第4話 月夜の事件とはじめての試練

 間違っているということに気づかない小玉しょうぎょくは、過去の経験から得た最善と思える行動をとろうと思った。

 

 すなわち――こういう場合は、気を遣ってさっさと去るべし。

 

 そしてさっと身を翻し、まだちょっと腰が痛いけれども、可能なかぎり急いでその場から立ち去ろうとした。その行動は、純度混じりけなしの好意によるものだった。


 しかし、である。

「待て!」

 小玉は男から呼び止められた。


 ――なんでさ。


 その瞬間、小玉の脳裏には疑問の念しか浮かばなかった。

 とはいえそれでもぴたっと立ち止まった小玉は、やはり素直な娘だった。

 しかし素直なりにおかしい、とは思う。小玉はこういうときに場に残って、喜ばれたためしがない。だって自分は、率直にいって邪魔者である。なんてったって過去に実例がある。



 このたぐいの現場に出くわしたとき、ぽけっと観察していたら、逢い引きの片割れである先輩に、にっこり笑われてあっちに行けという手振りをされた。

 そしてそれを二回繰り返したあたりで、ねえさんたちに呼びつけられた。怒られたわけではない。むしろとても優しく、

「こういう場合は、さりげなく場からいなくなるのが礼儀なのよー」

「いい旦那だんなさんを見つけるために絶賛活動中だから、そっとしておいてあげてねー」

 ……と言われたのである。



 それ以来、この類の状況は「逢い引き」というもので、逢い引きには余計な人間は不要、という知識が小玉の脳裏にはすり込まれた。そしてその知識に基づき常に行動してきたが、それで失敗したことは一度もない。

 しかし今はむしろ、残れといわんばかりの勢いで呼ばれてしまった。理由が本当にわからない……あ。

 思い当たることが、一つあった。


 ――もしかして、さっき投げた石、どっちかの人に当たった!?


 それは去る前に一言、「ごめんなさい」と告げなくてはならない事案である。悪気はまったくなかったんですよと心中で言い訳をしながら、小玉は慌てて振り返り……男の鋭い眼差まなざしに射貫かれた。


 その瞬間感じたものを、そのときの小玉はなんと表現すればいいかわからなかった。


 後に知った彼らの置かれた状況からして、それはおそらく、驚愕きょうがく、怒り、憎悪、恐怖などの感情が渾然こんぜん一体となって男から発せられたものだったのだろう。だがまだ人生経験の浅い小玉には、「嫌ななにか」としか感じ取れなかった。


 とはいえ、それだけでも今自分が受けている感情が、石をぶつけられたことに対する怒りではないということはわかった。

 そして目にしているものが、ただの逢い引きではないということもわかった。

 なによりも……自分は今、なにかまずいものを見ているということも。


 寒さ以外の理由で、身が震える。我知らず、手にした剣をぎゅっと握りしめた。

 するとまるでそれを合図にしたかのように、男が歩み寄ってきた。シャッという音が響く。なんの音だろうと疑問に思うより早く、月光を反射した刃が目に入った。男が剣を抜いたのだ。

