第10話 運命の流れに乗って

 さて睡眠時間を削ってまで悩んだしょうぎょくは、夜が白む頃になって結論を出した。


 悩んだってなんだって、自分がしん中郎将に恋をしている事実は変わらない。ならば事実を受け入れる以外、できることはなにもないのだ。


 小玉はこと悩み事に関しては、短期集中・決戦型をもって鳴らした女である。しかし、得た結論がそれだけというあたりで、一晩という時間を長いと感じるか短いと感じるかは人によるだろう。

 事実を受け入れたからといって、小玉は別に沈中郎将に猛攻をかけようという気にはならなかった。かけたところで、相手が応えてくれる望みなどかけらもないからだ。それは相手が宦官かんがんだからということ以前の問題で、あそこまで申し分のない人間が小玉に恋をする可能性など、万に一つもないように思えたからだ。それは自分を卑下する以前の問題だった。

 沈中郎将に恋をしているという事実を割とすんなり受け入れられたのは、このことが大きい。未来がない恋なので、未来を思い悩む必要がないからだ。


 あの方の側にいられる限り想っていこう。


 そういうかたちで、小玉の心中はきれいにまとまった。



 だが、体はそれについていかなかった。


 美しい気持ちで夜明けを迎えた直後の訓練で、小玉は睡眠時間のありがたみをひしひしと感じていた。


 小玉は貧しい村の出で、自身も貴重な労働力として日々働いていた。だからかなり頑健だし、多少睡眠時間が足りないくらいで仕事に差し障りがでるほどひ弱ではない。

 しかし、己の力を出し尽くして鍛錬に励むとなれば話は別である。

 けいの合間の小休止。貴重な睡眠時間を悩み事に使い尽くした己の愚かさを呪いながら、小玉は空を見上げた。目を刺す日差しに憎しみを覚えるが、太陽はなにも悪いことをしていない。

 そこまで体力的に限界なのにもかかわらず、小玉は立ったままだった。なぜなら、座り込んだら、そのまま力尽きてしまいそうだったからだ。疲労の極致になったとき、人はそうなることがある。

 眠いという思考の狭間で、ふと思う。


 ――あたし、恋する乙女のはずなのに、なんでこんなにすさんでいるんだろう。


 恋愛がこういうかたちで心の余裕を失わせるとは知らなかった。

 思えばもと許婚いいなずけも、なんだかんだで恋愛のせいで心の余裕がなかったのだろう。ごめんね、み取ってやれなくてと、小玉は初めて元許婚に対して優しい気持ちになってきた。

 同列に扱ってはいけない問題についてそう思うあたり、小玉の思考力の低下度が推しはかれるというものだ。

 そんな感じで体を頑張って動かしつつも、首から上はぼーっとしていると、稽古仲間のちん叔安しゅくあんが色々と心配してくれた。

 確かにいても迷惑だし……ということで、今日は帰らせてもらうことにした。なにかしら罰則をくらうかと思ったが、叔安が色々と口添えしてくれたおかげで、わざわざ付き添いまでつけてもらえた。途中退場の理由が限りなく私事によるものなので、なんだか心苦しい。


 付き添ってくれる少年の名はこうという。小玉が異動してきた直後からなにくれと世話をやいてくれる、誰に対しても人当たりのよい少年だ。その彼が吐き捨てるように言った。

「あいつ、本当に性格が悪い」

「えー……誰?」

 小玉はぽやんと質問した。頭が動いていない小玉は、普段の数倍察しが悪い。そんな小玉に光はなにいってるの? というような表情を向けてきた。

「誰って……叔安だよ」

「そう?」

 光はまじまじと小玉を見た。

「君、心広いな。あいつ、さっきもあんなこと言ってきたのに」


 ――陳叔安。

 今さっき、「お前みたいなやる気のない奴がここにいると邪魔なんだよ! とっとと帰れ!」と小玉を怒鳴りつけ、「そこらへんで倒れられると連帯責任で俺たちが怒られるんだよ! 誰かついてけ!」と吐き捨てた人物である。


「そうかなあ」

 小玉が小首をかしげているのは、頭が動いていないからではない。いつもどおりの彼女でも同じ動作をしただろう。

 もちろん心配や口添えというのは、全部小玉の主観である。そしてそんなふうに彼を受け止めている小玉は、叔安を相性の悪いやつだと受け止めていない。それは小玉が彼になんとなく親しみを持っていたからだった。

 叔安は父方の祖母に似ていた。もちろん顔ではなく、態度が。特に母に対する祖母の態度にそっくりだった。


 小玉が幼いころに亡くなった祖母は、近隣の誰よりも嫁いびりしているようでいて、全然いびっていない姑だった。善意が逆に見える不器用な人だったわーと、母はよく言っていたものだ。


 もちろん小玉は、叔安の言動が全部善意によるものだとは思わない。祖母と母との関係とは違い、自分は明らかに叔安に嫌われているからだ。

 だが彼は、理不尽なことはできない人だということはなんとなくわかる。根拠があまりない上に、うまく説明できないのが辛いところではあるが。

 実は彼に対して親しみを持つ根拠は他にもある。説明もできる。だが「兄嫁と名字が同じ」という根拠は、説明したら「それどうなの?」と言われるに違いない。だからこちらも口にはしていなかった。


