第8話 下っ端にはどうでもいいこと
さて
次の異動のことについて伝えられた小玉は、思わず叫んだ。
「えー、嘘!」
「ちょっと
「上官に対してその言葉遣いはどういうこと」
叫んだ対象こと、
「すみません……」
小玉は素直に謝る。謝るだけのことをした自覚はある。
だがそれ以上に、思わず叫んだのも無理はないと認識していた。その認識は彼女だけのものではなく、その証拠に周囲もそれ以上言いつのることはなかった。
今彼女たちが取りざたしているのは、小玉たちの人事のことである。新米兵卒にだって一応異動だのなんだのがあるのである……おおむねは現状据え置きというかたちで。
「でも、なんであたしが
だから、この質問も、小玉が思わず嘘と言ったのも決しておかしいことではなかった。
小玉が所属している軍は禁軍の片方である
この南衙禁軍は十六衛と呼ばれる。その名のとおり、十六の「衛」という単位に分かれ、それぞれの衛の頂点に大将軍を擁している。
小玉はその十六衛の一つである
女性の場合、士官はともかく兵卒は基本的に後宮の警備にあたるのがほとんどなので、衛内でさえ異動することが特に少ない。ましてや、衛を飛び越えての異動など、一大珍事と言っていい。
衛が変わるということは、後宮警備以外の仕事に就くということなのだが……後宮警備以外のなにをしろというのだろう。むしろその警備すらまだ完全に任されていないのに。
小玉は自分になにが期待されているのか、予想すらできない。
「それは……
しかも柳隊正も満足に説明してくれない。
沈中郎将閣下。縁が切れていると思っていた……そもそも結ばれてさえいない相手の名前が、なぜここに出てくるのか。
今の小玉には、ちょっとばかり心当たりがあった。
「……ふ、復讐戦ですか!」
「そんなわけないでしょう。しかも『戦』ってなんなの」
一刀両断のもとに否定されたうえに、突っ込みまで入れられた。
「じゃあ、なんでしょう」
実は言った小玉も、相手が復讐するとは思っていない。するならとっくの昔に懲戒されているはずだ。そんなありそうにない可能性ぐらいしか心当たりがない。
「多分……閣下のお心に触れるものがあなたにあって、目をかけられたのではないかと思うわ」
それ『目をつけられた』の間違いじゃないかと、小玉は思った。
ほらあなたは武功を立てているから、という柳隊正の言葉が空々しく聞こえた。
「まあ」
ふっと微笑んで、柳隊正が小玉の肩を
「なるようになるから、なるようになりなさい」
禅問答のような激励だったが、小玉はけっこう無責任なそれに反発せず素直に
「はい、そうします」
実際、本当になるようにしかならないのだし。
※
異動まで三日間の猶予が与えられた。三日目には荷物をまとめて新しい宿舎に移らなければならないが、元々私物は少ないのだから急ぐことはなかった。小玉が荷物をまとめ始めたのは、二日目の朝からだったが、それでもまだ余裕があった。
小玉以外の女性の兵卒は、定型どおりに異動はない。したがって、宿舎で荷物をまとめているのは小玉だけだった。片づける小玉を手伝いながら、阿蓮がぽつりと言った。
「寂しくなる……」
「……うん」
小玉の声も浮かない。気心の知れた仲間と離れるのは寂しいし、なにより不安だ。特に、これから行く先に女性がほとんどいないとあれば。
二人はしばし無言で手を動かす。それほどたたずに荷物はまとめ終わった。あとは明日掃除をすればおしまいだ。
「おつかれー、ありがとう」
「ちょっと汗かいたね」
二人、汗を
そして気づいた――どことなく騒がしい。
「なんかうるさいね」
「なんだろ」
と首を
その中の一人が、近づいてくる小玉達に気づくと手招きしてくる。二人はそれに従い、彼女たちに近づいていった。
手招きした相手が、開口一番言ってくる。
「ね、聞いた? 昨日の夜、
