第50話 きれいごとも捨てる決意
一を聞いて、十は無理でも五か六は知る
「……今、なんて言った?」
小玉は青ざめた顔で、同じ言葉を繰り返してくれた。
「
文林は口を何度か開閉し……なんのひねりもない言葉を発した。
「……なぜ?」
「前を、横切ったの、あいつ」
小玉の言葉は圧倒的に足りなかったが、それで文林は理解できた。
精は誰か身分の高い人間の前を横切った。
そしてしょっ引かれ、殺された。
「誰だ、それは」
「言えない」
「……皇族がらみか?」
いくら無礼を働いたといっても、すぐに人一人を殺せるほどの権限を持つ者はめったにいない。皇族、あるいは皇帝の
小玉は特になにも言わなかった。
反応もしなかった。
それこそが、文林が思うとおりであると示した。
「だが……いくら身分が高くても、人一人だぞ! まず投獄して……そこからだろう! 司法は……そのためにあるはずだ!」
「でも、そのために動いていないのよ」
小玉は瞬きをしなかった。
彼女の手が伸びて、文林の腕を掴んだ。
「なに……?」
「動いちゃ駄目よ、文林」
ぐっと力が込められる。
「この国はもうおかしいの。下手したら、あんたが死ぬ」
「おかしいだろう!」
かっと頭に血が上った。小玉の手を振り払おうとするが、彼女の手は離れなかった。
「こんなの間違っている、汚い!」
さらに力を込めて再び振り払い……それは成功した。しかし文林の腕は、勢いあまって小玉の顔面を見事に直撃した。
あ……と思うより速く、今度は小玉の拳が文林の顔に直撃した。
「そのとおりだよ畜生!」
という叫びと共に。
文林は思いっきり倒れた。言葉を失って小玉を見上げる。彼女は相変わらず瞬きをしなかった。その理由を悟る。彼女の目にはうっすらと涙が膜を張っている。だから目が乾かないのだ。瞬きをしないのだ。
小玉は
「きれいごとを……あたしが、きれいごとを嫌いだとでも思ってんの!? 大好きだよ!
文林は半ば呆然と、まくしたてる小玉を見上げた。
「でも、きれいごとじゃ救えない……なのに、きれいごと以外の手を使っても助けられない……あたしの部下は、あたしが守んなきゃいけないのに」
小玉はうつむいて、
「畜生、畜生……」
「……すまなかった」
「あんたが謝ることじゃないわよ。あとこれ、返す」
放り投げられたものは、文林の
このときの文林はわからなかった。
この印綬を小玉が取り戻すために、どれほどの苦労をしたのかということを。
無礼を働いた者の手に握られたそれが、文林のものだということはすぐに特定できる。下手をすればとばっちりを食らう可能性もあったのだ。
精を助けられなくても、せめて文林には累が及ばぬようにと動いた小玉が負った火の粉は、やがて彼女に大やけどをもたらす可能性があったが、小玉は彼にはなにも言わなかった。
言ったのは、これだけ。
「組み手したいの……あんたちょっと付きあって」
「わかった」
武器を持たずに行う組み手は、最終的にただの乱闘になった。お互い容赦なく相手を殴り、
文林は生まれて初めて、遠慮なく女を殴った。そしてそれを後悔しなかった。
小玉もそれを求めているのだと、よくわかった。
さんざん殴り合い、お互い力尽きて地面に転がった。
肩で息をしながら、向かい合うかたちで二人は寝そべった。
「……強くなってやる」
「小玉……?」
「部下を守れる人間になってやる」
その「守る部下」に自分が含まれていることを、文林はまだ意識していなかった。
「出世したいのか?」
「したくない」
文林の問いに、小玉はきっぱりと否定した。
「でも、そういう人間になるために、そうなるんだったら……そうなっても後悔しない。出世は方法じゃない、結果なんだ」
文林は上半身を起こした。見下ろすと小玉は目を閉じていた。目尻に涙が浮いていた。
「精……」
震える
文林は不意に思った。
――この女が上り詰めるとき、自分はその側にいる。いなくてはならない。
それが今、彼が武官である理由だった。
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