたのだろうかと。

 こればかりはごまかしようがないが、まず外見が好みでなかったのは認める。

 最近まで近くにいらんくらい美形な野郎がいたため、審美眼が無駄に磨かれたのかと思ったが、彼より数段顔で劣る歴代彼氏を今思い浮かべてみても、今の元許婚は最低位に入賞していた。

 身もふたもない観点かもしれないが、好みってけっこう大事だ。


 そして、その外見の低評価をくつがえしようもなく、内面が気に食わなかった。


 だってあの男、自分の子どものこと全然考えてない。

 彼の子どもからすれば自分は、父の元彼女である。

 しかも、あの男は入り婿だった。

 つまり、自分と彼が結婚した場合、後妻ののっとりになるわけだ。


 絶対に、井戸端会議の話題になるような事件が起こる。

 某家の小僧のおねしょでさえ一度話題になると、その小僧が大人になって結婚するまでその話題をひきずる土地柄だ。

 きっと永劫えいごうに語り継がれるだろう。

 そこらへんのことに遠慮せずにのこのこ来る性根が本当に気に食わなかった。


 ――うん、やっぱり自分は間違っていない。


 だが周囲はそうは思わないようで、それとなく「嫁に行ったら?」とか勧めてくる。

 実は兄嫁でさえも最初は、「嫌でないなら……」と言っていた。小玉が自分の考えを述べると、「あ、それは嫌ね」と納得してくれたが。

 妻として、母として、元許婚の妻に共感したらしい。

 だから、他の者にも説明すればわかってもらえるだろうが(特に奥様方)いかんせん、避けられているせいで、弁明する機会がない。悩ましい。

 そして、なんとなく応援してる風の里人に力を受けてか、元許婚はしょっちゅうやって来るのだった。


 ほら今日も。


「なあ、小玉……」

「あんたうっとうしいから帰れ」

 さて、小玉の言動からわかるとおり、焼けぼっくいに火が付くことはありえない。

 しかし、小玉に元許婚に対する情はあるかと聞かれると、ほんの少しあると言っていい。

 だがそれは、愛などというものではなく、好意ですらなかった。


 感傷も懐旧も一切入る余地はない。


 今や、小玉の過去において、その念をもって思い出す故郷での記憶は、家族に対するものでしかない。

 そして、その家族は三娘しか残っていない。


 では、元許婚に対する情はなにか。

 強いていえば、義務感に近い。


 自分は元許婚を求めていない。

 そして、元許婚が求めているのは「自分」ではない。


 彼の中にいる小玉は屈託のない少女だ。

 けらけら笑いながら野原をかけ、鳳仙ほうせんの汁で爪をそめてはにかむような。

 だが、そんな娘はもういない。

 仮に一時そのような自分に戻ることがあったとしても、彼の前では絶対に戻れない自分を、小玉は知っていた。


 だが、同時に今の自分がその「小玉」の後身であるのも事実だった。ならば「彼女」の責任は「自分」が取るべきだった。

「彼女」が元許婚にその存在を焼き付けたのなら、「自分」はそれを焼き尽くさなくてはならない。


 ただ、それをどうやればいいのかが問題なのだ。


 一発ぶん殴れば多分それで解決するだろうし、個人的にはいろいろな思惑からそうしたいのだが、そうするにはご近所づきあいというものが立ちふさがる。

 村六分が村八分になられるのは本当に困る。三娘さんじょうおいの手前。

 そういった点で、この男はちょっと厄介だった。

 だが、この男を前にすると、他のことで悩む。

 

 というより、もともとあった悩みが顕在化するといった方が正しい。その悩みの方が深刻ではあった。

 元許婚という存在は、小玉にとって過去の象徴だった。

 その存在を自分は求めていない。ならば、未来において自分が求めているのはなんなのか。


 こんなことをこの年になって悩むなんて、とちょうする。


 自分と同年代の女は、この村では大きな子どもがいる主婦で、娘がいるならば、そろそろ娘の結婚で頭を悩ませる頃なのに。

 自分が、とてつもなく停滞している気がした。


 もどかしかった。


 そんなふうに物思いにふける小玉へ、おずおずとした声をかける者がいる。

「……あー、小玉」

 元許婚である。

「ってあんた、まだ帰ってなかったの!? 暇人!」

 相手を打ちのめそうという意思ではなく、素で発した叫び声だったが、かえってそっちの方が心に痛手を負ったらしい。すごすごと帰っていった。



 そんな悄然しょうぜんとした元許婚と入れ替わるように甥がやってきた。小玉は元許婚に対する態度とうって変わり、喜んで出迎える。

「なーに、どうしたの? あんた洗濯さぼったのー?」

 揶揄やゆする小玉に、丙は唇をとがらせる。

「おばちゃん、帰っておいでって、かあちゃんが」

「誰? わざわざ迎えになんて」

「なんかねー、都から人が来たからって」


 ――それって……。

 なんだか、既視感がした。

 似たようなこと前にもあった。そう、左遷された時に。


「丙、あのさ、それってやたらと目立つ男だったりしない? 」

 小玉の問いに、丙は「ん? ん?」と言いながら首を傾げる。

「目立つって、どんな感じで?」

「なんか、ずっと見てると……そうね、妙にいかがわしい感じで」

 小玉が、今頭に思い浮かべている人物のことを、普段どう思っているのかが如実にわかる言葉である。


 果たして、丙の返事は肯定でも否定でもなかった。

「ずっと見てないから、わかんないー」

 叔母おばちゃんのこと、すぐ呼びに来たもんと言う丙に、怒ることができようか。


 いや、そもそも怒るようなところがなにひとつない。


「そっか……きれいな人だった?」

「ううんー」

 質問し直した小玉に、丙ははっきりと首を横に振る。失礼といえば失礼ではあるが、ほっとし……かけたところで、いややはりあんはできぬと気を引きしめる。


 付き合いはじめて、この甥の感覚が若干ずれているのを初めて知った。

 実は……ということもありうる。まずは帰って確認してからの話だ。


 甥と手をつなぎながら家路を急ぎつつ、小玉はふと思った。

 しかしこの子、どうしてこういう性格なんだろう。

 それが叔母似であることを、叔母本人だけが知らないというのは、いわゆるお約束というやつであろう。


 要は、血筋というわけである。あと家庭環境。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る