第3話 軍人に、なってみたはいいけれど

 さてそんなふうに、後世の視点から見れば決然と歩みはじめた小玉しょうぎょくだったが、到着した場所で一足飛びに伝説的な人物になるわけもない。当然のことではあるが、最初は下っ端から始まった。

 それは十五歳の小玉にとって、あまりにも厳しい世界だった……などということは、実はなかった。


 ――飯、うまい。

 

 食堂でもしゃもしゃと傍目はためにも満足そうに食事をとる小玉は、意外な好待遇にけっこう充実感を覚える日々を送っていたのである。村を発って一月近くが経っていた。

 そんな彼女に呆れた声がかけられる。

「あんた、本当に幸せそうにご飯食べるねえ」

「だっておいしいでしょ」

「いや、まずいとは言ってないけどさ」

 小玉に話しかけてくるのは、同じ部屋で生活している李阿蓮りあれんという娘である。小玉より少し前の時期に軍に入った彼女は面倒見がいいのか、田舎の出身で右も左もわからない小玉の面倒をよく見てくれていた。

「あたしなんて、最初はあんまり食べられなかったなあ。自分のとこの料理と全然違ったから」

「え、そういうもんなの? あたしも、自分のとこの田舎の料理とすごく違うけど、気にならないなあ」

「そうなの?」

 驚きの顔を向けられるが、小玉のほうこそ「そうなの?」という気分である。きちんとしたご飯が食べられることに比べれば、食べ慣れているかいないかなどあまりにも些細な問題だった。


 小玉の住んでいた地方は、何度か飢饉ききんを経験している。貧農一家の小玉たちは思いっきりそのあおりを受けて、それこそ草の根を食べて命をつないだこともあった。むしろ草の根のほうを食べ慣れているとすらいえるが、慣れているからといって、そっちのほうを食べたいとは思わなかった。

「食べられるもんがご馳走ちそうなんだよ!」

 ……という母の言葉は、名言であると小玉は固く信じている。


「あ……でも、母ちゃんのご飯食べたいなって思うことはある」

 基本的に「あるものをごった煮」という感じではあるが、なんとなく「これが母の味」という感覚はあって、それが恋しいなという感じは小玉にもあった。

「ね、そうでしょ? そういう感覚なのよ」

 阿蓮がにかっと笑う。そうか、そういう感覚なのか。うんうんとうなずく小玉に、阿蓮が自分の食事から、練った小麦を焼いたものを差し出す。

「ほら、あんたこれも食べなさい」

「いいよ、大丈夫。それは阿蓮のだからね」

「あたしはいいのよ。あんた体ちっちゃいんだから、もっと食べてちゃんと大きくなりなさい」

「……いいよ、大丈夫」

 もしかしたら阿蓮の面倒見のよさは、小玉を子ども扱いしているところから来ているものなのかもしれない。その疑惑が時折どころではなく、小玉の胸をよぎる。自分はこれでも、結婚していてもおかしくない年齢なのだが。



 そもそも阿蓮と出会ったときからして、そんな感じだった。彼女と引き合わされて今日から彼女と同室だよと教えられたとき、彼女はこう言ったのだ。

「あんたも大変ねえ……年はいくつ?」

「十五」

「十五!? ええ!?」

 ちっちゃい! とは言わなかったが、絶対に心の中では叫んでいたに違いないという反応だった。



 以来、彼女は食事を時々小玉に分け与えてくる。いつもは謝絶しながらも、なんだかんだで最終的にはありがたく受け取っていたが、今日の小玉は受け取らなかった。

 というのも、

「大丈夫だよ、阿蓮ちゃん。あたし今日から、小玉ちゃんに多めによそうことにしたからね」

 見かねたのかなんなんだかわからないが、ついに食堂のおばちゃんが小玉の待遇を特別なものにしはじめたからだ。

「あっ、そうなんですか?」

「そうだよ。だから阿蓮ちゃん。小玉ちゃんにご飯分けたのを言い訳に、おやつ食べすぎないようにね」

「ばれてたか」

 阿蓮がぺろりと舌を出す。愛嬌たっぷりな仕草だった。

「でもいいんですか、そうおばさん。あたしだけ多めにもらって」

「いいんだよ。他のお姐さんたちからも、あの子体小さいからちゃんと食べさせてあげてって、要望来てるから」

「そうなんだ!?」

「あと、神華しんかちゃんも気にしてたよ」

「年下にまで!?」

 確かに小玉がいるところの隊で一番小さいのは、年下の娘も勘定に入れたとしても小玉なのだが……なんだろうこの気持ち。しかも年下でも阿蓮のようにちょっと先輩とかならともかく、神華ちゃんこと神華は、小玉と同期である。好意は嬉しいが! だが! 