 小玉がはっと息をのんだ瞬間、男が突きかかってきた。



 そのときの自分のことを、小玉は覚えていない。

 もしかしたらわけのわからない絶叫を発していたのかもしれないし、あるいは無言であったのかもしれない。

 ただ……気がついたときには、小玉は地に伏した男をぽかんと見下ろしていた。



 どうしてこうなったのだろうかと思う以前に、今自分がなにを見ているのか、小玉はわからなかった。

 男の体は、ぴくりとも動かない。その身に剣が突き立っていた。自分の剣に似ているものであった。つい今まで持っていた剣は、小玉の手の中になかった。

 それらの断片的な事実が、一つに収束しないまま、小玉は突っ立って男を見下ろしていた。

 ぴくりとも動かない彼は、明らかに絶命していた。


「ひっ……」


 声が聞こえた。小玉はのろのろと顔を上げた。女がいた。夜目にも白く見えるかんばせを引きつらせて、彼女は言った。

「ひとごろし……」

 のどからやっと絞り出した、かすかで裏返った声だったが、小玉は打たれたようにびくりと身をすくませた。

 それに力を得たかのように、女は絶叫し、小玉に向かって駆けだした。

「人殺し!」

 手には光るもの――匕首あいくちがあった。



 思考は停止したまま、それでも今度はきちんと覚えていた。



 まるで動いていない頭と裏腹に、体は滑らかに動いた。男の体から剣を引き抜き、それでもって女の手から匕首をはじき飛ばす。その勢いのまま、彼女の首をいだ。

「がっ」とか、「あっ」とかいう声……ではなく音が、女の口から漏れる。間髪れず女の首から血が噴き出した。

 走り寄る勢いのまま、女の身が小玉にのしかかった。自然、血が小玉の身にかかる。冷気にさらされた小玉の身に、その血はあまりにも熱かった。脱力した女の体を支えきれず、小玉は地面に後ろから倒れ込んだ。

 腰を打った。でも痛くない。痛いと感じないといったほうが正しいのかもしれない。身にかかった血が、急速に熱を失っていく。

 手から力が抜け、剣が滑り落ちた。たまたま石が真下にあったのか、がちんという鈍い音が耳に入った瞬間、小玉の頭は「記憶」するだけの状態から、「理解」という状態に移行した。


「あ、ああ、あ……」


 体がおこりのように震える。自分にのしかかる女の身を遠ざけようとしたが、手に力が入らない。女の体の下でうごめき、地をうようにして自らの身を引きずり出した。


 なにが起こったのか、なにをされたのか……なにをしたのか。


 理解はした。だが、受け入れられるかどうかは話が別だ。思わず震える手を口元に持って行き……ぬるりとした感触と生臭さに気づいて甲高い声をあげた小玉は、直後盛大に嘔吐おうとした。

 さっき阿蓮あれんに持ってきてもらった食事を吐くに吐いた後、小玉は地面に手をこすりつけて必死に血をぬぐった。手が土まみれになることを今日ほど歓迎したことはない。血まみれよりずっとましだった。


 やがて小玉は、うずくまってすすり泣き始めた。いつまでも帰ってこない小玉を心配した阿蓮が駆けつけてくるまで、ずっと。


        ※


 翌日のことである。

 小玉のおそれの対象である柳隊正りゅうたいせいこと、柳銀葉ぎんようは頭を悩ませていた。なんとも面倒なことになったと、ため息をつく……心の中でのみ。


 なんといっても、上官の前なので。しかも説諭中ときては。


 おそらく、自分と並んでいる同輩も同じ気分であろう。だが今もっとも憂鬱ゆううつなのは自分だろうという自信が、銀葉にはあった。

 銀葉の悩み事は、夕べ発生した事件に依拠する。といっても、事の次第は単純であるし、もうすでに解決もしている。


 内容としてはこうだ。


 後宮に入ったある女には、将来を約束していた男がいた。男は後宮に忍び込み、二人は手に手を取り合って逃げようとしたところを兵士に見つかって斬り捨てられた。おそらく彼らの身内も、近々に刑に処されるであろう。

 小話などでよく聞くような悲恋である。銀葉も話を聞くだけの立場であれば、哀れなことだと単純に同情したであろう。

 しかし、残念なことに銀葉は関係者であった。それも責任者に近い立場だった。したがって抱く感情は、「余計なことをしてくれた」というものである。複数の意味で。

 場合によっては、銀葉ら後宮周辺の警備を行う者たちも、男を侵入させたということで罪に問われかねない。

 だが今回については、その心配はないだろうと銀葉は予測していた。逃げようとした二人を始末したのは、末端とはいえその警備を担当する者だ。もし男の侵入についてこちらに非があったとしても、これで相殺されるはずだからだ。

 このたぐいの処断は、上官の気分次第で変わることもありえる。しかし今回この事件の後始末を任されている上官は、謹厳実直で人望を集めている人間だ。そういうことはまずないだろう。



