第9話 それは唐突に落ちるもの

 そんなこんなで、数ヶ月後。


「ええっと、今日は……」

 小玉しょうぎょくは午前中にやらなくてはならないことを、口の中でぶつぶつとつぶやいた。あれと、これと、それと……やらなくてはならないことは、合計で七つだ。

「七つね」

 頭に刻むために、はっきりと口に出して言った。


 小玉の一日はとてつもなく忙しい。去年軍に入ったばかりの時も、毎日やることが多くて目が回るようだった。一年目が終わる頃には大分慣れたつもりだったのだが、異動したとたんにまた忙しくなった。

 それは環境が変わったからというだけの問題ではなく、去年より明らかにやることが増えているからだ。

 しかし、人間というのはどんな環境にも適応する生き物なのだから、生きていればそのうち慣れていくのではないかと、小玉は楽観している。

 異動先での小玉の仕事は、しん中郎将の従卒であるが、これまでもりゅう隊正たいせい相手に似たようなことをしていたので、ある程度要領はつかめている。

 相手が自分で出来ることは自分でする人間であるため、仕える相手の地位が高くなったからといって仕事量が増えたというわけではない。あくまで、この件については。


 やることが増えたのは、武術のけいである。これまでは一般的な武器のみの稽古だったが、今はべんだのすいだの、これまで名前も聞いたことがなかったのも含めて、武器全般を一通り学ばされている。

 体を動かすことは嫌いではないが、ここまでして将来なんの役に立つのかという疑問はある。というか、役に立たせる以前に、重くて持つのも難しい武器もあるんですが、どうせよとおっしゃる。


 ――まあ、芸は身を助けるというし、誰かに襲われた時は本当に助かるよね。それ以外役に立つこと……あ、武器商になるか、嫁に行くかすれば、役に立つのかな……?


 小玉が思い付くのは、せいぜいそのくらいだ。


 そもそも自分のようにやってきたばかりの兵って、数年間は雑用と使いっ走りで終始するほうが普通なのではないだろうかと小玉は思う。率直にいえば、そちらのほうがうれしかった。

 稽古における人間関係があまりよくないので、余計にそう思うのだ。

 小玉は、基本的には職場での人間関係には困っていなかった。異動前は言うに及ばず、今いるところも上司には恵まれていると思う。

 直接仕えている沈中郎将は、最初会ったときは少し怖いと思っていたが、側近くにいると下の者にも気配りをする人だということがわかる。

 その周囲も同様だ。怒られることもあるが、それについては自分のほうの問題だった。


 生活する場も以前と大体同じだ。女性が少ないために士卒入り交じった寮はけっこう気を使うが、小玉くらいの年頃の者がいないせいか、かなり可愛がってもらっているのも事実だ。みんな飴をくれる……というか、なんでみんなくれるのはあめなんだろう。


 閑話休題。


 そんな生活の中、武術の稽古を共にしている相手たちとの関係だけは少しぎくしゃくしていた。

 武術の稽古は、小玉だけ特に受けるというものではない。小玉のように、従卒をしている若年の者が十五人ほど集められているのだが、その中で性別が女性なのは小玉だけである。

 それまで女ばかりの職場で気楽に過ごしていただけに、とてもやりにくい。多分向こうもそうなのだろう。

 それに加えて、しっを向ける、あるいは、なんでこんな身分の奴がと思う者がいるようだった。


 小玉はいまいちよくわかっていなかったが、今回の異動はどうやら異例の栄達ということになっているらしい。小玉の稽古仲間たちは、小玉と同じ従卒だが、小玉よりちょっといいおうちの出か、小玉より長く軍に身を置いている者ばかりだった。


 とはいっても、別にいじめられているわけではない。中には相性の悪い者がいるが、好意的に接してくる者もいるというくらいだ。

 現時点ではあまり実害はない。生きている限り悩みが尽きるということはないのだし、悩みがこれ以上のものでなくてよかったではないかと、小玉はなるべく前向きに生きようと心がけている。

