第16話 彼と彼女の和解~真相はどこか苦々しい~

 しゅくあんは悩んでいた。かつてないほどに悩んでいた。

 悩んでいる対象は同輩の少女のことである。別に恋愛がらみのことではない。叔安にとって少女ことかんしょうぎょくは、恋愛対象とは対極に位置する存在だとさえいえる。


 叔安が悩んでいることは、彼女に謝るべきか、謝らないべきかということだった。


 それは別に、嫌いな相手に謝りたくないという葛藤かっとうによるものではない。よくも悪くも真面目な叔安は、謝らなければならないのならば、対象が親のかたきだろうが絶対に謝るという、正しい意味で「いい性格」をしていた。

 だから、叔安が悩んでいるのは、自分は謝るべきことをしたのか、していないのか、それがわからないという点につきる。そして、それを判断するには、情報があまりにも少なかった。

 叔安は手を顔に持っていき、目頭を揉んだ。ここ数日、途方に暮れていた。そして、そのことに疲れていた。


 その時、

「じゅぐあーん!」

「?」


 叔安が振り返った理由は、自分の名を呼ばれたと認識したからではない。どこかから聞こえてきた、自分の名前っぽい謎の音が気になったからである。あんな声でさえない音の連なり、断じて自分の名とは認めない。

 その濁音の連なりは、こちらに駆けてくる人間から発せられたものだった。

 うっとひるんだのは、それが叔安のここ数日の懸案事項の小玉だったから……というわけではない。それ以前の問題で、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした娘がいきなり全速力で接近してきたら、たとえ好きな娘が相手であろうと引くはずだ。

 それでも、顔で個人判別ができないというのに、相手が小玉であるとわかったのは、叔安の彼女に対する、愛とほぼ反対の感情のたまものであろう。

 小玉は、叔安の前まで来ると、立ち止まってなにかを言おうとした……が、その前にそでで顔をぬぐった。ずひー、とはなをすする音が聞こえる。

「ど……どうした」

 小玉が大嫌いな叔安でも、さすがにちょっと心配になった。すると小玉は顔を上げて言った。

「ごめんね……ごめんなさい」

「…………」

 虚をかれて黙り込む叔安に、小玉は自分が軍律を乱しかねない行為をしたこと、それに対して悪びれなかったことをびた。

「お前……それで泣いてたのか」

 自覚はないものの、少なからずきゅんとした叔安だったが、

「あ、いや、それとは別件」

 小玉はそういう気持ちに、見事に水を差してきた。

「…………」


 あっ、そう。


 一瞬、帰ろうかなと思ったが、叔安はなんとか気を取り直す。

 彼はやはり自分は間違っていたのではないかと思った。謝るべきことを自分はしたのではないかと。そしてそれを、小玉に確認しても大丈夫だと叔安は思った。

 そう、謝るべきか否かは関小玉に確認を取りさえすれば、判別できる問題だった。もっとも、嘘をつかれたらそれまでなので、ずっと一人で思い悩んでいたのだ。だが、今、自分に対して謝る彼女を見れば、彼女はきっと誠実に答えるだろうと思った。

 それは間違っていなかった。

「えー……ありえない」

 そう、小玉はとても率直だった。口もそうだが、目はそれ以上だった。石で口をすすぐと言う奴がいたら、叔安も同じような目をしたであろう。そんな、ものすごく可哀想な人をみるまなしだった。

 そんな態度に対して腹が立たなかったのは、「あれ? 言われてみればそうかも」という気持ちがわいてきたからだ。



 実をいうと叔安が小玉に隔意を持ち始めたのは、彼女に打ち負かされたからではなく、もっと前、彼女と面識を持っていない頃からのことだった。叔安の同輩の一人がこう言ったのだ。

「なんだか……しん中郎将閣下の従卒が決まったらしい」

「本当か!?」

 叔安は沈中郎将を尊敬していた。彼に出会うまで、宦官かんがんという存在は卑しいものであるという認識を持っていた叔安だったが、あっという間に宦官を見る目が変わったほどだった。当然、そんな人のそば近くで仕えたいと思っていたが、残念ながら沈中郎将は、従卒を持たないことで有名だった。

 そのぼうと宦官という立場から、沈中郎将は男との関係が噂になりやすい存在だった。本人もそれを配慮して、側近たちとの関係においても、常に注意深く振る舞っていた。そんな彼が従卒のような常に身近に控える者を持つことは、まずないだろうと叔安は考えていた。なのに、何故。叔安の疑問は、すぐに氷解した。

「女だって」

「女……」

 それならば。

 同性同士の主従関係ならば、ほぼ四六時中付き従うのが常である。そうしなければ従卒失格の烙印らくいんを押される。だがめったにないものの異性同士の場合は、当然だがある程度の距離が求められる。

 つまり宦官と男性ならば、常に共にいるせいで噂になりやすいが、宦官と女性ならばかえってそれよりはましだろう。


 もっとも、歴史上宦官と女性との結婚の例もあるので、噂になる可能性は皆無ではない。だが、宦官と女性の上司部下の場合、恋愛関係は精神的な結びつきが主になり、主従愛と区別がつけづらいため、問題になりにくい……ような気がする。まあ、一番噂にならないのは、宦官が従卒になることなのだが……。