「……次はない。それを覚悟しておくように」

 案の定、上官からの説諭は、叱責というより訓戒で終わった。

「お言葉、しかと肝に銘じます」

 一斉に言い、銀葉たちは頭を下げた。同輩たちは安堵あんどしているだろう。しかし、銀葉はまだ安堵できない。

「さて、彼らを斬った者はいずこにいる?」

 予想していた問いがついに発せられ、銀葉は少しためらった。

 同輩の意識が自分に集まる。どのみち答えるしかなく、またこのことについては、ためらいはしても説明する準備はできていたので、銀葉は口を開いた。

「……私の部下でございます。今はおりませぬ」

「なぜ連れてこない?」

 上官の言うことはもっともであるが、銀葉には連れてこられない理由があった。

「……どうかお許しくださいませ」

「何事かあったか?」

 当然、事情を聞かれる。銀葉は重ねて言った。

「今、せっておりますゆえ」

「怪我でもしたか?」

 それはない。現場の検分に直々に立ち会った上官も、それはわかっているだろう。死んだ男の剣にも、女の匕首にも誰かを刺した跡はなかったからだ。

 それなのに、このような問いを発せられるということは、銀葉が部下の手柄を横取りするつもりで連れてこなかったのだと思われているのかもしれない。もちろんそんなことはなかったので、銀葉は簡潔に事情を説明した。

「いえ、風邪をひきました」

 一拍間をおいて、上官がつぶやくように、銀葉の言葉を繰り返す。

「風邪」

「はい。夜間に大立ち回りを繰り広げた後、汗をく余裕がなかったらしく。ただ今隔離しております」

「なるほど」

 相手が納得した顔でうなずいた。実際銀葉が言ったことに、偽りはなにひとつ交じっていない。

「ならば、本復した後に私の元に連れてくるように」

「はい」

「充分な治療をしてやれ。薬が足りないならば、私の名で手配してよい」

「ご厚情に感謝申し上げます」

 それで話は終わりだった。銀葉たちは再び礼をすると、上官の前から退出した。


        ※


「銀葉」

 上官の姿が見えなくなるや否や、一同の体から力が抜ける。特に銀葉は大きなため息をついた。そんな彼女に、同輩の一人が声をかけてきた。

「大丈夫なの? 熱出した子。たしか、あなたの従卒でしょ」

「ええ、まあ……」

 言葉を濁す銀葉に、別の一人がまゆをひそめた。

「そんなに悪いの?」

「熱は高いですが……体はおそらく大丈夫だと思います。体は」

 銀葉のその言葉に、全員が納得の声をあげた。

「ああ……」

「なるほど」

 彼女たちは銀葉が言外に持たせた含みについても得心したようで、その顔には一様に「気の毒に」と書かれていた。

 そう、確かに銀葉の部下は風邪をひいている。高熱も発している。

 だが、銀葉が部下を連れてこなかったのは、それだけが理由ではない。


        ※


 夕べ、銀葉は部下から報告を受けて、押っ取り刀で現場に駆けつけた。

 そのとき、銀葉の従卒であるかん小玉は、うずくまって震えていた。銀葉が声をかけても、最初は反応しなかった。上官からの声にはとりあえず反応、という教えがたたき込まれているはずの兵卒がだ。

 一見したところ怪我はなかったが、初めて人を殺したことで心に大きな負荷がかかっていることは明白だった。

 確かに小玉はまだ若いが、兵士なのだから甘いといえるかもしれない。だが、銀葉たちの配属されているところの仕事というのは少し特殊で、誰も傷つけずに仕事を終える者も珍しくない。

