第79話 再び、都との別れ

 母が死んだ。


「うそよ」

 小玉しょうぎょくはぽつりと呟いた。

 その手には数枚の紙。出征中に、宿舎の私室に蓄積されていた手紙だ。


 ――母の不調を知らせる手紙。

 ――母の容体の悪化を知らせる手紙。

 ――母の死を知らせる手紙。


 うそ、うそ、と繰り返しても、手紙が消えるわけでも、内容が消えるわけでも、いきなり夢からさめるというわけでもなかった。

「……どうして、うそじゃないの」

 くらくらとめまいすらする頭を押さえ、小玉は食いしばった歯の間からうめき声を漏らした。


 母が死んだ――理屈のとおりではある。娘である自分よりも、母のほうが早く逝くということなど。


 そして、人間はいつ死ぬかわからない。年齢の近い兄ですら不慮の事故で死んだのだ。自身もいつ死ぬかわからないこともあり、小玉はそれを痛感している。


 だが、兄のときとは違う……即死だった兄。死ぬまで間があった母。


 仕方ないのだ。知らせが届いたとき、自分はここにいなかった。だから知りようもなかった。

 だが、母も小玉のそんな事情を知りようもない。きっと娘が手紙を読んだと信じ、帰ってくるのを待っていたに違いない。


 どれだけ待ち焦がれたことだろう。

 そして、死の瞬間、小玉がいないことにどれだけ悲しんだだろう。


 仮に、小玉が戦場にいることが伝わっていたとしていたら……けれどもそれはそれで、娘が前線にいることは死に際の母の心に負担をかけただろう。


 なんて親不孝な女なんだろう。

 今日ほど自己嫌悪を覚えた日はない。


 なにより、小玉は、母が苦しんでいる間、母のことなどなにも考えていなかった自身を憎んだ。

 戦いのこと、そのあとの始末のこと、部下のこと……そればかり。家族のことなんて、少しも考えていなかった。


「母ちゃん」

 徴兵に応じたあの日から一度も会っていない母。

 あれが最後の別れになるなんて、思いもしなかった。


「……母ちゃん」

 もう、我慢できなかった。


 どれくらいぶりだかわからないくらい、身も世もなく泣きじゃくった。子どものようにわめいた。声を聞きつけた明慧めいけいら女性兵にすがりついて泣きつづけた。



 翌日、小玉はおう将軍の前に立った。いつも飄々ひょうひょうとしているはずの彼が、彼女の姿を見て驚いた顔をする。

「どうしたのお前、それ」


 王将軍を驚かせた「それ」とは、おそらくほとんど開けられなくなった小玉のまぶたのことだ。いきなり目を真っ赤にした部下が現れたら、誰でも驚くだろう。


 そこで「ものもらいか?」と聞かないあたりが、王将軍の肝心なところで細やかな部分の表れである。

 一応小玉も、頑張って冷やしはしたのだ。しかし全然開けられなかった目が、多少開けられるようになったくらいにしか回復しなかった。


 小玉は口を開く。

 そして目がれている理由であり、ここに来た理由であることを述べる。

「母が死にました」


 王将軍がはっと息を飲んだ。

「それは……つまり、『一年』か?」

「はい」


 王将軍は額に手を当てて言った。

「そうか……とりあえずは、言わせてくれ。せんでのご母堂の冥福めいふくを祈る」

「ありがとうございます」

 いつになく生真面目に述べる王将軍に、小玉は深々と頭を下げた。



 馬上の小玉は、郊外の丘の上から帝都を振りかえっていた。

 一年間、あそこには戻らない。

 これから故郷に帰るのだ。待つ人が少なくなったあの地へ。

 けれども少なくなったとしても、まだいるのだということは、今の小玉にとってのかすかな慰めだった。

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