第2話 伝説に至る道〜若き少女の旅立ち〜

 思う存分叫んだからか、意外にすっきりした気分で、小玉しょうぎょくは立ち上がった。今の彼女は憤怒が原因ではあるものの、燃えに燃えていた。

 その燃える気持ちを胸に、外に駆け出そうとしたが、


「まあ、待て」

「おっ!?」


 ……いつの間にか小玉の服のすそつかんでいた兄によって、それは見事に阻まれたのだった。

 思わず頭から転びそうになった分も含めて、小玉は兄に怒りをぶつける。

「っていうか兄ちゃん、あんたなんでそんなに落ち着いてんの!」

「それはあたしも言いたい」

 腕組みをした母が重々しくうなずいた。三娘さんじょうも涙にれた顔をあげたので、この家の女衆は全員同じことを気にしているようだった。


 そう、兄はなぜかやけに落ち着いている。自分が生きて帰ってこられるか、わからないのにだ。



 村には数年に一度、立派な身なりの軍人がやってくる。「人狩り」と揶揄やゆを込めてささやかれるそれは、徴兵のための役人である。どのように徴兵するのかというと、彼らは単に村長に徴兵する人数を告げるだけだ。あとは村がそれぞれの方法で徴兵される者を選ぶ。

 選ばれた者はたいてい雑務に従事したり、国境付近の警備にあたるらしい。数年経って帰ってくる者もいれば、帰ってこない者もいる。帰ってこない者は死んだのか、それともここに帰るのが嫌なのかはわからない。音信不通になっているのだから、大体予想はつくのだけれども。


 今回この村から連れて行かれるのは五人。この村ではくじでそれを決める。各家の家長がくじを引き、当たった家から兵を出すのだ。 

 そして兄は見事その当たり――人生においては、はずれきわまりないくじを引き当ててしまったわけだ。だがその兄は足が悪い。帰ってこられる保証は、他の人間よりもはるかに、ない。

 これは一体誰の悪意なのだろう。そのくらいの事情は、くじを引く前にみ取ってくれてもおかしくない。それをわかっている小玉は、さきほど激怒したし、今も言いたいことは山のようにある。

「兄ちゃん……」

「俺さ、思うんだよ」

 しかし、兄はなにか言おうとする小玉を片手で止め、なにやら語りだした。

「俺って足が悪くてさ、まあなんていうか……家のお荷物ってところ、あっただろ。それがこの年で嫁までもらえて、そのとき思ったんだよ。人生ってどこかで帳尻を合わせるために動くんじゃねえかなって。きっと次には悪いことが起こるんだろうなって。その『次』が今なんだよ……」


「ふざけるなあああ!」


 遠い目で美しい覚悟を語る兄に対し、さっきの小玉と同じ言葉を、小玉を上回る迫力で母が叫んだ。

「お前を産んだのを今まで一度も後悔したことなんてないが、今初めて後悔したわこの馬鹿息子め! どこかの馬の骨に殺されるくらいなら、今ここであたしの手にかかって死ねええ!」

「ちょっ、待て! まきは死ぬ!」

「殺すつもりなんだよ!」

 大の男の腕ぐらいの太さの薪を、愛と怒りを込めて振り下ろそうとする母。


「いいよ母ちゃん! 一回くらい殴っちゃいな! ここで再起不能になれば、行かなくていいかもしれないし!」

 それを全力で応援しようとする小玉。


「待ってくださいお義母さん、小玉! ちょうさんの馬鹿ー!」

 さらにそれを必死に止めようとする兄嫁(でもちゃんと自分の夫をののしっている)。


 ……関家は今、誰がどこからどう見ても、まごうことなき修羅場だった。


        ※


 事態の沈静化には、主に兄嫁の苦労が必要だった。

 彼女の尽力により、母は最終的には落ち着いたものの、落ち着いたころには話が完全に横道にそれていた。もちろん本筋が解決しないままで、ということは言うまでもない。

 そしてそれた道の帰着点はどういうわけか、母による「ここの家系の結婚運のなさ」についての愚痴になってしまっていた。小玉の破談や兄の晩婚はもちろん、父も祖父もなぜか結婚が遅かったことについてずっと思うところがあったらしい。


