第30話 新人が来るらしい

 ちょっとした小言のあと、上官の元から退出したしょうぎょくは、やれやれと言わんばかりに首をこきりと鳴らすと、廊下を進み始めた。自分に与えられている部屋に向かう。


 ほどなくして目的地に到着したものの、小玉はすぐには中に入らなかった。そっとのぞき込んで、中の様子をうかがう。


 部下連中がなにやら慌ただしく働いていた。

 宮城にいなかった間にまった仕事とか、連絡事項の伝達とかで忙しいのだということはすぐにわかった……というか、最初から予想がついていた。

 自分もすぐ、その忙しさに巻き込まれるということも。


「おや、お帰り小玉」

「いるんなら、早く入って! ああ、もう、待ってたんですよ」


 小玉に気づいた部下たちが、口々に声をかけてきた。小玉は部屋を突っ切り、自分の席に座った。


 ここに座るのは久しぶりだ。もぞもぞと尻を動かし、おさまりのよい位置を探す。

 そんな彼女に、ちょうたいが待ってましたとばかりに、声をかけてくる。たくさんの紙の束をつかんでいる。しかも両手に。

「それすごく、きつけによさそうね」

「燃やしたら、あなたを燃やしますからね。もちろん油をかけて!」

「はい……」

 彼の本気を感じ取って、小玉は軽口をおさめた。


 彼は武官ではなく、軍属の文官である。年の頃は三十代半ば。復卿などと違って、劇的な出会いなどはなく、ごく無難な人事によって小玉の下に配属された人間である。

 今回小玉が配下の大部分を率いて金吾衛の手伝いにかり出されていた間も、宮城に残って事務処理や、連絡を行っていた。


「よろしいですか」

「覚悟はできてる」

 燃やされる覚悟ではなく、不在の間に起こったあれやこれやそれやを、延々と聞かされることを。

 のどが渇いていたが、この忙しい最中に誰かに飲み物を求めたら、頭をかち割られかねないなと思い、小玉は黙って聞くことにした。



 そして耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだ末、ついに待ちに待った一言が泰の口から出た。



「以上、大体このようなもので……」

「あ、終わり?」

 小玉は顔をほころばせかけたが、

「あ、そうそう」

「まだあるんだ」

 一枚の紙を取り出した泰に、軽く落胆した。泰はそんな小玉にまるでとんちゃくしない。

 長らくの激務で消耗し、そのような気遣いができないのだろうか……と思ったところで、いやと思い直す。彼は元から仕事がらみのことに関しては、必要とあらば人当たりのよさが霧消する人間だった。

 そんな公私を本人なりに分ける男・張泰は紙を、いちべつして用件を述べる。

「今度新人が来るらしいですね……先ほど、べい中郎将のところで聞きましたか?」

「いや、全然。そうなの?」

 泰はほほう、とつぶやいた。

「珍しい……私経由で伝わる話だから言わなかったのか……」

おう将軍来ててね、それどころじゃなかったんじゃない? もういい加減引っ越せーとかは言われたけど」

「ああ、それで遅かったんですか……いや、米中郎将の言ったことは、もっともです。本当に引っ越しましょう、校尉」


 おっと、やぶつついて蛇を出したか。


 小玉は首をすくめた。現在の小玉くらいの地位になれば、宮城の外に家を構えてもおかしくない。

 だが小玉は兵卒の時分からずっと、宮城の敷地内にある宿舎で起居している。宿舎間を移動することはあるものの。


 本人としてはなに一つ不満はない。だがそんな小玉のねぐらについて、このままでは外聞が悪いというのが、上官および側近の大半の意見である。


 現在、宿舎にいる武官の中で一番階級が高いのが小玉である。

 だが彼女の名誉のために述べておくと、彼女はお山の大将を気取りたいから宿舎に居続けるわけではない。

 小玉が転居しないのは、もっと現実的で身もふたもない理由からだった。

「だって、引っ越しって、面倒なうえに出費かさむんだもん」

「いい年こいて、『もん』とか言わない。ですがね……」

「待って」

 泰の言葉を、小玉は無駄に深刻な声で遮った。しかし、言っている内容は、ぐうたらな欲望に満ちている。

「あそこにいると、出勤楽だし、ご飯は出るし……引っ越ししたら、確実に四半ときは寝る時間少なくなる。これけっこう大問題なのよ」

 泰があきれに満ちたため息をついた。もう何回か交わしたやりとりである。


 そんな小玉の前に、茶杯がことんと置かれた。めいけいである。

「あ。ありがとう」

「いや」

 明慧はそう言って、口の端をふっと上げて笑った。

 近くで「わー、すみません! 俺、出すの遅れました!」と、小玉の従卒が慌てる声があがった。

 明慧はそれにひらひらと手を振って気にするなと伝え、泰にも茶杯を差し出す。

 筋骨隆々とした手に載ったそれは小さく見えるが、泰の手に渡ると相応の大きさに見える。不思議だ。

「やあ、これはどうも」

 泰が恐縮しながら受け取る。なお彼と明慧は姓が同じだが、べつに血縁関係があるわけではない。


 明慧は自分の持つ茶杯にふーふーと、息を猛烈に吹きかける。

 そしてその合間に泰に向かって言った。

「べつに問題は無いと思うんだがねえ。一緒に住む者から苦情は出ていないし……」

「そうそう」

 尻馬に乗って小玉もうなずく。小玉だって、人の迷惑を顧みないわけではない。

 これで同じ宿舎に暮らしている女性たちから、上官がいると居心地が悪いという意見が出たのならば、小玉はあっさりと転居したであろう。

 だが女性武官用の宿舎は、元々士卒入り交じっている場所だったため、それに慣れきった女性武官たちは誰かが飛び抜けて階級が高いからといって、あまり気にしなかった。

 なんだかんだ言って、小玉は人間関係上のことをうまくやっていたのである。


 だから、この件について小玉に苦言を呈しているのはほぼ全員が男である。

 とはいえ、小玉にその気がないことがわかると、あまり深く勧めなかった者もけっこういる。その程度のことだった。


 結局、小玉の引っ越し論争に紛れるかたちで、新人がやってくる話は尻切れとんぼに終わり、そして誰も蒸し返さなかった。


 小玉がそれをちょっと後悔したのは、その新人と初めて顔を合わせたあとである。


 新人の話、ちゃんと突き詰めとけばよかった。そしたらちょっとは覚悟ができてたかもしれないのに、と。

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