この時代、皇帝の尊称として「大家」という言葉が使われている。崩御ということはつまり死んだということで……二人は思わず声をあげた。
「へ?」
「えっ!」
一天万乗の天子の死。それは、国家が大きな変化を迎えるということを示す。
「それは大変だね」
「次に即位なさるの誰かしらね」
……が、それは彼女たちの心を、軽く驚かせはしても、激しく揺さぶるものではなかった。
周囲の人間も、二人の反応に対して冷淡だのなんだの言うことはない。下っ端にとっては、皇帝の代替わりなど世間話の材料程度でしかないのだ……特に、昨夜死んだばかりの皇帝のような、毒にも薬にもならないような人間が皇帝だった場合には。
願わくば自分たちの生活に悪い影響が出ないよう、何事もなく代替わりが済んでくれとただ祈る程度である。
だが、今回の場合、すでにもう影響を及ぼされていることがあった。
「あ、そういえばさ、今日の夜のことだけど……」
誰かが言い出したことに、皆が「あっ」と声を上げる。
本日夜、
小玉のことを飲む口実にしていると言われればそれまでのことであるし、事実でもある。しかし彼女たちは彼女たちなりに、自分たちとは違う道を進みそうで、実際進むことになった小玉のことを応援しようとしてくれていたのである。
しかし、皇帝が死んだ直後に酒をかっくらって大騒ぎするのは、なんというか……。
井戸端の女たちはしばらく顔を見合わせると、口々に言った。
「さすがに……まずいわよねえ」
「無理ね」
「飲めないわね」
「さすがに、大家がお隠れになった直後は、ちょっと」
「うん……下手すればとっ捕まるから」
「ですよねえ……」
かくて、今晩予定されていた小玉の歓送会は、満場一致で中止と相成った。小玉は率直に思った。
わあなんか幸先悪いな、と。
※
翌日、小玉は阿蓮他仲間たちと簡単に別れの言葉を交わすと、送ってくれる者の後について、荷物を担いでえっちらおっちらと異動先へと旅立った。
旅立ったといっても同じ敷地内なのだが、ここは皇帝の住む宮城である。「同じ敷地内」という表現がなにかの冗談に思えるくらい広い。敷地内移動ですら「旅立つ」という表現が似合う、珍しい場所である。
なお、「ここから○○歩先便所」などという親切な標識はもちろんない。小玉をわざわざ送ってくれる人がいるのも、べつに小玉に限った話ではなく、異動する者全員にとられる措置である。迷って当たり前なのだから。
やがて、異動先の衛が管轄する場所に入ると、小玉を連れてきた相手は手近にいる者を捕まえて、小玉を引き渡した。
「じゃあ、私はこれで……」
「はい、どうもありがとうございました」
送ってくれた相手に、小玉は深々と頭を下げる。相手は「元気で」と言うと、軽く手を振って立ち去っていった。
小玉はその背を見送りながら、これでまた見知らぬ人間に囲まれる生活が再び始まるのだと思った。そんな小玉に声がかけられる。
「来な。宿舎まで行くぞ」
「はい」
小玉は、言い出すなりさっさと歩き始めた男の背中を追い掛けた。相手の歩幅が大きいので、自然小走りとなる。ずり落ちる荷物をよいしょと背負いなおすと、振り返った男が「持ってやる。よこせ」と言って、小玉の荷物を片手で持った。
「荷物少ないなぁ、お前」
「あんまり、物持ちじゃないんで」
元々実家から持ってきたものは少ないし、衣食住は官給品でほとんどこと足りる。そのため、小玉が、この一年で買ったものは極めて少なかった。せいぜい、私服一着とたまに食べる干し芋とか木の実くらいである。
それ以上のものを買うだけの給与は貰っていたが、将来のことを考えると消費より蓄財に傾くのは当然のことといえた。
男はさらに尋ねてきた。
「お前、なんでここに来たんだ?」
それはむしろ小玉のほうが熱烈に知りたい。
「わかんないんです。ここでどんな仕事するのかも、全然」
