第四部

第80話 丙、誕生

 少年には長い間名がなかった。

 だから「めい」と呼ばれていた。



 名がない理由は、名づけてくれる人がいなかったからだ。

いや、いるにはいるが、その人と生まれてこの方会ったことがなかった。


 その人は、少年が生まれる前から遠い都で働いていた。

どうしてなのかはわからない。というより、きっと知らされていないのだと思う。

 両親と祖母はその人を恩人だと言っていた。


 お前の命の恩人なのだと。

 その人がいなければお前は生まれてこなかったのだと。

 だから、お前の名前は、その人がつけるべきなのだと。


 もっと幼い頃ならば、顔も知らないその人を素直に慕っていた。

 しかし、何年もここに来ず、その間ずっと自分の名前がないとなるとそうもいかない。

 

 名無しと毎日のようにからかわれると、否応いやおう無く心もすさむ。

 やがて、父が死に、祖母が死んだ。それでもその人は来なかった。

 だから少年は、その人が嫌いになった。


 顔も知らぬ叔母を。



 祖母が死んでから、母はめっきりふさぎこむようになった。

 しゅうとめと嫁という関係であっても仲の良かった相手が死に、心に打撃を負ったのだろう。彼女が唯一微笑むのは、まるで自身に言い聞かせるようにある言葉をつぶやくときだけだった。


「大丈夫、もうすぐ彼女が帰ってくる」

 なんの根拠があるんだよといつも思っていたが、後で知ったところによると、なんの根拠もなかったらしい。


 この時少年には知らされていなかったが、当時叔母は戦場に行っていたのだという。母は本当に自分に言い聞かせていたのだ。

 だが、知らされていなかったため、彼の叔母に対する悪感情はうなぎ上りもはなはだしい状態だった。


 その叔母の名前は、かんしょうぎょくという。



        ※



 少年が叔母に対する印象を悪化させる一方だったある晩、扉をほとほととたたく音がした。おとぎ話や怪談の出だしみたいな状況だ。


 母が警戒しながら声をかける。

「……誰?」

「あたし、あたしよ」


 ――あっ、これ、詐欺かな?