 思春期って難しいと、自分自身のことを含めてそう思う昨今である。



 ……などと考えながら仕事をしていると、地味に焦る事態が発生した。

「ええっと、今日やったのは、あれ、これ、それ……あれ、六つ?」

 やるべきことの最後の一つが、どうしても思い出せない。

「……どれだっけ」

 指示語の羅列を繰り返しながら、なんとか思い出そうとする。

 こういう時、読み書きが身に付いていたら、覚え書きとか出来るのになあと思ったりする。だが、最近になってようやく自分の名前を書けるようになった程度なのだから、そこまで到達するのは無理だろう。


 ――いや、それより、忘れた用事って本当になんだっけ!?


 考え込みながら、小玉は足早に進む。前方にあまり注意を払っていないが、向かいからやってくる人間の頭に白い物が交じっているのが目の端に止まるや否や、半ば無意識に体を壁のほうに寄せる。

 そのまま会釈して、相手が通り過ぎるのを待つ。外見からしておそらく、地位の高い武官であるはずだ。


 だが、相手が通り過ぎない。


「ちょっと君」

「は、はい。なんのご用でしょうか」

 相手が呼びかけてきたのにちょっと驚いたが、小玉は頭を下げたまま返事をした。

「沈中郎将はどこにいるかな?」

 仕えている人の名を出され、小玉は少し考えて、心当たりを述べる。

「この時間なら多分……」

「わかった」

 これで用は済んだだろうにと思うのだが、相手の許しがないかぎり、立ち去ることができない。だが、「もういい」という言葉は発せられず、小玉はおそるおそる目線を上げた。


 目がばっちり合う。

 相手は小玉の顔をのぞき込んでいた。


 小玉はひゃっと驚いて、再び目を伏せる。

「ああ、すまない。もしかして、君は沈中郎将のところに新しく来た子かい」

「は、はい……!」

 小玉はこくこくとうなずく。相手がなんで自分を注視しているのかが……、


「もしかして君、女の子?」

 あ、わかった。


 小玉の髪は依然短いままだ。そのせいで、沈中郎将とはまた別の意味で性別不詳な状態になっているのは、小玉自身よくわかっている。なるほどそれでこっちを見てきたのか。

「はいっ!」

 あまりにもすとんと納得した勢いで、無駄に勢いよく声を発してしまった。そんな小玉に、偉そうな武官は意外に気さくな様子で「元気がいいね」と笑った。

「引き留めて悪かった。もう行っていいよ」

「はい!」

 小玉は一礼して、その場を立ち去った。

 そしてそのまま数十歩ほど歩いて、はたと歩みを止める。

「あ、そうだごみ捨て……」

 忘れていた用事をようやく思い出したが、頭を悩ませた時間がもったいないくらいささやかなものだった。


        ※


 なんの問題もなくごみを捨て終わった小玉は、訓練を終えて午後は沈中郎将の側で雑用をこなした。

 従卒というのは、あるじの側近くに控えて雑用をこなすのが仕事である。つまり、やることがひととおり終わった後は、ただただ待ちの姿勢でいなければならない。体を動かすことのほうが好きな小玉にとっては、これがけっこう苦痛な時間である。

 今日も墨をり、茶を出すなど細々したことを済ませると、あっという間に暇になった。しかし、この暇な時間を、たらたらと待っていてはいけない。「いかにも真面目に待機しています」という風に見せるのが、従卒の腕の見せどころである。


 顔はきりっと引き締める。

 耳と目は主の言動に集中させる。


 そうすれば、頭は多少お留守にしていいのだが、考えることがそうあるわけでもない。

 だから基本的に、小玉は沈中郎将の横顔をぼーっと眺めることが多い……あくまで、ぼーっとしているようには見えないように。

 なにかを書きつけている横顔は、『れい』という言葉が似合うが、生きている人間という感じが少ない。

 まるで川底に転がる、磨きぬかれた石ころのようだ……と、小玉は失礼なことを思い、いや、石ころなんかよりはずっと綺麗ですよと、口にしてもいないことに対して弁解した。

 もし自分が、宝石など話でしか聞いたことのない美しいものを見たことがあるのならば、多分それにたとえていただろう。


 もうかなり見慣れはしたが沈中郎将はこれまで会ったことのある人間の中では文句なしに一番美しい人だ。でもどこか独特な雰囲気があった。それがなぜなのか、彼に仕えるにあたり宦官かんがんについて自分なりに勉強した小玉は、わかっている。