 ――絶対に大きくなってやる。


 小玉はそう思いながら、まずは目の前の食事をかき込んだ。残すつもりは最初からないが、気合いを込めて平らげた。



 なお、決意どおり小玉は十五歳にしてすくすく育ち、成人女性の中でも中背くらいにまでは成長することとなる。まだ先の話であるが。



 そんな彼女を見守りながら、阿蓮が問いかけてくる。

柳隊正りゅうたいせいさまにも慣れた?」

「うん。よくしてくれる」

「……そう?」

 阿蓮が妙に間を置いて再び問いかけてきたが、小玉は特に疑問に思うこともなく頷き返す。

「うん」


 柳隊正というのは、小玉が従卒として仕えている上官である。隊正は五十人くらいの兵を率いる階級のことで、本名は柳銀葉ぎんようというらしい。

 小玉は今、徴兵しに来た武官の言ったとおり、後宮周辺の警備に配備されている。しかし小玉はまだ十五歳の、しかもけっこう発育の悪い上に武道などたしなんだことのない少女だ。まともに警備できるわけがないということは、本人を含めた誰もが正しく認識していた。

 したがって小玉は、後宮の塀の近くの小さな部隊に放り込まれた。ここにいる兵士たちは、特に若い女がほとんどだ。入ってきた女たちは皆、最初はここに配属されるのだという。というのも、皆仕方がなく兵士になった者ばかりで、戦うすべなど知らない――要するに小玉と同じであるため、比較的危険の少ないところである程度訓練をする必要があるからだ。

 そして実際に警備をしている兵の付き人のようなものをしながら、この場での身の処し方を学ぶ。要は使いっ走りだ。小玉も例外ではなく、その立場に落ち着いたわけだ。

 使いっ走りといっても、ちょっと森行って熊狩ってこいなどと無茶を言われることもないので、小玉としては心穏やかな日々を過ごしている。村であんまり危険じゃなさそうだと思ったら、本当に危険が少なかったという結末である。願ってもないことであるので、文句を言うつもりはさらさらない。


 小玉のいる隊が、大きい目で見れば玉鈐衛ぎょくけんえいに所属していて、さらにいえばなん禁軍というくくりに入るというこの世界の機構は、この時点の小玉にはわからない。だが、ここはどうやら徹底した実力主義の世界らしいということは、小玉にもわかっていた。


 聞くところによると、ここでそれなりに見込みのある者は、別のところに配属されるし、あまり素質がないものは、ずっとここにいるのだという。そんな中でも、軍に入った当初からここ以外のところに配属された女の子もいるようだ。ちょうなんとかさんというらしいが、純粋にすごい話だ。

 自分と引き比べながら、小玉は会ったこともない彼女に敬意を抱いていた。そして、自分はずっとここにいたままで徴兵期間を終えるんだろうなと、緊張感なく先を見据えていた。



 問題は、ここにいる間になにを成し遂げられるかだ。



 ……とはいえ、それほど大きなことを求めているわけではない。ただ、阿蓮をはじめ、色々な女性たちから話を聞いて、思うところがあった。

 ここで自分は、自分の力で生きていくのだと思った。いってしまえば、気負っていたのだ。しかし、そうではない未来もあるのだと知らされた。

 

「ここで結婚相手を探してもいいんじゃない?」


 そんなことを言ってくる人がいる。実際、そういうふうにして結婚していった女性は珍しくもないのだという。

 確かにここには自分の前歴を知る者もいない。よしんば小玉の抱える事情を知ったところで、この程度で結婚をためらうような風潮はないのだという。


 正直いって、驚いた。


 村では常識とされたこと……当事者になって初めておかしいと思って、それでも打開できなかったことが、ここではいともたやすく否定された。

 そして提示された選択肢に、小玉は戸惑いを覚えている。かつて心から求めていたものだ。それが再び自分のもとに戻ったことに、喜びを感じていない自分がいる。この感情をなんと説明すればいいのか、語彙ごいの乏しい小玉にはわからなかった。

 ただ、自分がすごく狭い世界にいたということはわかっている。住んでいたところはもちろん、心の中も。

 そして気づいた。一つのことが駄目になってしまったから、自分はそのこと全体を否定してしまっていたのだ――結婚というものに対して。それは今もそうだ。だからなのか今、可能性があるとしても、相手を探しに行こうと思うほど積極的にはなれなかった。


 多分自分は、なにが正しいのかわからない。だからなにをすればいいのか、わからない。

 そのことはわかる。


 ただ自分が気づいたとおりであるならば、しかし自分の中の常識が一つ(どころではなく、けっこうあったが)否定されたとしても、自分の中の常識すべてが否定されたわけではないのだ。

