第6話 彼女にとっての褒美 ~無知とは誰の罪なのか~

 宮城は広い。

 広すぎてわけがわからない。


 勤めて一年ちょっと経つが、小玉しょうぎょくは自分が職場を把握している自信をこれっぽっちも持っていなかった。宮城を人体でたとえるならば、多分自分は右足小指の爪一枚分程度しか分かっていないだろうと思う。

 だからりゅう隊正たいせいの後をひたすらに追う小玉は、「しん中郎将閣下」のいる所まで、どこをどう進んでいるのかまるで分からなかった。それでも進んでいるうちに、行き違うお兄さん(まれにお姉さん)が、なんだかあか抜けてきているのはわかった。

 なにやら自分がすごく場違いな気がした。落ち着かなくて、小玉はそっと自分の胸を撫でる。正確には、そこに収められている手紙を。どうやら手紙にはもうちょっとの間、本来の用途以外での活躍をお願いすることになりそうだった。



 やがてある一室の前で柳隊正が立ち止まる。

「さて、小玉。言われたことを忘れないように」

「はいっ」

 小玉は気合いを入れて返事をする。すると柳隊正は小玉を安心させるように微笑みかけた。なんだか……すごく頼もしい。うっかりきゅんとしそうだった。

 柳隊正は扉の前に立つ者と、取り次ぎを頼むために二、三言葉を交わした。やや待ってから、室内に通される。柳隊正の後について部屋に入り、中にいる人間を確認するよりも早くひざまずいて頭を下げる。頭を下げている隣で柳隊正が、用件を手短に伝えているのを聞く。

「顔を上げろ」

 許されて顔を上げて、小玉は驚いた。話の流れからして目の前にいる人が、沈中郎将閣下なのだが……。


「きれーな人だなあ」というのが第一印象だった。

「で、男? 女?」というのが第二印象だった。


 目の前にいる人は、すっきりした顔立ちで色が白かった。多分男なんだろうとは思うが、自信はない。着衣が男物であるからといって、単純に男として見るにはためらいがある。かといって男装の麗人と表現することにも違和感があった。

「お前がかん小玉か」

 問う声も男としてはやや高いが、女としては低い。

「はい」

 返事をしながら小玉は、このりんとした美女に見えなくもない人物が、ますます男なのか女なのか本格的に悩む……わけもなかった。

 だって、他人の性別である。それも、多分今後かかわることもなさそうな偉い方の性別など、気にしたって意味がない。とりあえず人間であることは確実なのだから、性別など大した問題ではない。妖怪ようかいであるほうがよっぽど問題ではないか。


 小玉は激しくなにかが間違っている結論に至ると、さくっと沈中郎将の性別のことを忘れた。小玉には他に気にすべきことがあるのだ。粗相をしないでこの場を立ち去ることと、懐の手紙を読んでもらうことと。

「では、お前は出ているように」

「……はい」

 ……あと、いるだけで頼りになりそうな柳隊正が退室してしまったこと。


 しかし、小玉に抗議する権利などあるわけがなかった。どうやら柳隊正もこの展開は予想外だったらしく、心配そうな一瞥いちべつを小玉に投げかけてきたが、口ではなにも言わず出ていった。

 相手は彼女が抗議するそぶりを見せないくらいの偉い人なのか。小玉はそう思って、気をつけねばと自分を戒めた。


 とはいえ沈中郎将とのやりとりは、型どおりに始まったため、柳隊正の言うことを守っていれば問題はなかった。

 相手が小玉の年齢や出身を淡々と質問し、小玉も淡々と答える。その後、「後宮からの逃走阻止事件」の顛末てんまつについてやはり淡々と聞かれた。

「なぜその時その場にいたか」「なぜ斬り合いになったのか」「なぜそうなる前に話しかけなかったのか」等々。

 以前柳隊正にも同じことを聞かれているので、おおむねすらすらと答えることができた。時折つっかえてしまったのは、正直に「うっかりかわやに剣を忘れてしまいました」とまで話すのが恥ずかしかったせいだ。それに、怒られるのがちょっと怖かった。

 とはいえ相手はそのことには特に追及することもなかったため、一安心ではある。


 質疑応答が終わると、沈中郎将はそんな小玉をじっと見て、つぶやくように言った。


「ずいぶんと度胸が据わっている」

 小玉はそれを聞いて身を固くした。それは小玉が最近気にしていることだった。

 今も時々、剣が肉を裂いた感触が手によみがえって震える。思い出しては気が重くなることがある。実家に帰ってしまいたいとも思う。

 だがそれは、精神的な傷というには浅すぎる気がするのだ。許婚いいなずけに捨てられたときといい、自分は嫌なこと極まりない経験をしたにしては、落ち着きすぎというか立ち直りが早すぎる。

