第49話 範精という青年

 戦を経てしょうぎょくとの関係が若干改善されたと思われたころ、それは起こった。


 その日、ぶんりんは小玉に文字を教えていた。

 正式に彼が小玉に教えてあげることが、決まったのである。

 したがって文林は、自宅から幼い頃自分が使っていた教材を持ち出して、ほとんど毎日先生をやっていた。


 大まじめに画数の少ない漢字を書きとっている小玉の姿は、すでにそれらを完全に身につけている文林にとっては違和感のあるものだった。

 だが、それもそのうちに慣れた。


「できた、はいこれ」

 小玉が今日のぶんを差し出す。それにざっと目をとおし、文林は率直な意見を述べた。

「案外に飲み込みが早いな」

 いや、「案外」でもないか。元々独学で頑張っていただけに、素地もやる気もあるのだから、当然の結果なのかもしれない。

「ほんと? うれしい!」

 こういうところ、小玉は実に素直な態度をとるということを、最近知った。


「最近ね、実家からの手紙、自分で読めるようになったの。ちょっとだし、まだ書けないけど」

 小玉はにこにこ笑いながら言う。

「早く自分で手紙を書けるようになりたいし、そのうち兵法書も読んでみたいなあ」

「すぐできるさ」

 これはお世辞ではない。本当にそう思ってのことだ。自分が色々と教えるようになってから、文林は小玉の頭の回転の速さに舌を巻くことがままあった。



 そんな師弟関係としては中々うまくいっている二人の間に、のんびりとした声がかかる。



「いいなあ。俺も褒められたいです」

 小玉の隣にいる青年――はんせいのものだった。

 なぜか小玉と一緒に書きとりを行っている彼は、小玉の従卒だった。

 小玉にくっついている流れで、一緒に勉強をしているのである。べつに強制をしているわけではない。


 精は文林より年下だった――数か月だけ。


 しかし、文林にとってはその数か月がけっこう大事だった。若くして武科挙に合格した文林は、周囲に同年代が少ないのである。

 そのあたり、小玉も同じような悩みを抱えているのだが、彼女は同格の者はともかく、部下たちは同じ年頃のものが揃っているので、その点については文林よりましな立場にいる。

 文林本人は意識していないが、彼は精に対してちょいちょいお兄さんぶるようになっていた。今の発言に対しても、きっちりと返す。

「じゃあ、真面目にやれって」

「やってますよー」

 ぴしゃりと言われたにもかかわらずのほほんと笑って言う彼は、言葉どおり真面目にはやっている。ただ全体的に動作はのろい。動作自体はきびきびとしている小玉に比べると、余計にそう見える。

 元々彼は軍に入りたくて入ったわけではないのだという。食うに困って、身売り同然でやってきた彼は、明らかに武官には向いていなかった。

 そんな彼を拾い上げたのが小玉である。


「なんかねー、立場が自分と重なってほうっておけなかったんだよね。わかりやすくいえば同情ですわ」

 と語る彼女から、初めて彼女自身が軍に入ったときの経緯を聞いた。そのことを、文林は忘れられない。彼にとって未知の世界の出来事だったのだ。


 小玉も苦労しているのだということ、そして似たような境遇であっても、雲泥の差の階級であること――それはつまり、小玉の才能が群を抜いているのだということ。


 それらのことは、文林に色々なことを考えさせた。そのことも、小玉との口げんかの回数を格段に減らしたのだった。

 勉強会のあと、文林は小玉と精と連れだって宮城の外へと向かった。

 今日は思ったよりも長引いたため、すでに外はだいぶ暗かった。


「べつに送らなくてもいいのに」

「そんなわけにもいかないわよ。あんた美人さんだから。ね、精」

「うーん……」

 精は困ったようにちらっと文林のほうを見る。彼はのんびりしているが、案外に場の雰囲気を読める男だった。

「襲われたら困るでしょ?」

「張り倒すぞ」

 けっこう本気で言ったのがわかったのか、小玉がごめんごめんと笑った。


「でも。本当に泊まってかなくていいの。こういうときのために、宿舎一室空けてあるのに」

「いや、いい。明日が母の命日だから、今日のうちに家についておきたい」

「あ、そうだったんだ。ごめん」

 心底申し訳なさそうに言う小玉に、なんとなく認識のを覚える。

 文林にしてみれば一つの行事でしかない事柄なのだが、それを口に出さないことを彼は最近覚えた。自分に理解できないものが、不正義と同義ではない。そのことを最近よく考えるようになった。