 だから今は、なにが「正しい」のか探っていかなくてはならないのだと、小玉は思っていた。


 壮大な話ではあるが、今はとりあえず出されたものを食べ終えるべきである。

 それは「正しい」。


 小玉は止めていた手を動かし、口に食事を放り込んだ。そんな彼女に、阿蓮がまた問いかけてくる。

「ね、小玉。俸給出たでしょ。初めてのって特別だよね。なんか買うの?」

「うーん……考えてないや」

 小玉は再び手を止める。そう、つい先日小玉はここで初めて俸給をもらった。そしてたまげた。小玉の感覚からいえば、かなりの大金だったからだ。なんてったって、人生の半分を費やして蓄えたへそくりの半分ほどの金額である。しかも錆びていたり、なんかわからない汚れがついていたりなどしない、きれいなお金だった。ちなみに小玉の貯めた金は、錆びてるし、汚れている。

 正直、いきなりそんな金をもらっても、使うあてなどない。しかし阿蓮たちは「少ない中でやりくりしなきゃねー」などと、少額であること前提で話をしている。これもかなりの衝撃ではあった。いつかはこういう会話に馴染むのだろうか。未来の自分がそうなっているのかもしれないというのも、これはこれで不思議なことである。


 だけど、と小玉は思う。


 兄嫁からもらった財布。あの中身も錆びているし汚れている。その半分を、今回もらった俸給と比べてみたとしても、自分にとっては兄嫁からもらったお金のほうが大事だ。

 それは同じ金額じゃなくても変わらない。比べる対象が今回だけではなく、次の分もその次の分も足されたものだとしても、きっと兄嫁の財布のほうが、自分の中で価値あるものであり続けるはずだった。

 それは「正しい」ことだ。そしてそういう「正しい」ことを、一つずつ見つけていこう。小玉はそう思った。

 あとお金は貯めよう、とも。

 

        ※


 さて、今後の貯蓄のためにも、今はとりあえず訓練に没頭しなくてはならない。

 食事を終えて、修練場に向かった小玉とその同期だったが、やること自体はいたって単純なものである――すなわち、かけ声を出しながら走る。

 入ったばかりの女たちは技量以前に体力が不足しているため、まずそこから始めなくてはならないのである。教官役の武官に叱咤されながら、みんな走る。ひたすら走る。


「一、二、三、四!」

「声小さい! もっと腹から出せ!」

「一、二、三、四!!」

「お前たちには、そもそも口があんのか!」


 上官の野太い声(ただし女性)に追い立てられながら走る。後宮の近くでこんなに大声あげてご迷惑にならないのかと思わないでもないが、おきさきさま方は塀からさらに離れたところに住んでいるとのことなので、大丈夫とのことだ。どんだけ広いんだ後宮、と思わないでもないが、入る予定がない小玉にはそこまで追及するつもりはなかった。


 それよりも、もっと大事なことがある。


 ひいこら走る新人の群れの中、小玉はやや遅れ気味のほうに入っていた。というか、目立って遅れていた。

 体を動かすのは慣れていたし、最初は好調なのだが、長く続くと体力が保たない。そこに悔しいという思いを抱くわけでもなく、小玉は大まじめに思っていた。


 ――なるほど、だから走るんだ!


 足りないところを補うから、こういうことをやるんだな、と。どんな訓練にも(まだ走ることしかしてないが)、意味がある。そういうことを納得した小玉は、頭の中と同様に行動も大まじめに、ひたすら走っていた。

 そんな中で、なにか事件が起こるわけもない。途中小玉が転び、服の右膝のところが破けて擦りむいたくらいである。膝小僧の様相が野山を駆け巡る少年みたいになったが、実際少年のように野山を駆け巡っていた小玉には慣れっこだったので、擦りむいた膝はそのままで走り続ける。



 そして今日の分の課題をこなしたのち、全員がへばって地に伏していると、柳隊正が現れた。上官のお出ましに、全員が慌てて身を起こし、ぜはぜは肩で息をしながらも、しゃきっと直立不動になる。

 小玉たちの訓練を管理していた武官が一礼して、柳に話しかける。

「隊正、ご覧になっていていかがでしたか?」

 先ほどの声と違って今のはごく普通に、女性の声であった。

 どうやら柳隊正は小玉たちが気づかなかっただけで、様子を見ていたらしかった。

 柳隊正が武官を手招きする。近づいてきた武官に耳打ちしながら、小玉たちのほうを指さす。そのまま二人の間で会話が続くが、小声すぎてなにを話しているのかは全然聞こえなかった。それでも直立不動の体勢は崩さない。