        ※


 翌日。沈中郎将に伺候していると、厳しい顔つきで言われた。

「体を壊したと」

「あ、はい。でも大した事じゃないです」

 寝不足が原因の体調不良なので、睡眠時間さえ確保できれば回復する。昨日は部屋に戻った後、泥のように眠ったため、小玉はあっさりと回復していた。

 見た目からして小玉は不調には見えないだろうに、沈中郎将は念を押す。

「本当か」

「はい」

「そうか……ならばいい」

 え、もしかして心配してくださってる? というときめきは、

「だが不注意極まる。体調は常に最高の状態を維持しろ」

 厳しいがあまりにももっともなお言葉であっさりと消えた。


 ――すみません。自分、ちょっと浮かれました。


「反省してます」

 小玉は心のそこからの申し訳なさを込めて、頭を下げた。そんな小玉に、沈中郎将は冷たく言った。

「職務上の義務だ。いざ戦うとなった時に、体調不良で戦えませんでは話にならん」

 小玉は、「はい」としか言えない。

 沈中郎将はここで少し言葉を途切れさせると、やはり冷たいままの声で言った。


「……近々、戦がある」


 小玉はふと気づいた。冷たいんじゃない、感情を含んでいない声なんだと。



 ――天鳳てんほう元年。

 この年が歴史的にどのような意味を持つのかといえば、のちに天鳳帝と呼ばれる第四十九代皇帝・そうが即位したことが挙げられる。それになにかを加えるとしたら、この皇帝が行った度重なる派兵の第一回が為されたことくらいだろう。あまり重要な年ではない。

 もっとも、この天鳳帝の在世中、歴史的に重要なことが起きた年はほとんどない。したがって彼は、後世多くの人間に、「へえ、そんな皇帝いるんだ」と言われる。

 とはいっても、天鳳帝前後の皇帝は大体皆、同じようなことを言われるのばかりが揃っている。

 例外は天鳳帝の二代後のとくしょうていくらいなのだが、彼自身も、皇后のほうが……いや、皇后「が」有名という御仁である。基本的に影が薄い皇帝が揃った時代だった。

 そんな天鳳帝は、影が薄くはあるが、よい皇帝か悪い皇帝かを問えば、間違いなく悪い皇帝という答えが得られる人物である。


 彼を簡単に説明するならば、「実力を伴わない野心家」というものである。


 毒にも薬にもならなかった先帝を父に持つ彼は、そんな父親に反発し、意欲的に国政に取り組んだ。それ自体は真に結構なことである。

 また、天鳳帝は決して無能な人間ではなかった。無益極まりない派兵を繰り返してなお、歴史に悪い意味で名を留めなかった彼は、内政に関してはそこそこの手腕を振るった。

 部分的にいえば、能力がないわけではなかったのだ。

 問題は外政関係について、天鳳帝が見る目を持っていなかったことである。物事の大局を見る目、時機を見計らう目、自分の才能を正確に見定める目……彼は他の持てる才能を叩きつぶしてあまりあるほど、これらのものを持ち合わせていなかった。

 そしてそれをまるで自覚していなかった。

 天鳳帝の時代、この宸帝国は二つの国と接していた。「かん」と「こう」である。天鳳帝は即位直後から、自国がまだ大して落ち着いていないというのに、他国の領土に色気を示した。そして、腹に一物ある者も巧みにそれをあおった。

 かくて、先帝の死からまだ半年も経っていないというのに、派兵が決定されたのである。むろん、この派兵は歴史的に重要な意味を持つ結果には終わらなかった。


 だが、行かされる当事者にとっては、とんでもない大事である。


 小玉はおずおずと尋ねた。

「中郎将さまは、行かれるん、ですよね?」

「ああ」

 予想通りの返答に、小玉はこくりとつばを飲む。

「というと、当然あたしも……」

「むろんだ」

 当事者――小玉は、まさに「これはとんでもない大事だ」と、緊張のあまり身を固くした。

 光あるところに必ず影あるように……というほどではもちろんないが、従卒は仕える主に付き従うのが常識である。

「覚悟をしておくといい。遺書を残しておきたいのならば、代筆してやる」

 小玉は身震いした。沈中郎将の親切と断言するにはちょっと内容に問題がある提案を、受けるかどうか検討する余裕はなかった。


 率直に言おう……怖い。


 もしかしたらいつかはと、思っていた。だがいざ行くとなると、やはり怖い。もしかしたら死ぬかもしれないということ。そして、人を殺すかもしれないということ。

 初めて人を斬った感触が生々しく手によみがえり、ぎゅっと握りしめた。自分はまたあれを経験するのか。


 ぞわりと背中になにかが走る。心もとなさに目が泳ぎ……自分を見る沈中郎将に気が付いた。見透かすようなまなしだった。


 すっと頭が冷えた。そう、もう行くことが決まっているのだ。うろたえてどうする。ならばすべきことは……。

「遺書、お願いします」

 小玉はきゅっと唇をみしめると、深々と頭を下げた。身辺整理の一貫として、確かに遺書は外せまい。

「今、書くか?」

「はい」

「なんと書く?」

「ええと……」

 遺書の文面を練りながら、ふと、小玉は気づいた。戦に対する怖れを感じても、「拒む」という選択をまるで思い付かなかった自分に。思い付いて拒んだところで行かずにすむわけはないのだが。

 自分はもう戻れないところに来ているのではないか、この時小玉は初めてそう思った。


 戻れないとしたら、自分はどこへ行くのだろうか。

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