 それはともかくうらやましいと、叔安は思った。

 すごくうらやましかった。

 だが、叔安が文句を言えた筋ではない。そんなに沈中郎将の従卒になりたければ、ぶっちゃけた話、叔安が宦官になればいいのだ。だが、さすがにそこまではできなかった。

 だから仕方がないんだろうなとすね始めた叔安だったが、そんな彼の鬱屈うっくつした感情に、同輩であるこうの言葉が火をつけた。

「なんか、そいつは、上役に取り入って、沈中郎将の従卒に収まったらしい」

「なに!?」


 ……ということを、叔安は話し終えた。



「うん、それで?」

 話し終えたつもりだったのだが、小玉が真顔で先を促してきて、叔安はうろたえた。

「それで、って……」

 叔安にしてみれば、あとは小玉の返事を待つだけのつもりだった。だからそういう反応は、予想外である。自分はなにか話し足りないことがあったのだろうか……まさか、やっぱり。

「言ったとおりなのか!?」

 気色ばむ叔安に、小玉はやけに冷めた顔で待て待てと手を振る。

「いや、違うよ。違うんだけどさ、あんた魏光の話に、一応突っ込むだけは突っ込んだんでしょ?」

「は?」

「……まさか、みにしたの?」

 そして、哀れみの目へ。


 上役の誰に取り入ったのとか。

 取り入ったのならばどんな手を使ったのとか。

 そもそもその話を誰から聞いたのとか。


 探すまでもなく、つつくところはいくらでもある。

 それを気に留めなかったのは、どこか不自然な人事だったからだ。後宮警備からのいきなりの大抜擢ばってき。めったに聞かない女の従卒。だがそれ以前の問題で、

「……しっしたんだよ、畜生!」 

 本当にちん叔安という人間は、正直な少年だった。

 彼の血を吐くような告白に小玉は、

「わあ、短絡的」

 とか、

「わあ、単純」

 とまでは言わなかった。ただほぼ棒読みでこう言ってくる。

「わあ、た……ううんなんでもない。だれにでもあるかんじょうだとおもうのー」

 その半端な気の遣いようが心に痛かった。その痛みを押さえ込み、叔安は浮かんだ疑問を解消するべく問いかける。決して話を変えようとしているわけではない。

「ていうかお前、上役に取り入ったんでなければ、どうやって出世したんだよ」

「えっと……これ、取り入ったって言うのかな……?」


 小玉の抜擢の内容を箇条書きでまとめるとこうなる。

 一.後宮から逃げだそうとするていやからを切った。

 二.事件の担当である沈中郎将に報告した。

 三.お手紙読んでもらった。

 四.異動命令が出た。


「手紙ってなんだ」

 当然、そこが気になる。三が浮きすぎて、その前後に深淵しんえんが横たわっているように思えてならない。

「あ、実家からの」

「なんで」

「たまたま、誰かに読んでもらおうと思ってたから、あっちょうどいいなって思って」


 それは……。


「大馬鹿だな、お前」

「知ってる」

 真顔の叔安に、真顔の小玉。

 さすが沈中郎将閣下。馬鹿に対しても寛容であらせられると、叔安は感嘆していた。

「まあ、順当な出世ってやつだろうな、それは……ああ、ないな。不正なんてあるはずがないな」

 そう、考えてみれば、そんな人格者が誰かに取り入るような輩を身近に置くわけがない。したがって、小玉の出世は妥当に決まっているのだ。自分はなんと愚かな考え違いをしていたのだろうか。

 これから気をつけねばと自戒する叔安に、小玉が口を開く。

「いやさ、あっさり考え変えられるのもなんだけど、そもそも、そこまで揺るぎなくあたしの不正人事を信じてたのに、なんで今更疑問持ったの」

「う……」

 叔安は言葉に詰まった。だが、言わないわけにはいかなかった。

「言い出したのがさ、光だったもんでさ……」

「あー、光」

「そう、光」

 沈黙。ややあってため息。

 魏光。二人の「元」同僚。誰にでも人当たりがよく、気のいい少年と思われていた。そして、

「いや、人間って見かけとか態度とかによらないよね」

「まさかあいつがとは思ったんだけどな……」

 小玉の手柄を横取りした張本人であったりもする。



 叔安は馬鹿ではない。他人の言葉をあっさり信じたのは、よほど相手が信頼のおける人物だったからだ。魏光は確かにそういう人間だった。

 つい先日までは。

 その魏光は、論功行賞で褒美をもらい、近々階級が上がるそうだ。魏光の直属の上司の後押しもあって、今や彼は見事な出世株。常日頃いい子で通っている魏光の武勲を立てたという主張は、誰も疑わなかった。

 小玉はなにも言わなかったし、叔安も黙っていた……とてつもなく不本意だったが、直属の上官に相談したら制止されたので仕方がなかった。

 今や魏光の人物評価は、叔安の中で最低値を更新し続けている。彼は小玉にも憤っていたが、小玉を嫌うに至った経過をふと思い出し、あんな奴の言うことを信じていいのかと疑問を抱いたのだ。


「や、嘘だからね。でまかせだからね」

「わかってる」

 ぱたぱたと手を振る小玉に、叔安は重々しくうなずいた。そして、ちっと舌打ちするとつぶやいた。

「あいつ、天罰とか当たって、今雷にうたれないかな……」

「死んじゃうじゃない。仮にも仲間に物騒なこというもんじゃないわよ」

 小玉はそっとたしなめてくる。叔安はそんな彼女をきっとにらんだ。

「仲間じゃなくて、仲間だったんだ」

「だった」の部分を強調する。小玉はぽりぽりと頬をかいて、

「でもさあ、あたしにも責任あることだし」

「……そうか」

 その言葉に、叔安は渋い顔になったが、

「だからせめて……そうだな、いきなり一物が役立たずになったせいで世をはかなんで山に引きこもるとか……願うならそれくらいでいいんじゃないかな」

「そっちのほうがひどいわ! せめてひと思いに殺してやれ!」

 不本意ながらも、叔安は思わず光をかばってしまった。


 なお小玉にしてみれば、雷にうたれて死ぬよりは、生きているだけましだと思うとのことである。

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