第5話 回復と手紙、そして一人の佳人
まるで水の底から水面へと急上昇するように、頭の奥底から押し上げられる感覚。ぱちりと目を開くと、意識は澄み渡っていた。それまでの覚醒の時に頭にまとわりついていた
目の奥にかすかな痛みを感じるが、これは寝すぎたからであろう。自分は何回寝て、起きたのだろうか。
あたりに意識を向けると、真っ暗だった。
身を起こし、視線を巡らせても暗がりしか見えない。しばらく闇の中で目を凝らしていると、ようやく物の輪郭が見えてきた。
隣の寝台にある膨らみは
静かに水を飲み、寝床に戻ったころには、すっかり目が暗さに慣れていた。
阿蓮を起こしていないだろうかと、寝床の上の膨らみをじっと見る。その膨らみが彼女の呼吸に合わせて、かすかに、しかし規則正しく上下しているのがおぼろげに見て取れた。
小玉はほっとして、自分も布団の中に潜り込もうとして、ふと枕の脇に置かれたものに気がついた。なにやら白いもの。手に取るとそれが紙であることがわかった。
すぐわかった。
この大きさは手紙だ。
小玉は、さっきまでの阿蓮に対する配慮も忘れ、転がるように寝台から降りた。そして部屋にただ一つある明かりとりの下へと行った。
かすかに漏れ入る月光にかざせば、表書きが見えた。小玉は字を読めないし書けない。だから表書きも模様にしか見えないが、それが実家から来る手紙にいつも書かれているものだというのはわかった。
小玉はすがりつくように手紙を胸に抱え込んだ。
帰りたい、と思った。
さっき起きたときも、同じことを思っていた。それを思い出した。
正直、覚悟などしていなかった。人を傷つける覚悟、ましてや殺す覚悟。
仕事は安全だと思っていたし、誰かを傷つけるようなことが起こるとは思っていなかった。そもそも小玉たちがいるところにたどりつくまでに、他の警備を乗り越える必要があるのだから、小玉がそう思うのも無理はない。
だが兵を置き、訓練させるからには相応の必要があるのだ。甘かった、と小玉はほぞをかんだ。確かに自分は甘かった。次があったとしたら、そのときはうろたえないようにしなければならない。理性はそう考えた。
しかし、頭の大部分は感情で埋め尽くされ、それは泣きわめいていた。
――もう嫌だ、こんなところ。
――次なんて、あってほしくない。
――一生嫁に行けなくてもいいから……ううんどこにも行きたくない。
――母ちゃん、兄ちゃん、
静かに嗚咽をもらしていると、肩に手が置かれた。いつの間にか起きていた阿蓮だった。その手に促されるまま、小玉は自分の布団の中へと潜り込んだ。しっかりと手紙を抱きしめたまま。
目を閉じる。再び眠りにつく。
でも、夢の中でもずっと思っていた。
――帰りたい、帰りたい。
※
とはいえ、そんな願いがすぐに
それでも小玉の風邪はわりとすぐ――数日で完治したので、それはそれでめでたいことであった。特に長引かせることもなく、あっさり快癒した理由について、無愛想そうな見た目の医師は一言、
「若さだな」
とのみ言った。本当に無愛想な人だったようだ。
小玉が間抜けな声をあげた。
「はあ」
医師の言葉は誰からも異論が出なそうなものだった。この場合、彼の医術の腕はあまり関係なかったようだ。ただ薬が小玉の治癒を早めたのも確かだろうから、小玉は「これまでありがとうございました」と頭を下げた。素直な態度に、無愛想なりに満足げに医師が
案外親しみやすい人らしい。
「まあ、髪もな……これをやる。美髪になるということで、後宮のお
というか、普通にいい人である。
「ええっ!? いや、そんなたいそうなもの、いいですよ!」
社交辞令ではなしに慌てて断る小玉の頭に、医師は痛ましそうなまなざしを向け、さらに小玉の手に丸薬を押しつけてきた。
「構わん。効果があるかどうか、怪しいものだからな」
「……あっ、そうなんですか?」
それはそれでもらえない。というか、もらいたくない。なんでその事実を言ってしまうのだろうか。
どうやら医師は、だいぶ不器用な人でもあるようだった。
「…………」
結局、押し切られてしまったかたちで受け取った薬を、小玉はなんともいえない表情で見つめた。
もらってしまうのであれば、いっそ効果が怪しいという事実を知らないままでいたかった。知らずに信じていれば、逆「病は気から」状態で、もしかしたら効果が出たかもしれないものを。
怪しいと知ってしまったからには、他のひとにあげるわけにもいかない。それにもし誰かにあげようとしても、今の小玉には誰もが「あんたが飲みなさい」と言うだろう。みんな基本的に気のいい人たちだから。
そんな小玉の髪は今、ばっさりと首の付け根から切り落とされている。
小玉の回復が進み、余裕ができたころにはもう、彼女の髪はだいぶ傷んでいた。当然こびりついた血のせいである。また阿蓮がそんな状態の髪を、布でもみもみしたのも原因の一つであった。善意が
阿蓮がやらかしたことについて、二人はあえて触れない……というわけでもなかった。お互い無難に「ごめんね」「いいよ、むしろありがとう」と、友人同士らしいやりとりで片をつけている。ついでに髪は阿蓮に切ってもらった。