なるようになるとは思っていても、やはり多少は不安に成る時もある。へにゃ、と
「ほら、これやる」
なぜか
とはいえ、甘味は貴重である。小玉は丁寧に礼を述べてから、後で砕いて食べようと、大事に懐にしまい込んだ。
そうこうしていると、やがて平屋の建物が見えてきた。あれかな、と思いながら前を行く男の背を追い掛けていると、
「ほらよ、ここだ」
案の定、建物の前で立ち止まった男がそう言い、持ってくれていた荷物を手渡した。
「ありがとうございました! 飴も大事に食べます」
片手をあげて去っていく男を見送ってから宿舎に入り、中にいる人に声をかけて事情を説明する。しばらく待つと、年配の女性がやってきた。宿舎の管理をしている人なのだろうか。
小玉が来ることはきちんと伝わっていたらしく、
「あなたが来たら、すぐ来るようにと沈中郎将閣下が」
「へ!?」
荷ほどきどころか、一休みさえする暇はなかった。慌ただしく荷物を丸ごと部屋に放り込むと、小玉は部屋まで案内してくれたおばちゃんの後を追い掛けた。
なんだか今日、誰かの尻を追い掛けることしかしていないような気がすると思いながら。
※
「久しいな」
沈中郎将は、相変わらず性別不詳の端整な顔をしていらっしゃった。相変わらずといっても、以前会ってから三ヶ月も経っていないので、変わっていなくて当然なのだが。
「どうもお久しぶりでございます」
小玉がぺこりと頭を下げると、沈中郎将は
「大家がお隠れになったため、忙しい。本題に入る」
「……はい」
そういえばそうだったと、小玉は皇帝の崩御を思い出した。不敬極まりないが、今日は引っ越しに神経を尖らせていたせいで、そのことをすっかり忘れていた。
言い方を変えれば、忘れられるくらい小玉を取り巻く環境に緊張感がなかったといえる。飴をくれた人もいるし。
結局、兵卒にとっては皇帝の死はあまり大きな衝撃ではないのだ。長い歴史の中ではその死にあたって「泣かぬものなし」と言われる皇帝もいるのだから、皇帝全般の死がそうであるとはいわない。
だが、「ことごとく躍り上がって喜ぶ」と言われた皇帝よりはましであるのも事実だ。
「お前には、これから私の従卒をつとめてもらう」
「はい」
やっぱりそれだったのかと、小玉は内心
しかし、わざわざ自分を異動させてまでその仕事に従事させる理由が見つからなかったのも事実だ。
もしかしたら、まったく違うとんでもない仕事をさせられるのではないかと思いもしたのだが……そうならなくて、よかったよかった。
「あとのことは、この者に聞いてくれ。
沈中郎将はその隣に立つ男を示した。それで話は終わりだった。
本当に忙しいんだなあと思いながら、暁生と呼ばれた男に促され、小玉は部屋を退出しようとした。
「ああ、ちょっと待て」
呼び止められ、小玉は振り返った。沈中郎将は真顔で尋ねてきた。
「その後、実家から手紙は来たか?」
「はっ……」
あまりに不意打ちな問いに、小玉は大きく口を開けた。
「お前の兄の子は……まださすがに生まれてはいないか。経過はどうだ?」
「あ、はい、順調だそうです」
義姉の腹の子は、そろそろ六月になっているはずである。
「そうか、それはよかったな」
と言うと、沈中郎将は微笑んだ。そこまではよかった。
「次に手紙が来たら持ってくるといい。読んでやろう」
「いや、もう……どうか忘れてください、あの、もう!」
小玉はちょっと泣きそうになりながら叫んだ。なにかの嫌がらせなんだろうか、これは。
だが小玉は、数ヶ月後には「本人がいいって言ってるんだから、いっか」と驚異的な適応力を発揮して、堂々と手紙を読んでもらっている自分がいることを知らない。
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