第36話 押印も大雑把

 翌日のぶんりんは、もやもやした気持ちを抱えながらも、表面上は落ち着き払って筆を動かしていた。だが、そんな状態で集中が続くはずがない。

「あっ」

 という声を発するよりも早く、筆からしたたった墨が紙を汚した。

 これから提出する報告書だ。

 文林は我知らず舌打ちをした。どうしようかと数瞬間考え……しょうぎょくの言葉を思い出した。


 ――ええ? いいのよそんなもん、多少汚れてても。

 迷わず書き直すことに決めた。

 一つため息をつき、文林は失敗した紙を適当に丸めた。それを机の端に置いて、新しい紙を求めて立とうとする。

「ほら」

 急に目の前に白いものがひらめき、文林の目を驚かす。新しい紙を、同僚が差し出していた。

「……ど、うも」

 言葉が不自然に区切れたのは、驚きがまだ持続しているからではない。文林にとって、相手はちょっと苦手な存在だったからだ。

 れいに施された化粧、簡素だがよく似合った髪形。中々の美女に見えるが、その身長は中背の文林よりも高い……そう、相手は女装した男である。

 それだけでもちょっと腰が引けるのだが、

「ああ、いいよ。気にすんな」

 中身や声が男のままというのが、なによりも問題である。

 一体なんのための女装なのか、苦手な相手でなければ直接追及しているところだ。



 そして、

「気にしなくていいわよ。ふくけいは外見が女ってだけだから」

 それを「だけ」ですませる上官・小玉はさらに問題だと小玉は思っている。

「彼女はね、裸で出勤しなければなんでもいいと考えているんだと思うよ」

 と、復卿と同じく、同僚のめいけいは笑っているのだが。



 彼女も見た目の上では、復卿と逆の方向性に衝撃的な人物だ。小玉の腰回りくらいはある腕といい、筋骨隆々とした肉体といい、えい最強と言われているのが、見た目だけで納得できる人物だ。こちらは復卿と違い、言われるまで……言われても女性とは信じられなかった。

 なんでも剣術道場の末娘なのだとか。息子に恵まれなかった父親が明慧を鍛え上げたところ、想像以上に素質がありすぎたせいか、今の見目に成長したのだという。

「おかげで嫁のもらい手がなくてね」

 はっはっはっと豪快に笑う明慧は、それが理由で軍に入ったらしい。

 大体、この時代に女性で軍に入っている者というのは、なにかしらの問題のせいで嫁に行けなかった者が多い。だから、結婚相手を見つけたらさっさと退役することが、暗黙の了解となっている。

 多分、明慧は一生軍人だろうなと文林は思うが、口にはしない。


 軍にとっては喜ばしい事態だろう。付きあいは浅くとも、明慧は文林にとって、有能で尊敬できる武官だった。身近にいまいち尊敬できない女性武官がいるせいで、余計にそう思うのかもしれないが……要するに小玉である。

 彼女こそ結婚して退役すればいいのにと文林は思った。けっしてまずい顔をしているわけではないのだから、男の一人や二人くらいすぐ見つかるはずだ。そうしたら……いや。

 文林は思い直した。あんな女を外に放つのは迷惑だし、一人の男に面倒を見させるのはあまりにもびんすぎる。もちろん男のほうが。

 やはり、彼女は軍で囲い込んで面倒を見るほうが、世のため人のためというものだ。本人もそれでいいのであれば、現状に特に問題はないのだろう。


        ※


 書き直した報告書を、文林は小玉のところに持っていく。けんか腰にではなく、穏やかに紙を差し出した。

「午前中に言われた報告書だ」

「ありがとう。読んで」

 文林が差し出した文書を一瞥すると、小玉はすぐさまそれを文林に差し戻した。今に始まったことではないが、べつにそれは嫌がらせではない。

 過去に比べれば字を知っているとはいえ、それでも五十字は公文書を読むにはあまりにも少ない。効率を優先すれば、知っている人間に読み上げさせたほうがいいに決まっている。


 だからこれは、彼女が怠惰であるとかいう問題ではない。今の文林は、そう思えるようになっていた。


 小玉は目を伏せて、文林の声に耳を傾けている。まさか寝てないだろうな、と文林は思った。それなりに見直しかけてはいるものの、小玉の勤務態度に対する彼の信頼は、前述したとおり最低値を記録している。

 口を閉ざしてみる。小玉が顔をあげた。

「どうしたの?」

「いや」

 一応聞いていたらしい。文林は読み上げを再開した。

 小玉の対応は素早い。まるで、なにも考えていないかのようだ。

「ん、わかった。よくできてると思う。貸して」

 特に内容を検討する様子もなく署名する彼女に、ここは苦々しさを覚える。彼女が押印しようとしたところで、文林はそれを止めた。

 もう少し考えたらどうか。苦言を呈する文林に、小玉は「わかってないわね」とでもいうような態度で言った。思いもよらぬ言葉を。

「昨日も似たようなこと言ったけど、信用はしてるの、あんたの仕事ぶり」


 言葉を失った文林をよそに、ぽすん、と押される印。

「あ、まずい。ちょっとずれた」

 そして小玉のぽつん、としたつぶやき。


 その言葉で我に返った。

「……って、なんてことを!」

 慌てて書類を取り上げる。見れば、小玉の言葉は嘘だということがわかる。


 ちょっとではなく、かなり。


「枠、なんで枠使わなかった!」

 さすがに怒鳴る文林に、小玉は素直に謝る。

「いやあ、ごめん。これはごめん」

 書き直し決定という事実に、頭を抱える文林は、小玉の衝撃的な発言をすっかり忘れていた。

「……あ、ちょっとかわや行ってきまーす」

「戻ってきたら、すぐ印を押し直せよ! 今作り直すから! あと、もう少し遠回しな言い方で中座しろ!」

「あ、はーい」

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