総じて不幸な結末になってしまったが、それでもそれなりに面白いこともある。「いいこと」と言い切るには差し障りがあるが。
小玉は頭に手をやる。襟足の短くなったところに触れ、さわさわとその場所を何度も
……意外にこの場所、手触りがいいのである。
妙に心和む感触で、最近小玉はこのあたりを撫でるのが癖になっている。それは小玉だけの特殊な見解ではないようで、お見舞いが解禁されてやってきてくれるようになった
それはともかく、問題はもらった丸薬である。飲むべきかどうか迷ったそれを、小玉はひとまず懐に放り込んだ。問題を保留にしたのである。これは逃げではない。
元々医師の診察の後に予定が入っていた。
なぜなら「診察の後で来い」という連絡を受け取ったとき、一緒にいた阿蓮がこう言ったのだ。
「なんだろうね。ご褒美でももらえるのかな?」
小玉はその言葉にあいまいに頷いた。ご褒美をもらえるような「なにか」をしたのを思い出して、少し気が重くなったからだ。小玉は回復してからは、あえて思い出すのを控えていた。
小玉の様子を見て、阿蓮が慌てて場を取り繕おうとする。
「あ、や、えと、ほら隊正さまのご用が終わったら、手紙読んでもらえばいいんじゃないかな、あんたの実家から来たやつ!」
「あー……いいね」
阿蓮の言葉に、小玉は少し顔をほころばせた。阿蓮の気遣いが
実家から来た手紙を、小玉はまだ読んでいない。いや、読んでもらっていないといったほうが正しい。
読み書きができない小玉は、誰かに朗読してもらわないことには、内容を把握できないのだ。しかし、風邪で
だが柳隊正は読み書きができるのだ。そしてしばしば兵卒の手紙を読んでやったり、代筆してやったりもしていた。しかも純然たる厚意で。だからもちろん無償である。
そういうところで細やかに部下の面倒を見てくれている人だから、いくらか不満を持ってもみんな彼女についていっているのである。ちなみに小玉も阿蓮も、いつもお世話になっている。
これまで精神安定の道具としての活用にのみ終始させて、本来の用途を失念していたが、そもそも手紙は情報を伝達するものである。小玉はようやくそのことを思い出した。そうなると、すぐにでも手紙の内容を知りたくなる。
小玉は毎晩抱きしめて寝ていたせいでしわが寄っている手紙を懐に入れた。
「じゃあ、行ってきます」
行ってらっしゃい、ちゃんと診てもらうんだよーと言う阿蓮の声を背に、小玉は部屋を出たのだった……。
そんなわけで、柳隊正に会いに行きたくもあり、行きたくなくもあるのである。
しかし個人の感情とは関係なしに、命令を受けたからには遂行する義務が小玉にはある。
※
小玉は柳隊正の部屋の前で、若干裏返った声をあげた。
「
「入れ」
いらえに応じて柳隊正の部屋に入ると、彼女はすぐに問いかけてきた。
「体調は?」
「あ、はい。もう大丈夫みたいです。お薬も、もういらないってお医者さまが」
「そう、それはよかった」
柳隊正が少し
「これから、私と一緒に出かけてもらうので」
「ど、どこへですか?」
唐突な宣言に、小玉はうろたえて尋ねた。
「
「しんちゅうろうしょう……」
すぐに返答が来たが、不幸なことに小玉にはそれを理解する能力以前に知識が欠けていた。音だけを反復する小玉に、柳隊正がさっと補足する。
「偉い人です。そのことだけを覚えていなさい」
部下の疑問を先読みする洞察力。そして相手に応じて、的確かつ手短に選ばれた言葉。これが上に立つ人の力……! などと小玉は胸裏で感心する。
しかしこの場合は単に小玉があまりにも読まれやすいだけであって、むろん柳隊正の指導力その他とは一切関係がない。
とはいえ一つ理解したら、別の疑問が浮かんできた。小玉はそれを柳隊正に発する。
「その、偉い人の所にあたしなんかがどうして行くんでしょうか」
この場合、小玉が自分のことを「なんか」と言うのは、
「沈中郎将閣下は今回の事件の後始末をなさった方で、あなたから直接話を聞きたいらしい」
小玉は一拍沈黙して、おそるおそる尋ねる。
「あー、えー、なにを話せばいいんでしょうか……」
「聞かれたことを、なにもかも」
柳隊正は明快に答えた。明快だがあんまり参考にならない。なんかこう……。
「そう……付け加えるならば、聞かれないことはなにも言わないように。気づかずに失態をおかしかねないので」
「わかりました!」
すごく参考になった。
小玉は力強く答えた。なにか
「あとは、部屋に入る際……」
その後、いくつか礼儀上の注意が続く。小玉はそれを神妙に聞き、あとはとりあえず、返事ははきはきとした大きな声で、それ以外は大人しくしてりゃいいんだろうと腹を
一つ気になることは、懐の手紙はいつ読んでもらえるのだろうかということだったが、今はその話を持ち出すべきときではないとわかっていた。
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