 だから小玉には、人を殺す心構えができていなかったはずだ。精神的な打撃は相当なものだったということは、容易に推し量れた。


 ――かわいそうに。


 なんのてらいもなく、そう思える。率直にいえば死んだ二人よりも、それを斬った小玉のほうが銀葉にとっては哀れだった。

 しかしそれは、小玉が人を殺したことそのものに対してではなく、彼女が心構えなしに人を殺したということに対してだった。

 将来的に小玉は人を殺すであろうと、銀葉は思っていた。もちろん、今配属されているところでではない。あれはその枠に収まらない器だと銀葉は考えていた。


        ※


 そもそも小玉という娘は、入ってきたときから他の女たちと違っていた。連れてきた武官が、そっと銀葉にこうささやいたのだ。

「関小玉という娘をよく育てるといい」

 顔見知りの武官の顔を立てるという意味もあって、銀葉は小玉を自分の従卒につけた。そしてほどなくなるほど、と納得した。

 小柄ではあったが、体の使い方をよく知っていた。学はなかったが、頭の回転も速かった。なにより、やる気があった。


 こういうところに来る女たちは、はっきりいうと、やる気はない。

 ほとんどの場合、仕方なく来てしまったという事情を持っているため、やむをえないだろう。確かに、他に行くところがないため、ここにいるために必要なことに関しては積極的である。しかし他に行くところを見つけることに対しては、もっと必死なのも事実である。


 したがって入る端から辞めていく者が非常に多い。そして残念なことに、それで困ることもない。あまり期待されていない場所なのだ。

 むしろやる気がある人間が多すぎると、困る面もある。新人は従卒として上官につけるのが定例だが、新人が多いとその上官の数が足りなくなるという、身もふたもない事情があるのだ。時期によっては、複数の従卒を抱えることになる。

 こういうとき、小間使いが増えたからうれしいと思う者はいない。教えることのほうが多いので、仕事が増える一方だからだ。

 だから上官のほうも去る者は追わず、「この前来た子いなくなったから、新しい子つけてくれていいよ」などと、打ち合わせであっさり語るのである。

 ここはそういう場所だった。


 そんな中で小玉という娘は、少し違っていた。


 すでに体がある程度できあがっているうえに、愚直といってもいいほど、言われたことをこなす。やるなと言ったことはやらない。

 鍛える当初は、そういう性質がよい方向に導く場合が多いので、その性質だけでも銀葉の目を引いた。そして伸びしろはもちろん、伸びる速さが銀葉の予想以上に群を抜いていた。


 これは化ける、と銀葉は思った。


 その結果、自分が傍目はためには理不尽に見えることをしているという自覚は、銀葉にある。銀葉が小玉に膏薬こうやくをことあるごとに差し入れているのは、贖罪しょくざいの念も多分に含まれている。事実、小玉の同室であるという阿蓮には、あからさまではないが不満そうな目を向けられることもある。

 それに対して理不尽な目にあっているはずの小玉は、依然素直である。だがそれは、多分訓練については深く考えていないからだろうと、さりげなくひどいことを思う銀葉は正しい。しかしそのうち小玉は反感を抱くようになるだろう――そのときが彼女の化ける瞬間ではないかと、銀葉はけっこう楽しみに待っていた。もっとも、そうなったらそうなったで、多少は落ち込むだろうが。

 しかし、事件はその瞬間を待ってくれなかった。



 不意に銀葉は、小玉の修業の成果を図らずとも示した死体を思い出す。

 見事な切口だった。

 もちろん、一流と呼ぶには遠く及ばない。しかし、あれを為したのが剣を握って数か月の少女だと考えると、なんとも末恐ろしい。そして悔しい。

 銀葉はその才能をつぶさないよう慎重に育ててきたつもりだった。だから、そのために人を死なせる覚悟を、おいおいつけさせていこうと思っていた。


 ――あの子はここで潰れてしまうのかしら。


 銀葉は再びため息をついた。そうはさせたくない。だが……そうなったほうが、人として幸せな人生を送れるかもしれないということもわかっていた。

「……まずは、あの子の熱が下がるのを待とうと思います」

「そうね、まずはそれからね」

 銀葉の無難な言葉に皆が頷き、それぞれの仕事のために散っていった。


 後に残ったのは銀葉と、もう一人。


「小玉って子、だいぶあんたが目をかけてたでしょ」

「……そうね」

 銀葉の語調が急に砕けたのは、相手が銀葉と同年に軍に入った間柄だからだ。人の出入りが激しいこの場では、階級が上に行けば行くほど同年に入った仲間は減っていく。事実、今去っていった同輩たちは、皆入った時期がばらばらだ。

