第63話 ある日の朝、文林は

文林ぶんりん

 呼ばれて起きたが、目覚めは最悪だった。

 頭が痛い。吐き気がする。しかし、妙にすっきりした気分もあって、なにがなんだかわからない。ゆっくりと目を開け……。

「……は?」

 視界に飛び込んだものを知覚して、さらになにがなんだかわからなくなった。


 自分に向かって土下座する上官。


 そんなものを見る機会など、今後一切ないといえる。そんな希有けうな状況に加えて、自分が裸で、妙に体がべとついているという現実がなにを示しているのか。

 聡明をもってなる文林だが、全然わからなかった。単に経験がなかったからではあるが。


小玉しょうぎょく……これは……」

「えー……あー……大変、申し上げにくい、ことでございますが」


 ここまで歯切れの悪い小玉に初めてお目にかかる。彼女は土下座の状態から微動だにせず、言葉を続ける。

「わたくし、貴殿を……えーその、『いただいてしまった』ようでございまして」

 ……それは、

「いや、わかるように言ってくれないか小玉」


 本気でわからなかった。


 そのとき、小玉が「察して!」とか「それをあたしに言わせるの!」と思ったかどうかは誰にもわからない。

 どこまでもこのような事態に不慣れな文林だった。


 小玉はしばしの間沈黙した。言葉を探すかのように、「あー」だの「うー」だのつぶやいたあと、はっきりと言い放った。


「ごめん、童貞もらいました」


 文林は思った。確かに「わかるように言ってくれ」とは言ったが、そこまではっきりと言えとは言っていない……と。

 そこで取り乱さなかったのは、文林の誇りが許さなかったからにほかならない。

「詳しく、説明してもらおうか」


「実は……」

 小玉は重々しく頷くと、口を開いた。


「……どうしてこうなったのかわかんない」

「ふざけんなよ、お前!」

 さすがに頭に血が上り、手近にあった枕をぶん投げた。ぼすっと音を立てて、小玉の顔面に激突する。


 その事実に幾分か頭が冷えた。


 しまった、と思った。いくら小玉でも女性に一方的に暴力をふるうことは、やっていいことではない。特に今、彼女は自分に申しわけないと思っていたから、あえてよけなかったのだ。

 それがわかってしまっただけに、文林は自分が狭量な男に感じた。


「あ、いや、すまん。痛くなかったか? あと、わからないって?」

「やー、本当にごめん。酒飲みすぎて記憶飛んだ」

 昨日はそんなに飲んでいただろうか……と記憶をさかのぼり、文林は背筋に冷や汗を感じた。


 自分も、覚えて、いない。


「そういうわけで、やっちゃったことは状況的にわかるんだけど、原因はわからない。あとは、あんたの記憶がた、より……」


 小玉の言葉が、不自然に途切れて止まった。


「……もしかして、あんたも覚えてない?」

「……」

 無言で頷くと、小玉は頭を抱えた。「最低な状況だな……」という呟きが文林の耳に飛び込んできた。

 まったくの同感だった。


 少しの沈黙を経て、小玉は顔をあげると言った。

「とりあえず……あんた服着てくれる?」

 そう、小玉はきっちり服を着ているが、文林は全裸のままだった。そこに思い至らなかったあたり、なんだかんだいって動揺していたらしかった。


 体の汚れをぬぐい、服を身につけると、部屋の外で待っていた小玉が仏頂面で戻って来た。

「ところで、ここは?」

「どっかの若干怪しげな宿」

「それは……」

 まずいんじゃないかと思ったが、小玉が握りこぶしを作って言った内容に、その思いは一瞬で氷解した。


れんのところでいたさなくてよかった……!」

「まったくだな!」


 昨日一緒に酒を飲んだ店は、小玉の知己が営んでいる店だった。もちろん文林も面識がある。

 そのような場所で事に及んでしまっていたかもしれないということを思えば、現状のなんと素晴らしいことか。


「しかし、どうするんだ? これから……」

 着替えながら文林がずっと思っていたのは、二人のこれからの関係だった。これはもう、自分が責任をとるべきではないのか? いや、確実にそうだろう。


「決まってるじゃない」

 案の定、小玉もなにをあたりまえのことを言っているのだと言うように鼻で笑った。

 つまり、そういうことだ。なんとなく頬が熱くなってくる。

「そ、そうだな。俺は別に……」


 だが、

「もちろん、今回のことはなかったことにする!」

 小玉の台詞せりふに、思考が瞬間凍結された。


「お前、今、なに言った……?」

「いや、だってそうでしょ? 二人の間でまあどうせろくな会話があったとは思えないけど、どんな展開でこうなったのかお互い覚えてないし、実際にやってるときのことも覚えてないし、これはもう、『なかったことにしちゃいなよ!』っていう酒の神さまの思し召しだと思うのよ」


「その酒の神のせいで、俺たちこうなったんじゃないのか?」

「つまり、酒の神さまは、お互い一晩だけ欲求不満を解消させるつもりだったのよ!」


「俺は別に欲求不満じゃなかった!」

「じゃああたしの欲求不満が解消されたってことにすればいいじゃない!」


「お前欲求不満だったのか?」

「あー、そんな自覚なかったけど、今すっごくすっきりしてるから、そうだったんじゃない?」


「すっき……! お前、いくらなんでもはしたないだろ!」

「今更すぎるわ!」


 二人とも肩で息をしはじめて、ふと我に返った。


「駄目だ、話それてる」

「そうだな、戻そう……お前は別に責任とるような問題に発展させたくないんだな?」


 小玉は片手で前髪をかきあげて答えた。

「そうね。それ言っちゃうと、あたしこれまで付きあってた男たち全員と結婚することになるし」

「……そうか」

 少しいらっとした。仮にもさっき寝たばかりの相手に、過去の男性遍歴を話すかお前?


「それにあたし、来月異動になるし」

「おい、そこでその話持ってくるか」

「大事な話でしょ。あー……でも」

「なんだ?」

 その気持ちのまま、言いよどむ小玉に言葉の先を促すと、彼女は少し困ったような顔をしながら言った。


「子どもができてたら、さすがにこの先のこと、相談させて、ね」

 子ども。関係を持った以上、できる可能性はあるわけで。

「そうか……そうだな。ああ」


 結局、そんな相談はされなかったのだけれども。

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