 宦官は実年齢よりも早く老けていくため、しわだらけの者が多い。だが幼いころに去勢し、特に端整な容姿を持つ者については、ごく若いころに関していえば、一種独特な美しさを誇る。沈中郎将は典型的ともいえるほど、このたぐいに属していた。


 後宮にいるというお上のおきさきさま方も、きっとこの人くらい美しいのだろう。でもこの人の場合、男性的でもあり、女性的でもある美しさだから、なにかが違うのではとも思うことがある。比べたことはないが。

 小玉は、後宮の警備をしていたが、それは外部のことであって、中のことは覗きすらしていない。時々、塀の近くを歩く者たちの笑いさざめく声を聞くくらいで、ひんを見たことは一度もなかった……いや。


 そういえば、一度だけ妃嬪を見たことがある。


 後宮から逃げ出そうとし、小玉が殺した女。だが、闇の中に浮かび上がる肌の白さと、それにかかる血の赤さ、ひとみに宿した憎悪の色しか覚えていない。だがそのわずかな記憶のなんと鮮やかなことか。


 きっと一生忘れることができないだろう。小玉の中のなにかが、忘れさせてくれないという確信があった。


 小玉は沈中郎将に意識を向け、ふと考えた。この人は職業柄、何人もの人間を殺しているはずだ。しかし、そのような人でも、初めて人をった時はなにかを思ったのだろうか。それを今でも覚えているのだろうか。


「小玉」


 名を呼ばれ、はっと我に返ると、書き付けをしていたはずの沈中郎将が、こちらを向いてちゃわんを差し出していた。中身は空。

「はい、ただいま!」

 手を伸ばして受け取ると、小玉はお茶のお代わりをれ始めた。その間、沈中郎将は仕事の続きをせず、小玉を考え深げに眺めていた。

「どうぞ」

「ああ。ところで、お前はなにを考えていた?」

 小玉が差し出す茶を受け取りながら、沈中郎将が尋ねてきた。小玉はなにを問われているのか分からず、思わず聞き返す。

「え、なんの……ことでしょうか?」

「茶を用意する前のことだ。心ここにあらずというそぶりであったが」

「…………」

 繰り返すが、「いかにも真面目に待機しています」というように見せるのが、従卒の腕の見せ所である。それ以前に、気もそぞろなうえ、それをごまかしきれないのは駄目にもほどがある。小玉は内心で猛省した。


 しかし、ご下問には答えなくてはならない。

「考えて、いたこと……」

 沈中郎将、美人ですね! と考えていたことは、絶対に口に出せないなと小玉は思った。石ころ云々うんぬんは、自分でもちょっとどうかと思う表現だ。

 ああでも、聞いてみたいことがあったなと思った小玉は、それを口にすることにした。

「閣下が……初めて人を……お殺しになったとき? なにか考えたことはあるのかと思いました」

「お殺しになる」という表現はいかがなものだろうと思いながらも、敬語的には間違えずに小玉は言い終えた。


 沈中郎将は、茶を飲む手を止めて、小玉の顔を見た。顔のどこも動かさず、なにも言わず茶杯を机の上に置いた。ことり、という音が、やけに耳に残る。

 やおら彼は机案にひじをつき、手の甲にあごをのせるという彼らしからぬ砕けた体勢になった。そして考え込む風情で目を伏せた。


 小玉は、やはり言うべきことを間違えたのだろうかと、どこか落ち着かない気持ちで沈中郎将を見つめた。しかし、相手がなにも言わない以上、謝罪するのもはばかられる。だから怒るなら怒ってほしい。

