第40話 戦場の洗礼

 ――そう、そんなこともあったな。

 

 つい先日のことを思い出しながら、ぶんりんは物陰でかぶとを脱ぐ。

 いまだ乾かない血液がぽたぽたとしたたり、文林を汚す。だが、すでに血まみれの体に、多少血が加わったところで、外観に大きな変化はなかった。

 あらわになった髪が風になぶられると、かすかに心地よい。ふと、これまた先日の上官の言を思い出す。


 ――なるほど、確かに髪が短いと楽かもしれないな。


 文林は納得した気分で内心うなずいた。だからといって、しょうぎょくの断髪が正しいとは思えないが、短髪であることに利点があることは認めよう。

 本当はそんなことを思っている場合ではない。だが、今は思考をどうでもよい方向に向けていないと……吐き気を覚えた文林は、意識を再び内側にそっと向けた。


 文林は戦うことが初めてではなかった。その容姿からならず者に目をつけられたことは数知れずあり、それを自力で切り抜けるだけの手腕もあった。人の命を奪ったこともあるし、初めて殺したときも平静を保っていられた。

 荒事には慣れているつもりだったし、その自負に関してはけっして過大評価ではなかった。


 だが、戦場は荒事とはまったく違う次元のものだった。これまで文林が経験してきた戦いは、自分に危害を加えようとする者に対する反撃というかたちがほとんどであった。また、戦いを終え、数歩歩けば法と秩序に守られた世界に戻った。


 だが、ここでは生、名利、あるいは他のなにかの欲求によって研ぎ澄まされた殺気が、ただひたすらにぶつかりあう。そしてそれがどこまでも満ちている世界だった。


 どうやら自分は甘かったらしい。なにもかもに腹が立つ。自分の甘さ、そして自分を過大評価していたということ。

 こんなことで、と文林は忌ま忌ましさに舌打ちした。

 こんなことで自分は上まで行けるのだろうか。もっとも身近にいる上官の振る舞いを見るにつけ、その思いは強まった。冷静さを保ち、それでいて下の者の士気を鼓舞する明るさを保っている。それに比べて自分はどうだろう。

 ぎり、と歯ぎしりをし……いきなり目の前に突き出されたものに、目を見開いた。


 なぜか、おけ


 その桶を持つ手をたどって目線を上に向ければ、そこにはふくけいがいた。

 さすがに戦場でまで女装はしないだろうと思っていたが、きっちり髪を結い上げて頭に色の付いた布を巻いている。実に徹底している。


「ほら、吐け」

「……なんで」

 吐き気があることがわかったのか。

 それを問うと、復卿はあきれた顔をした。

「お前。明らかに『吐きたいです』って顔色してっぞ」

 もしかしてそれで隠してるつもりだったのかと言われ、文林は突っ伏しそうになった。隠してるつもりだった。


「いやもうばればれ。他の連中も心配してた」

 文林はごうちんした。


「だからもう、心置きなく吐け」

「……いや、いい」

 周囲にやせ我慢がばれていたからといって、じゃあ吐きますという気にはなれなかった。ここで我慢できなかったら、自分の甘さに拍車がかかる。


 そんな文林に、復卿は肺を空にするようなため息をついた。

「お前なー。なに意地はってんの」

「意地なんか……!」

「今吐いたって死にゃあしねえが、我慢してたら確実に死ぬぞ」

 いつも脳天気に見える彼とは思えないほど、ぞっとするようなしんな声が発される。それにされ、文林はそれ以上言葉を発することができなかった。


 復卿は、ひざに置いた桶に両手を乗せてとうとうと語った。

「……大体な、体の声を裏切ってたら、いつか体に裏切られんだ。言っとくが、戦なんざ体が資本なんだぜ? しかも、ただでさえ体に無理かけてるってのに」

「だが、皆、平気で……」

「あったりまえだろ。仮にも戦場行くこと数多あまたの人間が、今更吐いてたらそっちのほうが問題だろ。てか、俺だって、初陣のときは吐いたし、失禁したぜ」

 堂々と自分の恥をさらす復卿は、言っている内容は内容でも、この瞬間だけは明慧と並ぶくらい男らしかった。


「小玉も……」

「あのお人だって、あれでもいろんな激戦くぐり抜けて、しかもきっちり功績あげてる女傑だぜ?」

「…………」

 文林はむっつりと黙りこくった。小玉に対する反感がわいてきたのだ。

 そんな文林を見て、復卿はため息をついた。気持ちはわからんでもないが、と前置きして言う。

「今のお前じゃ、対抗するだけ無駄だよ。小玉は、血吐いてのたうち回って今の地位にいるんだ。お前が苦労してねえとは言わねえが、この分野のことに関しては、お前じゃまず、経験が足りねえ。同じ土俵に立つにはな」

「吐くのも経験のうちだと?」

 文林が挑発的に笑ったが、復卿は軽くいなした。

「俺はそう思ってるぜ」

 文林の表情は、その言葉に余計かたくなになった。


 その彼に、復卿がやや声を潜めて、言った。

「小玉がさ……俺に行けって言ったのよ」

「え?」

 復卿は文林の顔を見ず、一気に言った。

「いやさ、『吐き気に気を取られている間に隙を突かれてごうかんされでもして、動揺のあまり使い物にならなくなったら困るからあんた様子見ててくれない』って」


 ――…………。


 心身の長い沈黙のあと、文林は自分でも驚くほど、おどろおどろしい声を発した。

「……あの女」

 復卿はすかさず桶を差し出す。

 文林は、それを奪うようにして受け取ると、物陰で吐き始めた。もはやなにも遠慮することなどなかった。

 今はただ、小玉を怒鳴りつける気力を取り戻すことが最優先だった。

「助かった。じゃあ、俺は行くから」

「おう、桶は自分で洗えよ」

「わかった」


 桶を抱えて去っていく文林を、復卿はひらひらと手を振りながら見送ったが、そんな彼の姿をいちべつもせず、文林は小玉のほうへ向かって直進していった。

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