第66話 最初の大仕事

 それは赴任二日目の朝のことであった。

 小玉しょうぎょくは執務室の窓の外から射す日の出の光を浴びながら迎えた。まぶしそうにしょぼしょぼさせる目の下にはうっすらと隈。


 絵に描いたような徹夜である。


 新しい部隊に来た直後なのだから忙しいのは当然なのだが、今回の小玉の忙しさはそのような生やさしいものではなかった。


 小玉は、酷使によりつきつきと痛みを感じる目頭をみながら言った。

「よくここまで放置できたもんだな……」

 それは独り言だったが、聞きつけた部下……昨日まで、ではなく、おとついまでのここの責任者……が声を震わせながら言った。

「おおお……申しわけございませんのう……小官のぉ、不徳のいたすところでぇ……げふごほっ」


 別に怒りで震えているわけではない。「名工の手によって目鼻が書かれた枯れ木」といった容貌ようぼうのじいさんなものだから、なんというかもう、存在自体が常時小刻みに震えているのである。

 息継ぎの度の「はひゅー、ふひゅー」という呼吸音がなんとも不吉で、いつぽっくり逝ってもおかしくないと、聞いているだけではらはらする。


「ああ、ご老体。一晩付きあわせて悪かった。いいから寝て」

 一度眠らせたらそのまま永眠しそうな心配があるが、かといって寝かせずにいたらそれはそれで死ぬだろう。


「はああぁ、ではぁ、これでぇ、休ませていただきますでのぅ」

 そう言ってじいさんはよろと立つと、腰を直角に曲げてよたよたと去っていった。一歩歩く度に大幅に体が左右に傾くので、見ていてはらはらすることこの上ない。

 つえを使わないのはあっぱれというべきか、そこまで歩きにくいならいっそ使えよというべきか。


 あんなご老体を完徹に付きあわせたことにたいして、良心のしゃくを覚えないわけではない。しかし、しかしである。


 誰もいなくなった部屋で、小玉は、昨日から何度もかきむしった頭をもうひとかきむしりして、どこか泣きそうな声で言った。

文林ぶんりんが恋しい……」

 言葉そのまんまの意味ではない。


 小玉は金勘定以外での事務的な処理は苦手である。これまで、彼女と近い立場で仕事をしていた人間百人に聞けば、九十七人くらいは同意するだろう。

 なお、残りの三人は、小玉より事務処理が苦手な人間である。元上司のおう将軍とか。


 金勘定に関して除外されるのは、主婦教育をみっちり受けてきたからだろう。細かい金のやりくりにかんしては、小玉は多分文林やたいよりうまい。


 そういう人間であるから、小玉は基本、事務処理に関しては普段、信頼のおける部下に一任しているし、報告は受けてもよほどのことがない限り、口を出そうとはしない。


 しかし、物事には限度というものがある。


 その部屋は、端的に言うと、足の踏み場しかなかった。

 よくぞここまでというくらいに積まれた物、物、物の間に、獣道のように一筋の谷間がある。

 しかし、前を向いて進めない。かにのように横ばいで歩まなければ、間違いなく色々なものが崩れ落ちる。


 そうして獣道を乗り越えた先に、責任者が鎮座する場所がほんの少しだけあるという寸法だ。

 前責任者がご老体であることもあいまって、これまで決済の印をもらいにいく者は、ほとんど秘境の奥に住む仙人に会いに行くような心境だったという。



 初めて秘境を目の当たりにした小玉は、部屋に入ろうとする足をそのままくるりと後ろに向けると、振りかえって言った。

「手のいてる奴、全員連れてきて」


 小玉は、今日からここで働くということに、秘境の住人になりたくないという以前に、命の危機を感じた。

 地震などがあろうものなら、物という物が、隣と折り重なりながら崩れ落ち、中にいる者を飲み込むだろう。そんな死に方は嫌すぎる。


 人を呼び、中にあるものをすべて運び出したとき、日はとっぷりとくれていた。


 その間に見たものを、小玉は教訓として心に刻みつけておこうと思う。

 部屋放置するとこうなるんだぞ、と。

 特に、元部下の独身者の連中に伝えてやりたかった。



 わたぼこりなどはまだかわいいものだった。

 積もりに積もった紙は一番下が腐り、悪臭を放っていた。

 謎のきのこが生えていた。

 生き物かなんなのかは不明だが、なんだか黄色いねばねばしたものも生えていた。

 物を動かす度に、黒い甲殻虫が飛び出し、それを追いかけて丸々太った鼠が飛び出てきた。

 さらになぜか猫も飛び出てきた。室内なのに、野生の世界だった。


「一匹見れば三十匹……」

 ぼそっとつぶやいた誰かに、満場一致で、

「忘れろ!」

 と叫んだ場面もあった。そんな法則は思い出したくもなかった。


 運び出したもので五つの部屋の床が完全に埋まった。内訳は、大別すると書類四割、生ごみ三割、燃えないごみ二割、処理方法以前に正体がわからないごみ一割だった。


 燃えないごみと正体不明ごみは、屈強な男たちが地面に深い穴を掘って片っ端から埋めていった。

 燃えるごみは、演習場の隅っこで盛大に燃やした。怪しい煙を発していた。


 問題は書類だった。

 いるものといらない物が完全に混在していたのだ。なぜか、去年の演習記録の下に、八年前の食材購入記録が重なっているという状態があたりまえの状態だった。


 唯一の救いは、前責任者だけは書類の位置を正確に把握していたということだ。あの部屋は、片付けられない方々によくある「本人にとっては整理されている状態」だったのである。


 したがって、小玉は前責任者を付き従えて、片っ端から書類を分類していった。中には、保管義務があるのに見つからないものがあるという事態も発生したが、おそらくは文字どおり腐り果てたのだろう。

 それについては、すっぱりとあきらめることにした。


 いらない書類の処理もまた困ったものだった。軍の記録なので、埋めるわけにはいかない。

 そもそも、文字が書かれている紙は神聖な物という扱いなので、専用の炉で焼かなければならない。そして、その炉は大きいものではない。


 そこで炉で燃やす係と、炉にいらない書類を運び込む係を決め、盛大に燃やした。生ごみも燃やしているので、そこら中がけむくなった。

 小玉は「別にそこらで燃やしてもいいんじゃないの」とは思うが、あくまで私見である。

 就任した直後に、優先順位の低いことでまで慣習を覆すのは、人望を考えると得策ではない。


 そうはいっても、別に小玉が就任初日から人望をなくしたというわけではない。いきなり大掃除を強要したにもかかわらず、兵士たちの顔はどこか穏やかだった。


 最後に「お疲れさま」と小玉が言ったとき、わりと上位の兵士が、なにかを悟ったような目で呟いたことが印象深い。

「いつかはやらねばならないことだったのです。それが今日という日だったというわけなのです」

 要は、この駐屯地にいる全員が、あの室内秘境にうんざりしていたようだった。



 小玉が受け入れられたことに関しては、それで説明はつく。それにしても、すんなり溶け込むことができたのに対し、違和感は覚えていたのだ。

 それはすぐに氷解したが。

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