第17話 忘れられないもの

 ――こいつ、こうのやつに怒っていないように見えて、相当怒っている……?


 しゅくあんは、しょうぎょくの表情をうかがった。怒りの色は見えないが、その事にかえって不安を感じた。そんな酷い発言を、素で出来るということになるからだ。

 もう一回まじまじと、かん小玉の顔を見たが、やはり怒っているようには見えなかった。代わりに別のことに気づいた。目元が赤い。

 ああそういえばこいつ、さっき泣いていたんだっけと思い出した。そしてそれは、叔安に対する申しわけなさによるものではないという関小玉の申告も。

 叔安は尋ねた。

「なあお前、さっきなんで泣いてたんだ?」

「あー……それはー……」

 関小玉の目が泳ぐ。言ったらまずいことならば別にいい。そう口を開こうとするのが、あとほんの少し早ければ、


「失恋しちゃってさあ」

 ……叔安が硬直するようなこともなかったはずだ。


「…………」

「それでべそかいたらあんたを見つけたんだけど、『あ、そういえば謝らなくちゃいけないな』ってこと思い出しちゃったんだ。そしたら、頭ん中に余裕なかったからさ、それ以外考えられなくなって、泣いてるまんま突進しちゃったよ」

「…………」

 あははと脳天気に頭をかく少女を、叔安は阿呆みたいに目をかっぴらいて、声もなく眺めていた。


 失恋。こういう状況に対して、どういう反応をすればいいのかわからない。お前も女だったんだなとか、おいおい誰に振られたんだよとかいう疑問を抱いて、そして口に出せるような人間ならば、叔安はもっと気楽な人生を送れるはずだ。


 しかし、この時の叔安は、大まじめに、しかもいささか明後日あさっての方向に悩んでいた。

「…………」


 ――失恋したということは傷ついているということでだから泣いていたのであってこの場合なにか慰めの言葉をかけるべきなのだろうかとも思うがなにを言えばいいのかわからない上にかろうじて思い浮かぶ言葉を検討しても例えば「ご愁傷様」というのはなんだか不吉だし「男は他にいくらでもいる」というのは男がいてもこいつがれるかどうかはまた別の話であって……。


 あまりにも一瞬で流れすぎて、句切りが一切ない思考に、これではいかんとじっくりと考えることにする。

「…………」


 ――考えろ、陳叔安。お前はこんな事でくじけるような男ではないはずだ。突発的な事態に対処できない武官など、おがくずにも劣る。いいか、お前は今、男としての、武官としての度量を試されているんだ……!


 じっくり考えた結果、勝手に己に試練を課しているあたり、完全に迷走しているのだが、本人はそのことに気づいていなかった。

「…………」

 やがて叔安の首筋を一筋の汗が伝い、彼はようやく口を開いた。

「……そうか」

「うん、そう」

 結局、なんのひねりもないたった三音の言葉しか発せられなかった己に、叔安は言いようのない敗北感を覚えた。


        ※


 風が吹く。


 約一年前に比べると大分伸びた髪がなぶられる。視界を遮られ、小玉は手で髪をおさえた。別れる相手をそのひとみに焼き付けようと思って。

 引き継ぎのやりとりを、同輩達に交じって小玉は黙って眺める。それはどこか儀式めいていた。声は聞こえない。距離が離れているからだ。

 去っていく人を、所属する軍の多くの士卒が途中まで見送る。相手が兵卒ならばこうはならないが、今日出て行く人は高位の武官だ。その地位の高さに正比例して、見送りの数は多いし引き継ぎは長い。


 しん中郎将――昇進したのでもう中郎将ではないが――との個人的な別れは、済ませている。これは公的なお別れだ。

 

 そして、今日を境に、自分は彼と二度と会うことはない。

 

 だが、まあ……機会が有れば、遠目で姿を見ることはあるだろう。だが、元より成就するはずのない恋だったのだから、その相手が下手に近くにいるよりはそれだけというほうがいいのかもしれない。

