第13話 緊迫の夜

 先触れが戻ってきた。今日の戦闘が終わったのだという。がぜん後方の者たちの動きが慌ただしくなる。しょうぎょくたちもまた例外ではない。戻って来るであろう……もしかしたら来ないかもしれない上官のために、色々と用意した上で所定の位置で待機しなくてはならないのだ。


「戻ってきた」

 という声が周囲から聞こえた。小玉はちょっと背伸びをして、遠くのほうを眺めやった。


 やがて風にはためく旗が見え、その下にいる人影が徐々に浮かび上がってくる。やがて、小玉はしん中郎将の姿を認めて、ほっと息をついた。血に汚れてはいるものの、怪我はないように見えた。

 号令が響き、軍勢は小玉の目と鼻の先で止まる。指揮官が全軍に待機命令などの指示を出し始めた。命令が後方の兵にまで伝わったことを確認すると、騎乗していた者が馬から下りる。

 小玉たちは駆けだして、自分の仕える上官の元へ行き、竹筒に入った水を差しだした。

 沈中郎将はそれを一息に飲み干すと、何も言わずに容器を返し、歩き始める。これから軍議があるのだ。

 小玉はそれを追わず、沈中郎将の乗っていた馬を引き取った。気が昂ぶっているせいで動きが荒いのを、なんとか引っ張って所定の位置へとつなぎ、水を与えてから走る。

 沈中郎将が自らの天幕に戻るころには、そこで待機していなくてはならない。


 天幕にたどりついてしばらく待つと、沈中郎将が入ってきた。再び飲み水を渡し、飲み終わるのを待ってから水でらしたぬぐいを渡す。沈中郎将はまず顔をいた。彼が手拭いを顔から離すと、隣に立つだけで突き刺さるような感じを与える気配がすこし緩んだ。

 沈中郎将は続いて手を拭くと、身につけたかっちゅうを取り外し始める。小玉もそれを手伝う。血でぬめった甲冑は取り外しづらい。これまでの間、二人はずっと無言だった。

 甲冑を取り外し終えると、小玉はおけにくんだ水を沈中郎将の前に置き、新しい手拭いを渡す。そして、血で汚れた甲冑を持つと、天幕の外へ出た。血が完全に乾く前に、手入れをしなければならないのだ。


 天幕に戻ると、沈中郎将は身から血を落とし、小玉が洗濯しておいた服に着替えていた。ざっと汚れを落とした甲冑を見て、軽く微笑む。

「仕事が早いな」

「ありがとうございます!」

 小玉はぱっと笑うと、沈中郎将が脱いだ服と、赤く染まった水の入った桶を持って再び出て行った。これから食事の支度をしなければならないので、今すぐ洗濯をすることはできないが、汚れ物は今のうちに水につけておきたい。


 沈中郎将の食事の給仕をすませた後も、小玉の仕事は終わらない。食器を下げに行ったついでに、自分の食事をもらい、立って食べる。

 この時、従卒仲間たちも一緒にいるが、特に会話などはしない。忙しいし、相手もそうだということがわかっているので、ただひたすらに口に物を運ぶ。

 食べ終わると、今度は馬の世話をしなければならない。えさをやらなければならないのはもちろん、乗っているあるじ同様に血で汚れた体を洗ってやるのだ。ここで必要なのは口ではなく手であるから、無駄口をたたく者も出てくる。

 この場にいるのは、従卒ばかりではない。従卒を持たないために、自分で馬の世話をしている者……つまり、ついさっきまで戦っていた者たちもいる。そういう者たちの間から聞こえる話を、小玉は注意深く聞いた。


 ――あちらの誰かは敵将の首を取ったらしい……。

 こちらの誰かが討ち取られた……。

 ――戦っている最中、敵がこんな風に動いた……。


 周囲から得られる情報の断片から戦況を組み立て、それを日々更新するのがここでの小玉の日課である。今日も話を聞きながら、自軍が今どのように戦っているのかを小玉は思い浮かべた。