 しかし、叱責もそれ以外も小玉に向けられることはなく、しばらく無音の時が、部屋を支配した。小玉がそわそわし始めたころ、沈中郎将が口を開いた。

「なにも思わなかった。不思議なくらい」

「は……あ、そうですか」

 彼が言葉を発したのがあまりに唐突なことだったので、小玉は一瞬なんのことかと思った。しかしすぐにそれが、小玉が抱いていた疑問の答えなのだとわかった。だが、わかったところでその後の反応に困る回答である……「なにも思わなかった」とは。

 しかし、小玉が次の言葉を選ぶより先に、沈中郎将は言葉を続けた。

「そのことに恐怖した」


 恐怖。

 なんてこの人に似合わない表現なのだろう。


 小玉は口をつぐみ、沈中郎将の顔をまじまじと見つめた。彼はどこか遠い目をして、ここではないどこかを見つめているようだった。見つめているのは自身の過去なのだろうか。

「それは、私生来の気質によるものだったのかもしれない。だが、環境さえ整えば、初めての殺人にさえなにも思わない子供が出来上がるのだということに、私は恐怖した。だから、私は……」


 不意に言葉を切ると、沈中郎将はかぶりを振った。

「少し話しすぎたようだ。今日はもう下がっていい」

「あ、はい、わかりました……あの、答えてくださって、ありがとうございました」

 それ以外、なんと言えばいいのかわからなかった。ならば、なにも言うべきではないのだろう。だが聞くべきではなかったとは思わなかった。小玉はただ諾々と沈中郎将の命に従って、部屋を出た。


 そして廊下を三歩進み、小玉は不意に振り返った。


 その顔に浮かぶのはきょうがく。だがそれは誰かに声をかけられたなどの外部からの刺激によるものではなかった。むしろ内発的なものだった。

 自分の内部、つまり自分の心の動きが信じられず、小玉は呆然とした。

 どうしよう、と思った。なぜ今気づいたのか、そもそもなぜそんな気持ちを抱いてしまったのかわからない。

 でも確かなことがある。


 ――あたし、あの方が好きだ。

 そう自分は今、沈中郎将に恋をしている。


 思うや否や、小玉はだっと廊下を走り出した。まるで逃げるように。自分の部屋に転がり込み、途中誰かに会わなかったことについて、天に感謝した。絶対に怒られただろうから。

 感謝といえば、あの時点で退室を命じてくれた沈中郎将にも感謝である。もし、一緒にいる時に自覚していたら、どんな醜態をさらしたか想像すらしたくなかった。

 小玉は、恋する少女としてときめいたり心を弾ませたりすることはなかった。ただただ混乱していた。

 部屋でぜいぜいと呼吸を整え、思考も整えようとする。思いの外簡単にそれは成功したが、整った結果、こんな思考しか残らなかった。


 ――どうするの、自分。というかその前に、どうしたの、自分。


 そもそも、なぜ自分が沈中郎将に恋をしたのかがわからない。小玉にとって沈中郎将は、決してその対象にならない存在であるはずだった。


 女性は子を産んで当然という環境に育った小玉にとって、恋愛とは結婚に結びつくものであり、結婚とは出産に結びつくものであった。自分が独身で生きるということは考えたとしても、出産・結婚に結びつかない恋愛をするなど想像もしていなかった。

 だから宦官である沈中郎将ははなから恋愛の対象外だった。どれくらい対象外なのかというと、元上司の柳隊正(注:同性)と同じくらい対象外なのだ。


 そんな相手に恋愛感情を抱いてしまった。


 小玉は自分の心のありようがまるでわからなかった。だからこそ、自分の感情に気づくのが遅れたともいえる。

 恋をしたことについて、「これからどうしよう」ではなく「なぜそうなったのか」のほうが気になって仕方がない。多分今夜は眠れない。

 こんな様子の小玉は思考を整えたつもりでも、全然整えきれていなかった。要するに混乱しつづけていた。

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