 だから小玉は、自分が人間としてどこかおかしいのではないかと、思うようにもなっていた。


「関小玉」

「は、はい」


 軽く落ち込んでいたところを唐突に呼ばれ、小玉は慌てて返事をする。

「今回のことはよくやった。今後とも職務に精勤せよ」

「はい」

 小玉は頭を深々と下げた。きっとこれで終わりだ。隊正さまのところに戻ったら手紙を……。

「ついてはお前に褒美をとらす。なにか欲しいものはあるか?」

 終わりではなかった。


 褒美。期待はしていなかったが、もらえるとなれば貰いたい。

 そういえば、れんも「貰えるんじゃない?」みたいなことを言っていた。


 しかし、「なにが欲しい」と聞かれるとは思わなかった。こういうものって相手のほうから、渡すものをあらかじめ決めておくものではないだろうか。

 例えばほら、金一封とか。いや、銀でも銅でもなんでもいいが。

 急に言われてもなにも出てこない。本当にこういうのは困る。すごく、困る。

 今こそ柳隊正がいてくれればよかったのに、と小玉は強く思った。

 あの部下の質問を先読みした彼女の慧眼けいがんならば、不安げな目を向けるだけで助け船を出してくれたのではないかと小玉は思う。

 

 ――えーと……。


 小玉は悩んだ。悩んで……そもそも自分は欲しいものなんてあったっけ、という根本的なことに思い至った。これについては考え込む必要などない。今一番欲しい物……いや、ことはすぐに思い付く。

 小玉は力強くうなずいた。これだ、という確信を込めて高らかに言い放つ。


「お手紙、読んでください!」


 沈中郎将の表情が、この時初めて動いた。純粋な驚きに。それはやがて怪訝けげんそうなものとなった。

「……手紙? なんのだ?」

「実家から来た手紙です」

 小玉は柳隊正に言われたとおり、聞かれたこと「は」素直に答える。

「なぜ私に読めと?」

「あたし字が読めないんで、誰かに読んでもらおうと思っていたんです」

「……今持っているのか?」

「はい!」

 小玉は喜々として懐から手紙を出した。数日抱きしめていたせいでしわっしわになったそれを。


「……」


 沈中郎将は、無言で小玉の顔と手紙を数度見比べると、一瞬だけ斜め右下を見てから言った。

「渡しなさい」

「はい!」

 小玉は勢いよく立ち上がると、のしのしと歩いて沈中郎将に手紙を渡した。

「あっ、ついででいいんですが、返事を代筆してくれると、とってもうれしいです」

「……いいだろう」

 微妙に震える声で沈中郎将は承諾した。


 そうして読んでもらった手紙の内容は、小玉にとってある決心を促すものとなった。小玉は少し考えて実家への返事を口にし、中郎将に書き留めてもらった紙をもらうと、礼を言って懐に突っ込み、意気揚々と退室した。

 後に残された沈中郎将が、墨の付いたままの筆をそこらへんに転がして、身を小刻みに震わせながらしばらく笑い続けたことを、彼女は知るよしもない。



 ~褒賞の受け方作法〈兵卒編〉~


 相手は必ずこう尋ねてきます。

「なにか欲しいものはあるか?」

 それを聞いたら、必ず一回断りましょう。


 ※回答例

「お心だけで結構でございます」「滅相もございません」「そのような物をお受けするわけには参りません」……。


 断った後、相手はこう言ってきます。

「そうか。では○○をとらす」

 ここで立てた功に相応の物品がもらえますので、ひざまずいたままありがたく受け取り、感謝の言葉と共に押し頂きましょう。

 この時は決して立ち上がらず、顔も上げてはいけません。



 ……などと明文化されていない一連の作法は、いわゆる慣例というやつである。

 この場合、その慣例を知らない新米が悪いのか、教えなかった周囲が悪いのかは各人によって意見が分かれるだろう。

 ただし上官の柳隊正は後々小玉の振る舞いを聞いて、死ぬほどの胃痛と後悔にさいなまれる……なんで教えてなかったんだ自分、と。


 したがってどうやら今回の失態は、本人の問題ではなく教育の問題のようだった。

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