「あ……」

「どうしたの?」

 ふと立ち止まった文林の顔を、小玉と精がのぞき込む。


「いや……いんじゅを忘れた」

「それ大事じゃん!」

 今日、精が硯をひっくり返し、中身が見事に文林にひっかかった。それを片付けたり、着替えたりだのしていたため、今日は遅くなったのである。


「急ぐとろくなことにならないな」

 舌打ちする文林に、小玉が珍しく真剣な顔になる。

「どうする? 今から戻ってまた来ると、門完全に閉まっちゃうわよ」

 印綬は常に持っていなくてはいけないものだ。もし身から離していることが発覚したら、それなりの処分を受ける。


「あっ、俺……取ってきます!」

 精がここで声をあげた。身を翻し、来た道を駆け戻る。いつものんびりしているわりに速かった。

「どうする? 行かせる?」

「ああ……頼むことにする」

「わかった。精ー! 転ぶんじゃないわよー!」

 その途端、視界の先で精が転んだ。小玉と文林は揃って額に手を当てて「ああ……」と声をあげた。

「あいつに任せて大丈夫かな……」

「まあ、どこにあるか自体はわかってるから、大丈夫だろう」

「そうね、なんだかんだであいつ、戦場でもこれまで生き残ってきたしね……」

 そういえばそうだった。常の彼を思うと、信じられない幸運である。

 もしかしたら彼に隠れた実力があるかもしれないとは、かけらも想像しない文林だった。


 待つ間、手持ちぶさただったので、なんとなく精の話をする。


「あいつは、このまま従卒の身分に置くのか」

「それね。あたしも悩んでる。だって精、絶対武官に向いてないもの」

 文林は小玉の顔を思わず見た。上官本人が言っちゃっていいのか。

「もう少しお金貯めさせてから、退役を勧めようと思ってんの。商売とかする元手になるくらい。あと学ね。最低限文字の読み書きできたら、代書屋とかでも食べていけるんじゃないかなって思って」

「それで勉強に付きあわせてたのか……」


 なぜ小玉が精について、一緒に勉強する許可を出したのかを、文林は初めて知った。


「うん。なんだかんだで、あたし公私混同しちゃってるわね」

 小玉はちょう気味にぽりぽりと頬をかいた。

「べつに……将来退役するかもしれないが。今は武官だろ。それに教えることについては、なんの問題もないだろ」

 言っておくが文林には慰めるつもりなどない。ないったらない。

「うん……精遅いねー」

「遅いな……」


 あえて話をそらしているわけではない。本当に遅い。


「もう時間になるわよ」

「そうだな……」

 文林はまゆをひそめた。そんな彼に、小玉は言う。

「いいわ、あんた門から出て。印綬はあたしが預かっとく。上官預かりってすれば、体裁は整うでしょう」

「いいのか?」

「そうだな……あたしが仕事怠けてため込んでたから、あんたの印を必要な書類のために、預かって仕事してたってことにすれば」

「それ、お前がべい中郎将に怒られるだろう」

「いいよ、慣れっこだし。それに米中郎将って怒ったあと、十回に一回は飴くれるんだよね。そろそろ十回目だから」


 どこぞの商店街のおまけか。


「じゃあ……じゃあ頼む」

「うん、またね。明日……はお休みだから、あさってか」

「ああ」

 そう言って手を振る小玉に、軽く手をあげて返す。宮城の外に向かう文林は、翌々日何事もなく小玉に会えることを疑いもしていなかった。



 実際、小玉には会えた。

 精には会えなかった。

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