 やがて武官が一つうなずき、口を開いた。


「――かん小玉」


 思いがけず自分の名を呼ばれて驚いたが、小玉は即座に声を張って返事する。

「はい!」

「水を飲んだら、お前はもう五周追加」

「はい!」

 えっ? という思いを顔に出したのは周囲のほうで、小玉は素直に頷いてまずは水場のほうに駆けていった。


        ※


 夕方を通り越して、夜。

 疲労困憊こんぱいして兵舎に戻ってきた小玉に、出迎えてくれた阿蓮は顔をしかめて言う。別に小玉に対して怒っているわけではなかった。

「聞いたわよ、あんた。あんただけ多めに走らされたんだって?」

 小玉より少し早く部隊に入った阿蓮は、もう少し上のことを学ぶ組に編入されているため、一緒に訓練をすることはない。だから彼女は、小玉より一足先に戻ってきた娘たちから事情を聞いたのだろう。

「うん」

 素直に頷く小玉に、阿蓮はいぶかしげな表情になった。

「ねえ、全然気になんないの? あんた別に、なんか悪いことしたとかじゃないんでしょ?」

「でもあたし、遅れてたんだもん」

 だから余計に走るのは当然だと、小玉は思っていた。ここでどういう生き方をするか選択するにしても、ここにいる限りはいるために必要な条件を満たす義務が小玉にはあるのだ。

 しかし阿蓮は、その言い分に納得しなかったようだった。

「あんたと同じくらい遅れてた子っているでしょ。ねえ、神華」

 隣にいる神華という少女――小玉より年下なのに身長も胸もでかい――に話を振ると、彼女はうんうんと頷いた。

「そうだよー。っていうか、具体的にはあたしだよ。同じくらいだったの。でもあたしは走ってないよ」

「それはそうだけどね」

 本日、小玉と神華は後ろから一位と二位を独占した仲間である。どっちが一位で二位だったのかは言及を避ける……というかお互いへろへろになりすぎていて、まるで覚えていない。

「ほら、神華はなにも言われなかったんでしょ?」

 阿蓮の言葉に、神華はあ、と声をあげた。

「そういえばあたし、胸、布で縛れとは言われたなあ」

「それはまあ……神華は胸おっきいから」

 阿蓮が神華の胸を、同性ならではの遠慮のなさで見て、どこか切なさを帯びた表情で頷く。気持ちはわかる。

 同年代という枠を超えて、部隊の中でも一、二を争うほどの巨乳であった。本日ほぼ隣で見ていた小玉にとっても、走る度にたゆんたゆん! と豪快に揺れる様子を横目で見るのは、なぜかちょっと悲しい光景だった。

 それはそれとして、

「だからさあ、きっとあたしと神華とで、個別に指示してくれてるんじゃない?」

 小玉としてはそれで納得しているのだが、阿蓮は違うようだった。

「いやそれ、次元が違わなくない? 五周追加と乳縛るのって、同列に並べていいの? なんかこう……いろんな意味で。いや、どんな意味だかわかんないけど」

「あたしもそう思うよ、小玉ちゃん」

 神華も阿蓮に同調する。

「絶対に柳隊正さまの指示でしょ? なんか怒らせることしちゃったの?」

「そういう覚えはないけどなあ……覚えてないだけかも」

 不慣れだという点で怒りを買っているのなら、ごもっともなのでなにも言えない。阿蓮もしょうがないなあという様子になった。

「まあねえ、新人のころなんて、自分でも気づいてないうちに失敗することなんてよくあるもんだしね」

 阿蓮の腕にしがみつきながら、神華が唇をとがらせる。

「でもそれで余計に走らせるとか、ちょっといじめ入ってない?」

 そんな彼女を阿蓮と小玉はそれぞれの意味でたしなめる。

「こら神華! そういうのは口に出さない!」

「そんなことないって!」

 阿蓮は思ってる分には構わないけどという調子で、小玉は言っていること自体を否定する調子で。

「先に水場に行かせてもらったおかげで、あたし傷口洗えたんだよ」

「そういえば、小玉ちゃん珍しく転んでたもんね」

 土混じりになった傷口を早めに洗えたのは、小玉にとってはありがたいことだった。

「あたしにはそれって偶然だと思うんだけどなあ……」

 相変わらず首をひねる阿蓮に、もう一つ情報を与える。

「あと、さっき傷薬もくれたの、ほらこれ」

「……そっか」

 小さいが、小玉から見ると立派な容器に入っている薬だ。それを見せると、さすがに否定しようもない柳隊正からの好意に、阿蓮も渋々といったように納得した。

 二人の間で話の決着がついたところで、今度は神華が小玉の腕にしがみつく。ちょっと落ち着きはないが、人なつっこい娘である。この子が軍に入るなんて、いったいどういう事情があったんだろうなあと、小玉はふと思う。