 そして、首をかしげた。

 興奮しながら語る者たちは、さも自軍が優勢であるように言っているが、そんな彼らから得られる情報から考えると、なぜか小玉は自軍のほうが不利のように思えた。

 小玉は不安になった。だが、自信満々に語る当事者たちの態度と、実際に戦っていない、情報は少ない、おつむの中身が足りない、つまるところあるもののほうが少ない自分の見解のどちらが正しいのかを考えると、おのずと答えは出る。


 自分はどこかで判断を、あるいは情報の拾い方を間違えたのだ。


 もし、小玉の考えが、これほどまでに他者の見解と異なっていなければ、小玉は結論を急がなかったかもしれない。

 しかし、あまりにも自分の考えが他者と違いすぎたために、小玉はどちらかの考えが間違っているのだと考えた。そして、それは順当に考えれば自分であると。

 小玉以外の大多数にとっても、それはすさまじく説得力のある答えだっただろう。



 だから小玉はあーあ、と思いながらも、かけらも疑問を持たず馬を洗い終え、飼い葉を与えるとその場を立ち去った。

「小玉です。ただいま戻りました」

 そう言って天幕に入り、小玉はおやと首をかしげた。沈中郎将がそこにいなかったからだ。しかし明かりを消していないところからして、すぐ戻ってくるだろう。おそらくはかわやなのではないだろうか。

 さっさと結論づけると、小玉は明かりの近くに座り、つくろい物を始めた。

 小玉はしばらく作業に熱中していたが、やがてふと顔を上げた。さすがに不審に思うくらい時間が経っても、沈中郎将が戻って来ないのだ。

 小玉はつぶやいた。


「便秘……?」

 あるいは、下痢?


 恋をしていても、その相手に変に理想を持たないのが小玉である。いくられいな顔をしていても、人間である以上出る物は出るし、それが詰まる時も下る時もあるはずだ。体調は最高の状態を保てと言い、多分それを実行している沈中郎将だが、便通はしばしば人の意志を裏切る。

 特に、戦場なんて緊張感の連続なのだから、そうなったとしてもなんらおかしくはない。出てくる食事もよいものではないし。

 小玉は、沈中郎将が戻ってきたら腹具合を尋ねてみようと思った。あるいは、本人から言い出すかもしれない。それでもし、下っているか詰まっているかすれば、なにかせんじてあげよう……。


 そんなことを思っていると、天幕の入り口にかけられた布が揺れ、沈中郎将が入ってきた。

「ああ、戻ってきていたのか」

「はい」

 やりかけのつくろい物を一旦いったん置いて一礼する。そのまま、沈中郎将が腹の具合について言い出すことを待とうと思ったが、すぐにそんなことはどうでもよくなった。

 沈中郎将が先ほど手入れをしたばかりの甲冑を身につけ始めたからだ。もう、これから寝るという時間だというのに。

 むろん、戦場である以上、沈中郎将は寝る時でも完璧かんぺきに武装を解くということはなかった。だが、このように完全武装までして寝ようとすることも、これまでに無かったことだ。

 小玉は条件反射で沈中郎将が武装するのを手伝い始めたが、頭の中は当然疑問で一杯だった。

「これから出撃ですか?」

 沈中郎将は手甲のひもを結びながら、淡々と答えた。

「違う。だが、お前も今日は武装して……眠らないように」

「それは……」

 小玉にでも分かる。沈中郎将は今晩、襲撃があるのだと言っているのだ。


 小玉は、沈中郎将を手伝い終えると、自らもぎこちなく武装した。沈中郎将の腹具合のことは、当然頭からすっとんでいた。というか、この展開からして、沈中郎将が長く天幕を空けていたのは、厠ではなくなんらかの打ち合わせか対策のせいだと考えるのが妥当だろう。


