第三部

第51話 突然の人事

 小玉しょうぎょくがさらさらと紙に文字を書きつけている。

 その字はお世辞にも美しいものではないが、読解が可能という点では十分文字の機能を果たしている。


 彼女に文字を教えてもうかなり経つ。


 もうだいぶ堂に入ったものだ。文林ぶんりんから見ても、彼女の上達はめざましかった。


 たまに、近くに一人の青年がいないことを思って、ちくりと胸が痛むものの。


 そんな文林に、小玉が呼びかける。文林の気持ちを察したかのような、絶妙な間合いだった。

「ねーえ、文林」

「なんだ」

 文林は気のない声で答えた。彼女の語調から、大した内容でないことは読み取れていた。実際、大した内容ではなかった。



「あんたさ、女より男が好きな人?」

 が、文林を激怒させるものではあった。



「寝言は寝て言え!」

 仮にも上司に向かって暴言をはいた文林だが、後悔などみじんもない。周囲の人間も責めない。

 というか、公衆の面前でそのようなことを口に出す小玉のほうこそ、責められるべきだと思う。


 そんなふうに憤慨している文林の視界の端っこで、復卿ふくけいが必死に笑いをこらえているのが見える。ほっぺたが膨らんでいるのが、なんというかまあ、絶対に可愛いと思えない。率直に言って気持ち悪い。


「あー、ごめん。気にしないで」

「気になるわ! おまえは! どこを見て!」

「いや、むしろなにも見てないからだよ……あんたが女と仲よくしているところ自体見たことない」

「…………」

 その言いぶんに、文林はちょっと「一理あるな」と思ってしまった。だがそれを素直に認めるわけにはいかない。


「……男とも『仲よく』したこともないだろう!」

「復卿と仲いいじゃん」

「いやあの……そこで俺を引き合いに出すのやめてくれない?」

 ここで真剣に嫌そうな顔になった復卿が口をはさむ。

「まったくだ」

 文林も同調する。

 男二人に非難された小玉は、ぽりぽりと頭をかき、やや逡巡しゅんじゅんしながら答えた。

「あー……ん……ごめんね。あんたのこといいなって人いたから……まあ、なんていうか、紹介しようかどうか迷ったんだよね。でもその感じだとね。やめとくわ」

「そうしてくれ」

 まだ声に怒りを含ませながら、それでも話を続けたくなくて、文林はばっさりと切り捨てた。それで終わりだと思っていた。

 

        ※


 小玉は見るからに気の進まない足取りで、宮城を進んでいた。


 なぜって今日は非番の日だから。


 戦場はともかく、宮城で通常業務に従事している際は、武官にも休日というものはある。

 もっとも、決められたとおりに休みを取れるわけがないというのは、お約束と言っても過言ではない。

 それにのっとり、小玉のこの休日も久しぶりのものだった。


 そんな非番の日にどうしておう将軍の所に行ったのかというと、ちょうの直後に呼びとめられたからだ。

 朝衙は一言で言えば超大規模な朝礼である。非番だろうがこの時間だけは必ず出仕しなければならない。


 もちろんそれが終わったら自由で、家で二度寝しても昼間から酒飲んでも問題はない。だから小玉も、久々の休みにうきうきしていたが……、



「あーすまん。用があるから、ちょっと来てくれないか」

 普段は非番の日に頼みごとなんかしない上官に、申しわけなさそうに言われて、「やだー」と言える軍人がいたら、お目にかかりたいものだ。



 円滑な人間関係のためには、重要なのは我慢である。

「……いいですよ」

 小玉は答えた……一瞬天を仰いで目を閉じてから。

 その一瞬の間に、まぶたの裏にはやりたかったあれやこれやの光景が流れた。

 そんな彼女の反応に、王将軍はさらに低姿勢になった。よくわからない迫力に圧されたとでもいうような態度だった。


 ここで一歩も譲らず嫌われれば、階級降格もありえるのかな……と小玉も思うことはあるが、実行には移さずにいる。

 思えば出世したいわけではないのに、それを避けるための努力をしない自分にも非はあるのだろうか。

 王将軍の部屋に行くと、なぜか米中郎将べいちゅうろうしょうが待っていた。いや、王将軍の副官なので、いてもおかしくないのだが、彼も今日は非番だったはずだ。

 動向表見間違えたかなと頭をひねる彼女の顔を見て、米中郎将はしみじみとため息をつく。


 すごく不安感をかきたてられる。

 でもちょっと期待も。


「あたし、なんかしましたか?」

 それで降格とか……ありそうだ。先日せいの件でも色々と動いたから。

 そんないささか苦い思いを伴う小玉に、米中郎将は謎かけのような返事をした。

「したのは違う人間なんだ……」

「は?」

 さすがにそれだけでは、理解できない。


 疑問を顔一杯に浮かべる小玉に、王将軍が米中郎将のあとを引きとって語りはじめる。

「まだ、正式に決まった話じゃないんだがな」

 重々しい口調で。



「はぁ!? 異動!?」

 ……と、小玉は言わなかった。


 