 それだけに、同年に入った相手は特別で、内心を打ち明けることも多い。だから銀葉は抱えていた思いを口にした。

「私、彼女ならもしかすると、尉官……時勢次第では、将官にもなれるかもと思っていたのよ」

「そこまで?」

 相手が驚いた顔をする。女性で将官という人間は、これまで存在していない。皇帝の委任を受けたひんのような特殊な例はあるものの、純粋に武官として軍に入った者では皆無のはずである。

 そもそも兵卒からの出世だということを考えると、将官にまで出世するのは男でも難しいことだ。

「でも、そうね。銀葉もうまくいけば今頃は尉官になってたはずだから、素質持ってる子がわかるのかもね」

「…………」

 相手の言葉に曖昧あいまいな笑みを浮かべるのにとどめたのは、お世辞を言われたからではない。事実だからこそ、そんな表情を作るしかなかったのだ。

「……なんでここに戻って来ちゃったのかね、あんた」

「目立ちたくないのよ」

 表情を変えないまま、銀葉は短く言う。他の女と同様に、銀葉もまたあまり人には言えない事情を抱えて、ここにいるのだった。


        ※


 ――もうだいぶぬるくなっているだろうから、一度冷やすか。


 そう思った阿蓮が、小玉の額に置かれた布を取ったとき、小玉がそっと目を開けた。そのはずみに、目尻めじりまっていた涙が顔の横に流れる。

 阿蓮はとりあえず、布を寝床の近くに置いていたたらいの中に放り込み、そっと彼女に声をかけた。

「起きた?」

「あ……」

 小玉はなにか言おうとして……そのまま軽くしゃくりあげた。

「大丈夫。もうなんもないから」

 なにが大丈夫で、なにがなんもないのか自分でもよくわからないが、阿蓮は思いつくまま言葉を並べ、小玉の頬をでた。

 やがて彼女が幼児のように拙く言葉を紡ぐ。

「ちの、においが、するの……」

「うんうん、それは気のせい……」


 ……じゃないね。


 適当に返しかけて、阿蓮は小玉の言葉が正しいことに気づいた。

 発見されたときにはすでに高熱を発していて、半ば意識を失っていた小玉は、当然身を清めることはできなかった。阿蓮がらした布で体をいてはいたが、当然こびりついた血をすべて落とせるわけもなかった。

 しかも、血はすでに乾きかけていたのだから、なおさら落ちにくいという困難な状況であった。そんな苦境に阿蓮も果敢に立ち向かったが、人間には限界というものがある。

 特に髪の毛は、現時点ですでに異臭を放っている。ずっと一緒にいた阿蓮は鼻が慣れてしまっているが、起きたばかりの小玉には鼻についたのだろう。


 ――しかも髪って、顔の横にあるしなあ。


 どうしようもなくて、阿蓮はとりあえず天井を仰いだ……が、次の小玉の言葉でがばっと顔を下げ、一喝した。

「あらいたい……」

「あんた死にたいの!?」

 病人に怒鳴るものではないが、この場合、阿蓮の言っていることは正しかった。冬の寒いこの時期に、風邪を引きながらなお風呂ふろに入りたがるようなやからは、ただの馬鹿か自殺志願者だ。

「まずあんたは寝なさい。とにかく寝る! 寝たら気にならないから、多分。あ、でも薬は飲んでね、これ」

 続けざまに言いたいことを言って、阿蓮は横に置いておいた器を手に取った。中にはせんじた薬湯が入っている。おいしくはなさそうだが、効きそうな感じもひしひしとする代物だ。

