第64話 少女、夫婦としての一歩
「わたくし、女になど生まれたくはなかったわ」
それは
そう言って唇をとがらせると、おつきの者たちは皆困ったように言う。
「なにをおっしゃいます」
「
それがつまらない。
いや、なにもかもがつまらない。
自分のことを甘やかしているが、理不尽な父。父の
あれをしてはいけない。
これをしてはいけない。
それは必ずしなくてはならない。
頭がどうかなってしまいそうだ。そして、常に焦燥感に駆られている。こんなことでいいわけがないという気持ち。
自分の中のそれは多分獣の形をとっている。たまに暴れ出して手がつけられなくなる。そして自分自身もまた、獣と一緒に荒れ狂う。
そんなときに向けられる、周囲の者の目がまたたまらなく嫌だった。またか、という目。仕方がない、という目。
――誰も自分の心などわかってくれない!
けれど、先だって雯凰の護衛となった武官――
いつのころだったか、かんしゃくを起こした雯凰が「わたくしのことなんて誰もわかってくれないのよ!」と叫ぶと、彼女はなだめるどころか真顔でこう言ってのけた。
「いや、それはそうですよ。というか、誰もがわかっちゃ大変ですよ」
「なぜ!?」
雯凰は驚いた。彼女だったら、きっとわかってくれるだろうと思っていたのに。しかし、その
「だって、傷がついちゃいます」
「は!?」
なにを言っているのかわからなかった雯凰の前に、小玉が
「心っていうのは……自分にとって大事な宝物だと思うんです。しかも、とっても柔らかくて、もろいものです。しまっておいたほうがいいんじゃないかなって思います」
まるで雯凰の目を
「でも、ずっとしまいっぱなしなんて、もったいないわ」
唇をとがらせた雯凰に、小玉は「そうですね!」と言って
「だから大事な人ができたら、見せてあげるんですよ」
「大事な人?」
「この人にだったら見せても大丈夫だなって思える人です」
「その人に壊されたらどうするの?」
少し意地悪な気持ちで問いかける雯凰に、小玉は真面目な顔を向ける。
「この人にだったら壊されてもいいと思えるくらい、大事な人だったらいいんです」
「それって、変じゃない!」
「変ですねえ。でもきっと、帝姫さまがそう思える相手は、帝姫さまの宝物を壊すような真似はしません。きっと大事にしてくれるはずです」
へりくつだわ、と思った。けれども雯凰の口から出たのは、なんだか期待するような声だった。
「……そうかしら」
「そうですよ」
小玉は頷くと、ささやくように言う。
「だから殿下、その心は大事な人に会って、その人が受けとってくれるまで、大事に包んでとっておきましょうね」
この前なめした皮で包んだこまや笛みたいに……そう言って小玉は笑った。そんな彼女に抱きしめてもらいたいと思った。
そのときから、雯凰の大事な人は彼女になった。
小玉の言っていたことは確かに正しかった。
彼女は間違いなく、自分の宝物を壊さない。けれども受けとってもくれないのだ。その事実は、雯凰の胸を締めつける。
小玉が大事な人になって以来、雯凰は口癖をもう言わなかった。
――わたくし、女になど生まれたくはなかったわ。
今となってはその言葉を思い浮かべるだけで、
皇帝であった父の死は、雯凰の生活に変化をもたらした……悪い意味で。
父帝の跡を継いだのは、雯凰の異母兄だ。彼は雯凰のことをよく思っておらず、父帝の大葬が終わるや否や、雯凰を遠方の皇族のもとに嫁がせた。
明らかに厄介ばらいだった。
それは屈辱的なことだった。勝手に結婚相手が決められたことはまだいい。だが雯凰は仮にも皇帝の嫡出の娘である。
それが父の喪が明けるよりも早く嫁に行くなど……普通ならば考えられない。
それでも雯凰がぐっとこらえたのは、自分の反発がなにを招くかわかっていたからだ。
父帝亡き今、後宮で雯凰の力はないに等しい。雯凰がなにかしでかしてしまえば、その余波は周囲に及ぶ。もちろん小玉にも。
それに未婚の帝姫として後宮に
小玉の左遷は、雯凰の意向にも沿うものだった。
彼女が故なく降格されるのは嫌であったが、かといって自分の側付きとして留めるつもりはなかった。誰かの妻になる自分を見られたくはなかった。
それになにより、彼女を一王領に押しこめるような真似もしたくはなかったのだ。彼女がそれを望まないことを、よくわかっていたから。
それでも
誰かの妻になった自分は一緒にいたくない……そんな気持ちと矛盾しているのはわかっている。けれども、誰かの妻になるまでは一緒にいたかったのだ。
だって、もしかしたらもう二度と会うこともないのだから。
嫁ぎ先に到着したとき、彼女は笑って言った。
「おめでとうございます、帝姫さま。どうかお元気で」
小玉は雯凰を嫁ぎ先に送り届けたら、それまでの任を解かれ、別の地へ赴任することになっていた。
「…………」
その
小玉が立ち去ったあと、今や王妃となった帝姫は、自分に与えられた部屋に駆け込み、むせび泣いた。
胸の中に渦巻いていた言葉は、かつての口癖と少し違った。
――ああ、わたくし、男に生まれつきたかった!
そんな彼女の部屋に、少年の声が響いた。
「……一緒だな」
まだ声変わりを迎える前の、澄んだ声。
雯凰が顔をあげると、そこには夫がいた。つい先ほど初めて会ったばかりの相手が、帝姫である自分の部屋に、勝手に。
「……一緒?」
それでも雯凰が「無礼者」と叫ばなかったのは、彼の目にいっぱい涙が
「……私も今、泣きたいくらい悲しいんだ」
言いながら、彼の頬を涙が伝う。雯凰はそのことに、なぜかとても安心した。
異境の地で、初めて仲間を見つけた気持ちだった。
「そう……では、わたくしと一緒に泣けばいいわ」
そうして雯凰と、彼女よりほんのちょっと年上の
結果的に、雯凰にとって夫は、自分の宝物を見せてあげられるほどの相手にはならなかった。
だが、自分がどんな宝物を持っているか聞かせてあげられるくらいには特別な存在にはなったのである。
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