 あっさりと「そうなんですか」とのみ答えた小玉に、王将軍、米中郎将は顔を見あわせてから、首を横に振った。

「驚くと思ってたんだけどなあ」

「今回も予想を裏切ってくれましたね」

「いや、そんなこと言われましても」

 なにを期待していたのだ、あなたたちは、という態度で小玉は苦言を呈する。


「あんまないことだからさー、びっくりすると思って、今のうちに言っとこうと思ったのになー」

 不満げに唇をとがらせる王将軍。彼はいい年をしたおっさんである。


「まあ、そこまで取り乱す様子もないようなので、私は家に帰ります」

 一方、あっさりときびすを返す米中郎将。おそらく彼は、小玉のことを心配して同席したのではない。びっくりする様子を見物したかっただけだろうと小玉は踏んでいる。


「おう、おつかれー」

「おつかれでしたー」

 米中郎将が退室するのを、小玉は王将軍と一緒に見送った。いかにも武官的な声音で。


 そして小玉は、「さて」と呟いた。

玉鈐ぎょくけんですか……またなんで古巣に?」

「あー、それなんだけどなー」



 玉鈐衛ぎょくけんえいは、小玉が軍人として初めて所属した衛である。

 ただし、彼女が以前所属していたのは、玉鈐衛ぎょくけんえいなので、厳密にいえば違うところなのだが、この場合においては大した問題ではない。

 この衛は、宮城の西面において警備をするもので、位置的に後宮の警備も担当している。女性の武官が多いところだ。

 出征の際には、各衛から部隊が派遣され、一つの軍隊を構成するのだが、玉鈐衛から徴発される部隊は一番少ない。つまり、実戦向きの武官が少ない衛である。

 昔ならともかく、今の小玉は実戦向きの武官だ。衛をまたいでの異動というのも異様だが、人選を考えるとさらに異様だ……といってもそのわりに、小玉はころころと異動しているのだが、まあそれはそれとして。



 王将軍は小玉のもっともな疑問に、なんだか嫌そうな言葉で答える。

「なんかさー、試験的に新しい部隊作るんだとさ」

「玉鈐で?」


 なんでも、皇族女性の身辺を守る専門の部隊を、試験的に設置することになったのだという。


 それを聞いた小玉は首をかしげた。

「んー? それ奉宸衛ほうしんえいの仕事っぽいじゃないですか?」

 奉宸衛は、室内における皇帝の身辺警護を担当している。そこからちょちょっと人材引き抜けば……と思ったところで、王将軍が首を横に振った。

「わかってないねえ、お前。皇族女性の身辺を守るんだぞ。男なんて近づけさせられないだろ」


 なお、奉宸衛には男しかいない。


「あ、それは、確かに!」

 貴婦人の護衛なので、当然女性だけで構成されなければならない。その中で、上に立てるような人材が小玉しかいないのだという。

「えー……いやまあ、そんな事情だったら、わかるっちゃわかりますけど」

 もちろん小玉と同程度の位階の女性武官がいるにはいる。だが皆、後方支援で出世した年かさの面々だ。

 戦闘に慣れて、一定以上の位を持っている女性武官は、本当に小玉しか「いない」。

「でもそういう新しいのって、もうちょっと女性陣の層が厚くなってから、作ったほうがいいと思うんですけど」

「その気持ちわかる! けど、これ、ほとんど勅命なんだ」

「えー」

 無念! とでも言いたげな王将軍の言葉に、小玉は、女性にあるまじき顔のしかめ方をした。

 でも「勅命」の一言で納得もしてしまった。当代の皇帝からの命令には、ろくなものがないというのは、もはや定説になっているのだ。



 そもそも、なぜそれまで皇族女性の身辺を守る専門の部隊が存在しなかったのかというと、単純にその必要がなかったからだ。

 高貴な女性は、外に出るものではない。したがって後宮のまわりを警備するだけで、それなりにその身は守れたのだ。

 それだと後宮内の愛憎劇に対しては、ほとんど無力なのだが、そこまでは責任は持てませんというのが、軍上層部の見解であった。


 だが、ここで一人の少女がかかわってくる。

 皇帝の一人娘である。


 この時代、皇帝の娘をていと呼ぶのだが、この帝姫、高貴な身分にかかわらずお転婆な少女だった。

 父親はそんな娘に甘かった。そして、心配性だった。


 ……大体これで事情が出そろった。


「……まあ、なんというか、お姫さまにも色んな不自由があるんだとは思いますがね……」

 ――娘のわがままに常時付きあえて、なおかつその身を守れるお守りが欲しかったんだなあ……。


 口に出したら、若干どころではなく不敬罪なので、心中にのみとどめておく。


「俺も正直言って、おまえ手放すのは本当に本当にほんとーにっ、嫌なんだけどな!」

 なんといっても、今は人手が足りない。度重なる出兵で、将兵は疲労している。人数自体少ない。


 そして、ほぼ確実に、近々また戦があるだろう。


「あたしの部下たちについては、どうなりますか?」

「悪いが、置いていってもらう」

「そうですよね……」

 文林が自分の下についたときの比ではないくらい拒否権がないのは、小玉にもわかる。だが、心残りがある。

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