「ねえねえ、小玉ちゃん。あたし、やっぱり胸縛らなくちゃいけないと思うー?」


「それは積極的に縛ったほうがいいわよ」

「じゃないと将来垂れるわよ」


 答えたのは、小玉でも阿蓮でもなかった。

 とてつもなく深刻な顔と声で助言し出したのは、どこからともなく現れた古参の女性兵二人である。

 にょきっという表現がぴったりという感じで、いきなり姿を見せた二人に阿蓮と神華がびくっと身を震わせた。


「ひえっ!」

「びっくりした! 姐さんたち、どこにいたんですか?」


 急に現れた二人に対して、小玉は驚きもしない。むしろ驚いている二人のほうに驚いている。

「えっ、柱の陰にいたじゃん」

 胸に手を押さえる阿蓮に、小玉はきょとんとして言った。小玉は最初から、二人がこちらの様子を窺っていると悟っていた。狩りで兎の気配を探るより、ずっとわかりやすかった。

「小玉は勘が鋭いわねえ」

 片方がぽんぽんと、小玉の頭をたたく。

「あ、あの……いじめじゃないかって話については、ないしょで」

 神華がびくびくしながら二人にお願いし出す。漏らされたら困る発言をしている自覚は、彼女なりにあったらしい。

「ああ、大丈夫」

「言わない言わない」

 あははと笑いながら請け合う二人に、わかりやすく胸をなで下ろす神華。二人に阿蓮は問いかけた。

「姐さんたちは、今の小玉の話、どう思います?」

 すると彼女たちは顔を見合わせて、判断に困るといった表情を作った。

「どうもこうもねえ……今はなんとも言えないな」

「それより小玉のことが心配だな。真面目に頑張りすぎると体壊しそう」

「そうそう、ほどほどに手は抜けばいいのにって思うけど。あたしはそうした」

「そうですかー?」

 人生の先輩の言葉に、さすがに小玉も揺らいだ。しかしそんな彼女に、二人はいやいやと手を振りながら気にするなと言ってくる。

「でも別に強制じゃないよ? 自分が頑張りたいなら頑張んなさい」

「うん。仮にそれで体調崩したら、それはそれでいい勉強になると思う」

「えー?」

 今度は阿蓮が不満そうな声をあげるが、それに構わず、先輩の片方が小玉に言う。

「小玉。ご飯片付かないから、早く食べに行きなさい」

「あ、はい」

 そういえば食事がまだだった。おばちゃんが困っているはずである。小玉は慌てて走り出した。 


 走りながら思う――軍に入ってよかった。

 なにが正しくて正しくないのかは、まだまだ考えなくてはならない。

 だがここでは、「自分と違う意見を持っていること」を否定する人がいない。そして、それでいいんじゃない? 自分は違うけどね、と言ってくれる人がいる。

 それは小玉にとっては、本当に嬉しいことだったし、自分もそう振る舞おうと思った。また一つ「正しい」ことを見つけたと思った。



 小玉の幸運の一つは、最初の配属先がこの部隊だったことである。

 後に色々な女性からお姉さま扱いされる彼女は、ここで妹のように可愛がられた経験によって包容力をはぐくんだ。

 またこの時期、軍に入ってくる女性はほぼ訳あり――人生の辛酸を大なり小なりめてきた者たちばかりだったことによって、物わかりのよい人間に囲まれたことも、彼女の人格を形成する一助となった。

 後に編入された他の軍ではそのようなことはあまりなく、小玉はそのせいでそれなりに苦労するのだが、当然今の段階ではそんな未来を予想することすらしなかった。

 この時の小玉はとりあえず、目先のこと――ひたすら走るという課題(しかも徐々に増量された)を黙々とこなす日々を送った。そしてあれよあれよという間に、同輩の誰よりも速く、長く走れるようになった。

 そうしているうちに季節が変わって一巡し、身長はこの年頃からの成長としては、決意していたはずの小玉自身もびっくりするほど伸びていた……ただし残念ながら、胸はいまいち大きくならなかったが。


        ※


 そして、そこからさらに季節がもう少し変わったころ、小玉は少し上の組に放り込まれ、いつの間にか阿蓮と並んで武器の扱いを学ぶようになっていた。そして、全然上手に扱えなかった。