 返事を聞いた少年は、怪しさしか感じなかった。


 しかし母はそんな疑いどころ満点ないらえに、目を見張った。

 扉に駆けより、途中足をもつれさせてつんのめりがちに扉を開けた。


 そこには、一人の女性がいた。会ったことのない人だ。

 母くらいの年ごろで……先日亡くなった、少年の祖母に似ていた。


 驚いてその人を見つめていると、彼女はみるみるうちに目に涙をため、泣き出した。

 母も彼女に抱きつき、泣く。

 しばらく女二人の泣き声だけがその場を支配した。


 説明されなくても、状況からわかる。彼女が叔母だ。



 叔母は、戸口で泣くだけ泣くと、家の隅に設けられた祭壇の前でも泣いた。

 簡素なこしらえのそれの前にいつくばり、頭を地に打ち付けながら泣いた。

 祖母と……それから、ずっと前に亡くなった父にびながら泣きつづけた。母もやっぱり泣いていた。自分もこっそり涙ぐんだ。

 でも、母が過呼吸を起こしはじめたところで、少年と叔母はさすがに泣くのをやめた。



 母の介抱でしばし家の中をばたばた動いていると、さすがに感情のたかぶりはおさまっていく。

「おいで」

 叔母もそのようで、母の体調がよくなると、落ち着いた様子で少年を手招きした。

 おずおずと近づくと、彼女は少年の頭をでて感慨深げに言った。

「本当に兄ちゃんにそっくりだ……」


 母がほんの少しだけ口元に笑みを浮かべる。

「あんたにも似てるわ」


 にっこり、というほどではない。だがそれだけの表情でさえ、少年にはどこかまぶしく見えた。


 母が笑うのを見るのは久しぶりだったから。

 叔母が、母を笑わせてくれた。


「そうね、あたしと兄ちゃん、顔似てたから。二人とも母ちゃん似」

 その言葉に、少年はなんだか妙に納得した。

 この人は父の妹なのだ。

 祖母の娘なのだ。

 大好きだった人たちに、もっとも近い人間なのだ。


 母も同じようなことを感じたのだろう。

 なんだかおやしてもう一回泣きだしそうになったのだが、叔母が次に発した言葉で、そんな感傷は一気に吹き飛んだ。


「そういえば、直接会ったからもう教えてもらってもいいよね……名前は?」

 母と自分の間に衝撃が走った。


 名づけるの、あなたの仕事です。


「…………」

 少年はとりあえず母のほうを見る。もしかしたら自分はなにか、事情を間違って把握していたのかもしれないと思って。

 ほら自分、子どもだし。


「…………」

 しかし、母は母でどうしよう……という顔でこちらを見ていて、自分が聞かされた話はなにも間違っていなかったのだと知った。


 でもなにかが間違っているのは確かだ。どこらへんがどう間違っているのか、子どもだからわからない。

 大人である自分の母も、わかっていない。同じく大人な叔母は、もっとなにもわかっていないみたいな顔をしている。

 どれくらい大人な人ならわかるんだろうか、この事態。


「……どうしたの?」

 邪気なく聞いてくる叔母に、母は小刻みにふるえながら言う。

「ままま、待って、それこっちの話」

「え?」

「あたしたち、ずっと、あんたにこの子の名前つけてもらうために、帰ってくるの、待って……」


 今度は叔母に衝撃が走る。

「は!? なんの話!?」


 縦揺れだった母のふるえに、今度は横揺れも加わりはじめている。

 叔母は叔母で、人間ってこんなに目をけるんだ、そしてここまで行っても目玉って転がり落ちないんだと少年が感心するくらいに、目をかっと見開いている。

 そこから先、呆然ぼうぜんとする自分をよそに二人の会話がとうのように流れていった。



 ちょっとなにそれ聞いてないけどだって妊娠したときにあんたが帰って来たときに名前つけてもらうって書いてもらったのよ読んだけど当分帰れないしなにより学ないから他の人にお願いしてって書いてもらったよそんなの聞いてない聞いてないあたしだけじゃなくてあの人もお義母かあさんも聞いてなかったものだいたい引き受けるなら無理しても帰るなり人づてで名前したりするわよてっきり忙しいんだと思ってたそんなときは確認しようよへんに気にかけさせて命にかかわったら大変だと思ってたのよ……



 ――やばいよこの話しあい。

 少年はあさっての方向に圧倒されていた。

 

 お互い相手の語尾に遠慮なく自分の言いたいことを息継ぎなしでかぶせてきてて、話がまったく途切れない。

 自分だけ流れる時間が遅くなっているような気さえする。



 それでも人間、息を吐いたら吸わなくてはならない。


 先に息継ぎが必要になったのは母だった。あまりにも限界まで吐ききったせいか、おふっ、という音を立てながら母が吸いこんでいる間に、叔母が声をあげる。


「まずは、あれをはっきりさせたい!」

「なに?」

 母がまだ息を吸っている最中だから、少年は代わりに聞き返す。


「誰に、手紙書いたり読んだりしてもらったの!」

 これについては母が答える。

「えっとあのころは、おうさんとこのご隠居に……」


「絶対にあのじいさんが元凶じゃん!」

 ここで叔母が絶叫した。

 そして、なぜかそこらへんに置いてあったかごを片手に飛び出して行った。



 少年は、呆然としっぱなしの頭で思った。そういえばあそこのじいさん、十年近く前からけかけてるって話だった。そして……。



 ほどなくして、叔母は何故か籠に大量の野菜を入れて戻ってきた。

 そして、開口一番。

「ちょっと、あそこのじいさん死んでるじゃない!」

 そう、王さんとこのご隠居こと、王はちさんは去年天寿を全うしている。



 色々とけておいでなご老人を介しての文通……しかも字数制限があり、届くまでに時間もかかるという状況なのだから、色々なことが伝わっていなかったことは無理もない。

 それにそもそも、手紙で子どもの名前のやりとりなんてするもんじゃない。ここらでは、幼い子どもの名前を書きつけると悪い霊がよってくると言われている。

 

 だから叔母は手紙で命名を行おうとしなかったし、少年の名前を聞こうとしなかったのだ。そのあたりの事情は、少年にだって納得できる。



 あとは、何年も蓄積された鬱憤うっぷんのやりばだが……しばし悩んだ後、少年はよしとうなずく。

 ――まいっか。



 とりあえず、誰を恨むにしても、自分が名無しだったのは叔母おばのせいではないということはわかる。

 そして、それよりも大事なことがある。

「ねーねー、おばちゃん」

「ん? なに?」

 怒り心頭に発していても、さすがに子どもに八つ当たりするつもりはないようで、叔母は声を優しいものにした。


「なんでもいいから、おれの名前つけて」

「今!?」

「なんでもいいって、今言ったし」

 叔母の声がひっくり返ったが、少年としてはもう、この件をどうにかできるなら本当になんでもよかった。


「そうね! とりあえずつけてあげて!」

 母も加勢する。


「なんでもとか、とりあえずとかいうことだっけ名前って……」

 叔母はいささか不服なようだった。それでも名づけてくれるつもりになったらしく、うんうん唸りながらも考えこみ……ややあって、「じゃあ」とためらいがちに口を開いた。


「『へい』はどう?」

 そう言って、土がむきだしの床の上に「丙」と書く。


「じゃあおれ、今日から丙だ」

「丙ね、いいじゃない」

 少年改め丙は、母と目を見あわせてうんうんうなずきあった。


「もっと立派な名前つけてあげたかったんだけど……」

 叔母は自分で言っておいて納得していない様子だったが、

「それ、この子がなんか失敗したら、すごく残念な目でみられるじゃない」

「おれ、この字好きだよ」


 丙はこの村の子どものご多分に漏れず、読み書きができない。

 それでも自分の名前くらいは書ける必要がある。「無名」という呼び名のなにが嫌って、最初の字の画数が多いのが嫌だった丙である。


 それにくらべれば「丙」という名前は非常にいい。

 書きやすいし、一文字しかないし。


「あ~、書きやすいって大事だよね。あたしも自分の名前好きよ」

 丙の言いぶんに叔母もなるほどと頷いてくれた。自分たちってすごく気が合うんじゃないかと丙は機嫌をよくした。



 この丙と名づけられた少年は、後によく叔母に中身がそっくりと言われるようになる人物だった。

 特に、後に引きずらないという点で。

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