 小玉はそう思うようになっていた。この考えが前向きなんだか後ろ向きなんだかは、今後の自分次第だろう。


 ――あ。


 小玉にはよくわからない、なにやかやのやりとりが終わったらしい。沈中郎将が馬に歩み寄り、軽々と騎乗した。あの馬、小玉が世話をした沈中郎将の愛馬ともお別れだ。


 ふと、ここ数日の記憶が頭にあふれかえった。


 沈中郎将に連れられ、対面した新しい上官。ずいぶん気さくそうだが、堂々とした武人らしい人だった。前に会ったことのある人だった。

 今度の小玉の仕事は従卒ではなく、一般の兵卒としてのものらしい。おそらく、補給とか、後方支援関係の仕事をやらされるのであろう。

 特に不満はない。性に合っている仕事だ。

 それに、不満があったとしても、それが個人的なものであるのならば口にも顔にも出さない。それが軍人というものだということを、小玉は軍に入る前から知っていた。その考えは、今後も変わらないだろう。だが、軍に入ってから考えが変わったことがある。


 自分は、このままずっとここでそういう仕事をしようと思った。


 徴兵される前は、そして、徴兵されてしばらくは、軍にいる間に磨ける能力を磨いて、後々の生活の役に立てるつもりだった。退役が前提であるということが、小玉にとっては当たり前だった。

 だが、自分が求めていたのは、自分の力で自分の口を養うということだ。それが軍の中であっていけない理由はあるだろうか。

 そう考えた時、小玉は軍に骨をうずめることになっても悪くはないと思ったのだった。


 自分は今、戻れないところに来ているわけではない。

 どこかに行くことも、戻ることもない。

 自分はここにいるのだ。


 覚悟というほど強いものではない。それに、一生を決めるには弱すぎる考えかもしれない。たまたまやった仕事を惰性でずるずる続けていると、たしなめられても否定できない。するつもりもない。

 実際、これ、と決めて軍に入ったわけではない。

 だが、二年近く働いて、この仕事を続けることを嫌だと思わない……その「嫌だと思わない」ということも、仕事を続けるに足る理由になるのではないだろうか。

 小玉にとって、一番重要なことは、自分で生きていくということだ。仕事はそのための手段であって、手段まで「これ」と決めてしまうほどこだわりはない。そもそも、そんな余裕がない。


 自分は今、色んなものに押し流されている最中なのだと、小玉は思っている。選べるのは流れる時の体勢くらいだ。それで、流れの中に時々突き出る石にぶつからないようにすることが、出来ることのせいぜいなのだ。

 だから……そう、「悪くない」は今の小玉にとっては最高の状態といえるはずだ。


 それに小玉は、人生が自分以外の意志でやすく左右される可能性があるということを、これまでの経験からよくわかっていた。

 あまりかたくなに決意していると、それで頭がいっぱいになってしまう。すると予想外の事態が起こった時、頭にはそのことを思考に組み込む余地がなく、取り乱したり、足下をすくわれてしまいかねない。そう考えたのだ。


 それは賢い考えなのかもしれないし、おくびょうな考えであるのかもしれない。


 不意に声が沸き起こり、小玉は思考の中断を余儀なくされた。

 沈中郎将と共に出立する兵達が一斉に声を上げた。沈中郎将が馬上で片手を上げ、号令をかけたのだ。


 沈中郎将の馬が動く。

 軽やかな並足で小玉たちの前を横切る。

 それに続く軍勢。向かう先にはしゃへいぶつがなにもない。だから小玉は、人影がどんどん小さくなり、やがて見えなくなるまでをつぶさに見届けることができた。


 なにも見えなくなっても、沈中郎将の消えた方向を見つめた。やがて士官が号令をかけ、小玉達も動き出す。去っていった人たちとは反対側の方向に。


 小玉は一度だけ振り返った。

 吹き付ける風から砂のにおいがした。このにおいを忘れない……忘れられないものがまた一つ増えた。


 それがこの記憶で、よかったと思った。

 

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