「いたっ!」

「武器を粗末に扱うな!」

 小玉の声が響くのとほぼ同時に、柳隊正の一喝。指導者は以前の武官から彼女に代わっていた。

「はいっ!」

 痛みをこらえて小玉は大声で返事をした。しかし、痛い。よりによって足の甲に落としてしまったからだ。それでも気を取り直して棒を拾い……、

「いたっ!」

 次に声を上げたのは阿蓮である。彼女も足の甲に武器を落とした……などというわけではなく、扱いを間違えた小玉の棒が横腹を思いっきり突いてきたからである。

「ごめんっ!」

「い、いいよ……って言いたいけど、よくない、わ……よりによって先っぽで突くってあんた……」

 身をよじらせて痛みに耐える阿蓮に、小玉はごめんごめんと言い続けた。他に言いようがない。そんな小玉を涙目で見ながら、阿蓮が言う。

「だいたいあんた、畑作業で農具使ってたんだから、長い棒には慣れてるんじゃない?」


 なお阿蓮が後に述懐するところによると、この時彼女は適当に思いついたことを言っただけのことだったらしいが、小玉はその言葉に衝撃を受けた。

「……確かに!」


 そう、確かにあんな道具やこんな道具を振るって日々を過ごしていた。納得した小玉は再び棒を構える。そして阿蓮の驚愕の声が響く。

「……って、今ので使えるようになるんかい!」

「李阿蓮、私語は慎め!」

 いきなり棒を上手に扱えるようになった小玉への突っ込みに、再び柳隊正の一喝が飛んで来た。阿蓮にしてみると踏んだりったりである。


        ※


 そんなふうに周囲からの(意図していない場合もある)助言や支えによって、小玉はつつがなく兵士として成長していった。手に持つ武器はただの棒から剣になり、最初はおそるおそる扱っていたものの、そのうち抵抗はなくなっていった。同様に、周囲の人間たちとの価値観の違いに驚くこともなくなっていった。自分がそれに馴染んでいったかは別として。

 この一年で、同輩が次々と軍を出ていった。理由のほとんどは結婚である。出会いの機会は案外あるもので、同輩が男性兵と逢い引きしている様子を、小玉もちょこちょこ目撃し、そして礼儀正しく目を背けたものだ。そして気づいたらあの神華も、本人曰く「垂れる前に胸を武器にして」あっさり辞めていった。

 しかし小玉自身には結婚の予定はない。そして相手を探すつもりもない。この点は去年と同じだが、根っこのところは去年と違う。去年みたいに色々と小難しいことを考えているからではなく、単純に結婚というものがなんだか面倒くさくなってきたのだ。これは男性不信になったせいなのか、それとも生来のものぐさのせいなのか。あるいは単に、今それどころではないせいか。


 それどころではない状況を具体的に説明すれば、今猛烈に腰が痛い。


「あでで……」

 小玉は腰の真ん中を押さえて呻いた。曲げても痛いし、伸ばしても痛い。歩くと更に痛い。でも歩くしかない。

 腰痛の理由はさっき剣の訓練の際に転倒して、腰をひねった状態で強打という、哀しい方向に器用なことをしてしまったからだ。打った直後はそれほどでもなかったが、訓練が終わって解散になってからじわじわと痛み始めて現在に至る。

 一緒に訓練していた仲間たちは、心配して付いてくれていたが、あまりにも牛歩の歩みな自分に付き合わせるのが申し訳なくて、先に行ってもらっている。もはや影も形も見えない。

 遙か彼方を行く仲間を、ひょこひょことへっぴり腰で追う。兵舎の自分の部屋まで、無事にたどり着けるだろうか。早く戻って膏薬を塗らないと痛みが長引いてしまう。それにずっと老婆みたいな姿勢でいるのは嫌だという、恥じらいの念もあった。泣きたくなるくらい辛くなるのを、小玉は身をもって知っていた。

 そう、こういうのは初めてではない。日を追うごとに訓練の内容は厳しくなっていったからだ。逆よりは正しいことなので、その点については文句はない。あくまでその点については。

 手にした剣を杖にしてしまいたいところだが、それが見つかれば上官に滅茶苦茶に叱られるから、やめておく。武具は命よりも大事にしろ、というのが軍での鉄則だ。

 素直に従う小玉は、剣を杖につく代わりに、後宮の塀に手を添えて進むことにした。しかし杖として使えない長い棒を、腰痛の時にただ持っているだけという状況ほど邪魔なことってない。