 落ち着け、とまじないのように頭の中で繰り返す。負けると決まっているわけではない。そう、襲撃があれば必ず負けると言うものではない。

 勝ったとしても、自分が死ぬ可能性があるということは無視しようと努めた。別のことを考えようとして、ふと、あることに気づいた。

 まさかね、と思う。だってそれはさっき否定したばかりの考えだ。しかし……。


「あの、中郎将さま」

 堪えきれず、小玉は声をあげた。自分の疑問に的確な回答をくれそうな人に。


「なんだ」

「うちの軍は今不利なんでしょうか」

 沈中郎将は小玉を安心させるように、軽く笑んだ。

「襲撃は敗北と同義ではないが」

「あ、はい。それはわかってます……そうなんですけれど。今うちの軍がここにあって、で、襲撃があるってことは、敵はこう動けるってことですよね。そう動けるってことは、不利なんじゃないかと思って……」

 小玉はここ、こう、そう、と指示語の部分で身振り手振りを交える。怪しい踊りにも見えるその動作を、沈中郎将は笑わなかった。それどころか鋭い目を向けてきた。

 沈中郎将は率直にいって厳しい人だが、そこまでにらまれたのは初めてだ。小玉は体を強ばらせた。


「もう一回」

「え?」


「今の動きをもう一回……いや、そこに」

 と地べたを指された。

 そこ……と言われても。

「こ……ここに、どうすればいいんですか? あたし字は書けなくて……」

「石があるだろう。それを置いて説明しろ」

「あ、はい」

 小玉はぎくしゃくと天幕の外に出て、手頃な石を手のひらに集める。それを沈中郎将の前に並べて、説明しながら逐一動かす。彼は小玉の動作を厳しく見つめる。

 沈中郎将から発せられる緊張感に、体が押しつぶされそうだった。

 やっていること自体は子どもの遊びみたいなのに、小玉は冷や汗をかきながら必死に石を動かした。そしてそれに集中しすぎて、何度も説明をんで泣きそうになったが、沈中郎将は怒らなかった。ただ沈黙して、小玉を見ていた。

 しかしやがて、彼が口を開く。

「小玉」

「はっ、はい」

 ついに怒られるのかと、小玉はしゃんと立った。沈中郎将が問いただす語調で言う。

「お前はこのことを誰から聞いた?」

 小玉はあわあわとしながら答えた。緊張と、説明という慣れていない行為のせいで、それは全然まとまりのない言葉の羅列だった。

「いえ、誰からも。あの、色々な人から戦の噂とか聞いて、自分で今こうかなって考えて、なんか他の人と自分、違う考えみたいだったんですけれど、でもなんかそれ以外考えられなくてですね。えーと……」

 まるで要領を得ないであろう小玉の言葉を、沈中郎将は辛抱強く聞いていた。そしてぽつりと呟いた。

「自力でこの布陣を予想したのか……」

「ふじん?」

「軍の配置のことだ」


 ――おお。一つ語彙ごいが増えた。


「その、それで……あたしの考え、どんな風に間違っているんでしょう」

 間違いを訂正してもらうこと前提で問いかけると、沈中郎将はきっぱりと言った。

「どこも間違っていない。お前の言っているとおりだ」

「そうなんですか?」

「ああ」

 それじゃあなんで他の人は自分と違う意見なんだろう。

 自分の考えが合っていたことの喜びよりも、戸惑いのほうが強い。困った顔を向けると、沈中郎将はどこか疲れたような笑みを浮かべて言った。

「だが、それを誰にも言うな」


 どうしてですか。


 小玉はその言葉を飲み込んだ。

 それは決して居丈高な口ぶりではなかった。だが、それだけに言葉にこもった、有無を言わせないなにかをひしひしと感じた。 

 この時の沈中郎将の言葉は、小玉を守ろうとしたものだったのだろうかと、小玉は後に思う。だが、この時の小玉は、沈中郎将の諦観ていかんと苦悩を知らず、

「お前なら、これから先、軍をどう動かす?」

「あたしならこれを……」

 地面に置いた石を一つとり、軽く右に放る。

「こう動かします」

 置いてあった石に当たり、こつりと音がした。

 沈中郎将がふっと微笑んだ。

「私も同じ考えだ」

「あ、そうなんですか」

 小玉は好きな人と同じ考えだったということに、ささやかな喜びを感じていた。それどころではないというのに。


 そう、本当にそれどころではなかった。

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