 もう冷めているそれをさじですくって、阿蓮は小玉の口に運ぶ。小玉は素直に飲み……一瞬「うえっ」と言いたそうな顔になった。

 やっぱりおいしくはないんだなと思いながら、阿蓮は容赦なく次の一口分を匙ですくって口元に押し当てる。

 小玉のほうも文句を言わず、最後まで飲み終わった。そして彼女はぼんやりとした顔で、つぶやいた。


「ひとを、ころしちゃったの……」


 そのとき小玉の目の縁から涙がこぼれ、頬を伝った。阿蓮がはっと息をのむと、彼女はゆっくりとまぶたを閉じ、かくんと首が落ちた。そう、それはまるで臨終にありがちな光景……いやそんなまさか!


「ちょっとー!?」

 阿蓮は慌てふためいて小玉に覆いかぶさる。

「小玉? 寝たの? 寝たのよね? 死んでないよね!?」

 もちろん襲おうとしているわけではない。呼吸を確認しようと思ったのだ。阿蓮は彼女の口元に頬をよせる。呼吸を確認するには、頬が一番いいと誰かが言っていたような、そうでないような。

 ほどなく、規則正しい呼気を肌に感じてほっと肩の力を抜いた。


 ――よかった、寝ただけか。


 身を起こし、小玉の顔を見下ろす。真っ赤に染まった顔に玉の汗が浮いていた。

 阿蓮はさっきたらいの中の水に放り込んだ布を再び手に取った。絞って、小玉の汗をそっと拭った。

 それが終わると、今度は小玉の髪を濡れた布で挟んで、揉み込む。布を開くと赤黒い染みが広がっていた。

 阿蓮はため息をついた。

 風呂に入れるほど小玉の体調が回復するまで、おそらく髪はたないだろうと思った。

 だからといって阿蓮にはどうすることもできなかった。無駄とはわかっていても、再度小玉の髪を拭う。すると、部屋の外から呼ぶ声が聞こえた。

「はい、どうぞ」

 返事をすると、一人の女性が部屋に入ってきた。口元に布を巻いた柳隊正だった。

 阿蓮は慌てて礼をする。柳隊正は寝床にす小玉を見て、ほうとため息をついた。

「まだ目は覚めないの?」

「はい……あ、いえ、さっきちょっと起きましたが、また寝ました」

「そう」

 うなずくと柳隊正は険しい顔で、じっと小玉の顔を眺める。無言のまま時が過ぎる。はっきりいって、居心地が悪かった。

「あのぉ……」

 恐る恐る声をかけると、柳隊正はすっと顔をあげ、懐からなにかを取り出した。

「あの、これは……」

「彼女の家から届いたものです。起きたら彼女に渡しなさい」

 そう言うと、柳隊正は小玉の頭を一度撫でて部屋を出て行った。

 阿蓮は彼女を見送りながら、あの人も悪い人じゃないのかなと、なんとなく思った。高熱を出した者のところにわざわざ来て、すぐ近くまで寄ってくるあたり、きちんと小玉のことを気にしてくれている。他の者は心配していても、近くには寄ってこない。風邪が蔓延まんえんしても困るので、正しい対応だが。


 ちなみに阿蓮が小玉の近くにいるのは、どうせ熱を出した後の小玉に接したのだから、このまま面倒を見ると志願したからだ。ただ看病の結果発熱したら、治療してもらうという確約は取りつけたうえで。

 そういうところ、阿蓮はちゃっかりしている。


「さて……」

 阿蓮は手渡されたものをためつすがめつした。少し考え小玉の枕元に置くことにした。近くにあったほうが、小玉も力づけられて、治癒が早まるのではないかと思ったからだった。

 それは純粋に彼女が心配だという感情によるものであったが、同時に自分が熱を出した結果、あのまずそうな薬を飲むのも嫌だなあという、自分自身の事情にもよるものであった。

 ただそれを差し引いたとしても、阿蓮は人のよい娘ではある。


 ――早く治るといいね。


 そんなことを思いながら、阿蓮は自分も寝床に潜り込んだ。

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