 それでもなんとかのろのろ歩み……途中、痛みがやや和らぐ角度を発見して喜ぶ小玉だったが、新たな試練が待ち受けていた。


 兵舎に戻る前に、かわやに行かなくてはならない。


 小玉は厠の前で、何度か深呼吸した。

 今の腰の状態で屈むのは、想像するだけで身もだえしたくなるような責め苦である。しかしこっちもこっちで限界なのだ。

「……よし!」

 二つの苦しみを延々と抱え続けるくらいならば、一時の苦痛を耐えて片方の苦しみを解消すべきである。

 決然と思いながらも、そうだよね、そうだよね! と誰に聞かせている訳でもないのに、内心で同意を求めるのは往生際の悪さのせいであろう。やっぱり痛いのは嫌だ。

 厠で予想通りの苦痛にさいなまれ、ひいひいうめいたあと小玉は再び歩み始めた。さっき発見した、痛みが和らぐ角度に腰を伸ばしても痛いままである。これは一度厠でかがんだせいなのだろうか。なんてことを自分はしたんだ……と思っていたら、

「……うああ!」

 がっ、と土に半分埋もれた石を蹴ってしまい、小玉は思わず身もだえした。いつもならばたいしたことのない衝撃も、今日は腰に激しく響く。もう踏んだり蹴ったりである。


 それでも終わらない苦しみなどない。


 なんとかたどり着いた小玉は、打ちひしがれながらよろよろと部屋に入った。

「あらー、ようやく戻ってきたかー」

 すると、阿蓮が膏薬を手にして待ち構えていた。

「もうちょっと遅かったら、何人か連れて迎えに戻ろうかと思ってたわ……というか、さっきけっこう人いたから、あんたのこと担いでやれば良かったね」

「……その手があったか!」

 小玉は血を吐くように叫んだ。何度も頼れる手ではないが、今日のようにことのほか痛い日はそうしてもらえばよかった。

 いやしかし、厠の介助までしてもらうのはさすがに恥ずかしいから、これはこれでよかったのである、うん。そういうことにしておこうと、無理矢理自分を納得させようとする小玉に、阿蓮は明るく声をかけてくる。

「はい、腰出してー」

「はーい……」

 のそのそと帯をとき、ぺろんとめくる。粘りのある液体が塗りつけられるひんやりとした感覚に、小玉は軽く身を震わせた。

「はい、いいよ」

 小玉はのろのろと衣服を整え、自分の寝床にうつぶせになって寝ころんだ。ようやく人心地がついた思いに、我知らず深いため息をついた。

「今日もだいぶしごかれたねえ」

 小玉の物入れの中に膏薬を片づけながら、阿蓮が言った。慣れっこな事態なので、勝手に膏薬を出し入れすることに、阿蓮も小玉自身もなにも言わない。すでに暗黙の了解が出来ているのだ。

「うん……」

 小玉は力なく答えた。

「柳隊正さま、やっぱりあんたに厳しいよね」

「……うん」

 小玉は今も柳隊正の従卒をしている。そのことにも特に不満はない。むしろ最近は小間使いのようなことをしているほうが、自分には向いていると小玉は思うようになっていた。最近、自分の適性がどういうところにあるのか、考えられるようになったのは進歩だと思っている。

 それに柳隊正は決して悪い人ではない。むしろとても親切な人である。その思いも去年から変わりないが、仕事中はやはり厳しい。いや、それは職業人として大変結構なのだが、剣術のしごきをかける時の彼女は、親切な時を差し引いてあまりあるほど恐ろしい。

 しかも……今阿蓮が言ったように、彼女が自分に稽古をつけるときは、他の者に対するより厳しいという実感が小玉にもやっと芽生え始めていた。おかげで修練が終わった時には、まるで使い古しの雑巾のようにへろへろになる。

 しかしそれはそれで、充実感がある日々だ。村で無為に日々を過ごすより、未来につながるなにかのために頑張っているという感覚がある。だから小玉は、真面目に訓練を受け続る姿勢を一切崩さない。

 そういうわけで、勤めて一年強。小玉は職場におおむね不満なく過ごしていた。あとは小玉が、訓練に耐えられるだけの技術と体力を身につけることさえできれば問題はない。もし問題があるとすれば、徴兵期間終了後の身の処し方がまだ決まっていないことくらいだ。


