第77話 明慧の思案

 もうすぐ雪が降る。

 指先をじわじわ冷やす外気に、明慧めいけいはそんなことを思っていた。さっき旅立った文林ぶんりんはきっと寒いだろう。


「なんだ、あいつもう行ったのか?」

 声をかけられるよりずっと早く、相手が近づいてきた時点で、そこにいるのはわかっていたが、後ろからの声で、振り向く。なんだかずいぶんと着ぶくれた男がいた。


 ろんな目をする。この男は、暑いのも寒いのも駄目だという。明慧からしてみると、軟弱極まりない奴だ。


「お前、なんでそんな薄着でいられるわけ?」

 そして、相手から見れば自分は、おそろしく屈強に見えているだろう。この男からだけではなく、出会った人間のほとんどがそう思っているに違いないが。


 厚着した身を両手で抱えている彼は、見た目完全に女に見える。体形がわからないからだ。

 いつ見ても、自分とまるで違う存在だと思う。復卿ふくけいという男は。


 少なくとも自分は、彼のようにはなれない。小玉しょうぎょくの下僕には。

 それも、彼女の意思に絶対服従する型の。

 彼は細かなところでは気が利き、言われる前に動く人間だが、大局においては勝手に小玉の益になるかを推し量って物事を進めたりはしない。


 だから今回の左遷だって、彼は不満は口にしたものの、なにも動かなかった。彼女がそれを拒まなかったからだ。(疲れ切っていた彼女を休ませたいという意思はあったかもしれないが、そこまでは明慧の知ったことではない)

 そうでなければ、彼は最初から「彼」を排除していただろう。


 彼……文林という男は、女好きの男でさえよろめきかねないようなぼうの持ち主だった。ましてや、男のほうが好きという男にとっては振るいつきたくなるような魅力を放っていた。

 そうであるとどうなるか。

 たとえばこうなる。


 文林が小玉の部下になってほどないころであった。ある高官が彼に目をつけた。

 そして、いきなり小玉に要求してきた。端的にいえば、「俺にあいつのこと抱かせろ」と。

 小玉は、当時文林と限りなく不仲であったが、彼にはなにも言わずにかばった。彼女いわく、「それはそれ、これはこれ」なのだという……まったくもってそのとおりである。


 ともあれ、高官の命令を拒んだせいで、小玉はそいつの恨みを買い、嫌がらせを受けた。相手側としては、根負けした小玉が文林を差し出すだろうという思惑があったのだが、小玉はあまりへこたれなかった。もっとも、精のことは別だが。


 手始めとして、戦果をあげたのに昇進しなかったという件。

 ……本人は今に至るまで一切気にしていない。


 続いて、栄転と称した後宮への事実上の左遷。

 ……有事の際にはきちんと出兵し、しかもまさかのていお気に入りになるという事態。


 ある程度の馬鹿ならば、このあとも色々と失敗を重ねるのだろうが、さすがに宮中であくどく立ち回るやからは二回で方向性を変えた。

 すなわち、小玉と文林を引き離す方向に。


 小玉本人にちょっかいをかけつづけるのは危険だと判断したのだろう。なにしろ小玉は、一部とはいえ、軍上層部の人間に目をかけられている。


 特に、かつて従卒として仕えていたという相手、沈賢恭しんけんきょうは彼女の身の危険を隠然とだが排除していた。

 しかも宦官かんがんという立場として後宮に長く勤めていたため、暗いところから明るいところまでの人脈を持っており、その高官も沈賢恭を敵に回したくなかったのであろう。


 だから、ちまちました嫌がらせをするよりはと、思い切って小玉を田舎にどかんと飛ばした。


 高官本人にしてみると、若干けだったのではないだろうか。下手をすると沈賢恭がきばく。だが、幸か不幸か小玉はその話にけっこう喜んで乗り、直属の上司であるおう将軍の思惑も重なってその計画は見事に成功した。


 あとは、文林を手に入れるだけだったのであろうが、ここにきて、初めて事情を知った当の本人が牙を剥いた。

 文林にしてみると、とてつもなく屈辱的だっただろうなと明慧は冷静に思う。守るべき姫君のように大事にされていたのだ。そして、自分だけけ者にされていたのだ。

 だから、彼に当たり散らされても、明慧はまったく怒りを感じなかった。当然のことだと思ったからだ。復卿も動揺の色を見せなかった。


 その顔が驚きに満ちたのは、例の高官が失脚したときだ。なんでも汚職が暴露されたのだという。

 時期を考えると、文林がなんらかの手を回したに違いない。しかし、彼がどのような伝手つてを持っているというのか。帝都でも有数の豪商の出だとは聞いていたが……。

 高官および、その下で甘い汁を吸っていた輩が皆処刑されたとき、明慧は二の腕にうそ寒いものを感じた。夏だったのに。


 ともあれ、わかったことがある。文林は、明慧が思っている以上に底が知れない男であることだ。

 そして、小玉に執着していること。その度合いまでは知らないが、相当なものだと復卿が言っていた。

 小玉に心酔している者同士、気が合うのだろうか。でも多分、二人の心酔の方向性はまるで違う。


 復卿はきっと、小玉の意思のために死ぬであろう。

 そのとき、自分は少しだけ彼のために泣くだろう。


 文林はもしかしたら、自らの理想の小玉のために、彼女を窮地に、追い込むかもしれない。

 そのとき、自分はどうするだろうか。


 そこまで考えた明慧は、ため息を一つついてかぶりを振る。考えてもせんないことだ。その日まで自分が生きていることすらわからないというのに。まずは小玉が戻ってくるのを待つ。今のところ、それがすべてだ。


 戻ってきた彼女は、記憶に残っている最後の姿よりも少し、髪が伸びているはずだった。きっと彼女はすぐそれを切るのだろう。

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