第37話 文林、初出征決まる
「遅いなあ」
まるで彼の心を読んだかのように、
「復卿」
戻ってきた小玉の声で、再び顔をあげた。
彼女は今まで見たことがないくらい、硬い顔をしていた。
「なに? 腹具合でも悪いんすか」
「そっちはここ一月絶好調。
「わかった」
色々と言葉が足りないうえに、自分の腹具合については無駄に詳しい小玉の発言だったが、復卿は小玉の言葉が終わるやいなや立ち上がり、足早かつ
それを見送るのも惜しいというように、小玉は顔をしかめつつ文林のほうを向いた。
「文林、書類書き終わった? 急いで印押すわ」
「……ああ」
その言いようにややかちんときはしたが、それでいちゃもんをつけるほど文林は馬鹿ではない。
おそらく、なにかあったのだ。言い捨てた小玉は自分の席に着くと、腕と脚を組み、目を閉じて黙考し始めた。
全員が集まったのは、ほどなくのことだった。
小玉は目を開いて立つと、端的に言った。
「来月出征が決まった」
驚いて言葉を失う文林以外の人間から、口々に声があがる。
「またか!」
「この時期にそれ!」
「しかも、準備期間みじけえ!」
「そうか、来月って……来月ですね!」
復卿の言葉に、
一同の反応は、お世辞にも
「今年、ここ新兵が多いのに……」
「しかも入ったばかり」
復卿がぼやくと、明慧が吐き捨てるように続けた。
戦争の際に出兵する軍隊というのは、実は混成部隊である。一つの軍を丸ごと動員すると、普段その軍が
したがって、各軍の将官の中から適任と思われる者を、征討大将軍という臨時の役職に任命して指揮官とし、その指揮官が各軍から徴発した兵士を率いて出征することとなる。
そして小玉率いる部隊は、今回見事に徴発されたのである。
泰は
「なんでよりによってうちの部隊なのでしょう。他に、全体の練度が高いところはあるでしょうに」
そう、泰の言うとおり、他に適任の隊はあった。
文林もそれを不思議に思ったが、小玉の返答はあっさりしたものだった。肩をすくめて、
「さあ?」
この一言である。いくらなんでもそれはないだろうと文林は思ったが、抗議することはできなかった。小玉は表情を引き締めて、全員の顔に目を走らせた。
いつもの太平楽な雰囲気をまるで感じさせない態度に、文林は
「決まったもんは仕方ない。それより時間がない……泰」
「はい」
「手はず整えといて。糧食と武器その他の申請。いつもどおりに」
「はい」
そして彼女は、文林のほうを見た。
「いい機会だから、文林。泰と一緒に仕事して。今後あんたにもやってもらうことだから」
「わかった」
文林はすっとあごを引いた。
それを見るや否や、小玉は
「新人さんの調子はどう?」
言葉づかいはけっこう軽いが、声は重々しい。
「かなり……」
「あれなんだねー」
「あれだねー」
そして二人してため息をつく。文林も「あれ」の意味がよくわかった。
「訓練予定をね、編成し直して。この際、明慧、あんたが直接訓練して。血尿出るまでやっちゃってください」
「わかった」
「それでね、この日と、この日、場所取ってきたから演習しよう。そのつもりで予定組んで」
はいこれ演習場使用の許可。小玉は明慧に懐から出した紙を手渡した。明慧はそれをまじまじと見て、
「頑張ったね」
「王将軍からぶんどってきた」
「どんな弱み握ってるんですかあんた」
小玉は話に割り込んできた復卿のほうを向いた。
「明慧が練兵にかかり切りになる分、他の仕事滞ると思うけど、そのぶんは復卿、あんたにしてもらうから。全部」
「……わーやだ」
不満というにはあまりにも率直な物言いの復卿に、小玉はにっと笑った。
「駄目。あんた今回は、かなり仕事してもらうわよー」
「……はいよ」
復卿は苦笑いの表情になった。
小玉はさらに矢継ぎ早に指示を下すと、最後にもう一度文林のほうに向き直った。苦笑いの表情だった。
「馬球より先に、実地の演習やってもらうことになっちゃったわ」
「そうだな」
結果的に、昨日の時間は無駄になったことになる。だが小玉は無意味に謝罪の言葉を発さなかった。文林もそれでいいと思った。
確かに彼女の命令で失った時間ではあったが、だからといって彼女が謝るべきことではない。
小玉は一つため息をつくと、気を取り直したように言った。
「じゃあ、あたしこれから来月に向けての軍議あるから。あとはよろしく」
そして半ば小走りに部屋を出ていった。
一同はそれを見送り、
「さて、始めますか」
という泰の一言で一斉に散った。
やることは山のようにあり、時間は少なかった。
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