 でも今は、腰のことだけを考えて生きていたい。


 小玉はうつ伏せよりも横向きのほうが楽ではないかと、もそもそと体勢を模索し始めた。そんな彼女を見ながら、阿蓮は「さて」と言って立ち上がる。

「小玉、あんたご飯は?」

 いらない、と言おうと思って……いや、と思い直す。一食抜いたら、それだけで明日の訓練に響く。前に食事を抜いて、翌日ふらふらになったことから、小玉は学習した。

「……持ってきてくれる?」

「いいよ。その分だと湯も使えなさそうだね」

「うん……いいわ」

 天秤にかけるまでもなく、今日の小玉は湯を捨てた。


        ※


 阿蓮が持ってきてくれたものを口にした後、小玉はほんの少しとろとろと微睡まどろんだ。

「……ん?」

 かたんと音がして、ふと目が覚めた。

「あ、ごめん起こした? あたしももう寝るから、あんたそのまま寝なさいよ」

「んー……」

 阿蓮が明かりを吹き消そうとしている。素直にその言葉に従いかけ……小玉はふとあることに気づき、慌ててそれを止めた。

「待って、あたし剣の手入れまだ……あ」

 言いつつ、いつも剣を置いてあるあたりに手をやった瞬間、小玉は大変なことに気が付いた。

「剣……ない」

 顔から血の気が一気に引く。

「えっ、どこに!?」

 阿蓮も動揺して尋ねる。質のよいものではないが、れっきとした官給品である。無くしたとなれば、上官の叱責どころの騒ぎではない。小玉は慌てて記憶をさかのぼりはじめた。


 訓練が終わった時はあった。引き上げる時はあった、はずである。杖にしたいとか思った覚えがあるから。部屋に戻った時は……確実になかった。


 引き上げる時と部屋に到着するまでの間になにがあったのか、必死に思い出そうとし……それほど努力するまでもなく思い出すことはできた。しかし思い出すやいなや、小玉はああ、と手で顔を覆った。

「あたし、厠で用たした後、そのまま手ぶらで出てきちゃった……」

「ああ、ありがち……」

 阿蓮が納得してうなずく。実によくある話である。

「どうする、明日の朝行く?」

「ううん、今行くよ……」

 よっこらせと立ち上がる。腰に走る痛みに軽く顔をしかめるが、先ほどよりは軽減されている。これなら行って戻ってくるくらいは大丈夫だろう。

「あたし行ってこようか?」

 阿蓮の親切な提案に、一瞬それもいいかなと考えたが、すぐに考え直す。

「いいよ阿蓮。あたしのだし……それにお湯使っちゃったんでしょ。風邪ひいちゃうよ」

 そう言って、小玉は上着を羽織ると部屋を出た。


        ※


 寒い日にはよくある、月がきれいな晩だった。外に一歩出て、小玉は身震いした。

「さむっ」

 雪がない夜にありがちな、鋭い寒気が身を苛む。言葉と共に白い息が吐き出される。息を吸えば鼻の奥がちりちりと痛んだ。

 腕をさすりながら、寒いし眠いしで足早に鍛錬所横の厠へと向かう。出来れば走りたいが、そこまでは回復していなかった。

 幸い、月光のおかげで足下ははっきり見える。

 厠の中もすき間から差し込む光のおかげで明るく、探し物はすぐに見つかった。安普請も時に利点があるものだ。あまりにも限定的な上に特殊な状況下であるため、利点といえるかどうかは難しいかもしれないが。

 見つけた剣をさやから引き抜く。確かに自分のものだ。

「あー、よかった……」

 鞘に収めると、小玉は剣を抱え、ついでにもう一回用を足してそそくさと厠から出た。

 順当にいけば、ほどなく小玉は兵舎にたどりつき、剣の手入れをした後、布団に潜って熟睡したであろう。しかし、そうはならなかった。そしてこの夜の不眠の理由が、小玉の人生における転機の一つとなる。

 そしてその転機は、石によって訪れた。

 小玉は夕方に兵舎へ戻った時と同様、後宮の塀に沿って進もうとし……ふと足下の石に目を留めた。


 さっき小玉がつまずいて身もだえした、例の石である。


「…………」

 小玉は軽く屈んだ。ちょっとした恨みを込めてそれを掘り返す。そしてなんなく掘り返すと、後ろの方にぽいと投げた。なんのことはない、ただの気まぐれである。

 小玉はふんと鼻を鳴らして再び歩きだそうとした……が、


 ――カン!


「きゃっ!」

「……誰だ!?」

 投げた石が厠の壁にぶつかった音のあと、明らかな人声が聞こえた。

「……へっ?」

 一拍以上遅れて、小玉は間抜けな声をあげた。今、「誰だ」と言った声……間違いなく男の声であった。基本的に女性しかいないこの場に。お前こそ、「誰だ」という感じである。

 小玉は振り返り……厠の陰からなにか動くものが出てきたのを見て、身を強ばらせた。目をこらす。

 高い塀のせいで月光がかなり遮られているが、夜に慣れたうえに、もともと視力に自信がある目は、それが一組の男女であることを認めた。こちらを見ている。

 その時、小玉が思ったのはこんなことだった。


 ――はあ、こんな寒い夜に逢い引きかあ。熱いねえ。


 小玉はとっさにこの状況を、後宮警備の女性兵と一般兵の逢瀬だと考えた。これまで見たもののように。



しかし結論を述べると、その発想は大間違いだった。

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