「これが今後も続くんだったら、たまったもんじゃないよ」

 ……などと母は吐き捨てていたが、残念なことに彼女の言う「たまったもんじゃない事態」は実現することになる。つまり小玉はもちろん、まだこの時点では生まれていない兄の息子もそうとうな晩婚となる。

 ただ、二人とも結婚自体はできたし、相手の身分も高かった……小玉に至っては、究極の玉の輿と言ってもいいくらいに。ただし結婚相手の性格が性格だったので、母がそれを見届けずに世を去ったのは幸運だったのかもしれない。



 なお、その晩はなんとなく疲れたころに、示し合わせたように皆が寝た。

 問題は、翌日に持ち越されることになった。


        ※


 翌日。

 朝から話し合いが始まる……ということはなかった。一家の一大事とはいえかつかつな生活を送っている以上、貴重な労働時間を話し合いでつぶすわけにはいかない。家族皆、寝たときと同様に示し合わせたように起きて、粗末な食事をって、ごく自然にそれぞれの仕事へと向かっていた。

 もっともそれは、兄が去る日にはまだ猶予があったためだ。もしなかったら、さすがにもう少し切羽詰まった動きになっていただろう。


 今日の小玉は、畑を掘り起こしていた。くわを使って、猫の額のような畑を掘り起こし、ならす。そんなふうに体をせっせと動かしながら、頭もせっせと動かしていた。

 考えているのは、当然兄のことだ。元々悩もうと予定していた自活云々うんぬんという案件は、とりあえず横に置いていた。

 しかし兄の問題も、小玉の抱える問題と負けず劣らず解決が困難である。どうすればいいのか、さっぱり未来が見えない。こんなに一気に問題が降りかかるなんて、今年の我が家はどういう巡り合わせなのだろう。そう思いながらかがみ込み、くわに絡まった草をぶちぶちとちぎっていると、背後から間延びした声がかかった。


「おお、小玉ちゃんー、帰ってきとったんかいー」


 ……帰ってくるもなにもずっといたのだが、そういうことを小玉は突っ込まない。なぜなら、相手のことをわかっているし、言われ慣れているからだ。

 小玉は身を起こして振り返った。そこにいたのは、一人の老人である。

「ああ、こんにちは。おうさんとこのじいさん」

 この村では珍しく、「関」と「陳」以外の名字を持つ御仁である。そして名字よりも珍しいのは、読み書きができるということである。もちろんこんな田舎で、読み書きという技術を身につける人間は少ない。しかしこういう人材が、まったくいないというのも困るのである。

 手紙を出したいという一般的な目的はもちろん、葬儀の際に位牌いはいに名前を書きたいという祭礼がからむ目的にいたるまで、文字が必要になる事態はちょこちょこある。そういうときは皆、王じいさんにいくばくかの謝礼(たいていは現物支給)を渡してお願いするのである。

 そういうことで、彼は村でも一目おかれている人物であった。


 ただ、問題が一つある。


「お前さん、嫁入りしてすぐ戻ってくるとは、なんかあったんかいー。相手んとこのお袋さんに怒られたんかいー? いかんぞお? 女は雄々しく立ち向かわんとなー」

 小玉は適当に返す。

「うんうん」

「でもおおむねは謙虚になー」

「そうだねー」

 王じいさんにつられて、間延びした口調になる小玉。彼女が嫁に行った前提で話している王じいさんは、ここしばらく痴呆が進んでいた。仕事自体は、体に染みついているのか問題なくこなすが、言動がだいぶ不思議な感じになっているのである。

 でも今言っていることはわりと正しいよなと思っている小玉は、彼の言動をあまり気にしていない。相手に悪気がまったくないとわかっているからだ。

 ……さすがに、最初はちょっと気になっていたが。


「どれー。この年寄りにちっとばかり話してみい。なんか教えてあげられるかもしれんぞー」

「……うん」

 場合によっては、ただの年寄りのお節介にとられかねない王じいさんの発言であるが、悩むのにも疲れていた小玉はその話に乗った。


 そう、乗ってしまったのである。痴呆の進んだご老人の提案に。


 畑の隅にちょこんと座り、兄の話をする。

「おうおう、長の坊やがのー」

 頷く王じいさんは、話が嫁いびりではなく、兄の徴兵になってしまっていることに、特に疑問も抱かず頷いていた。その時点で相談相手として適切か不適切かどうか考えなかったあたりに、小玉の切羽詰まった状態が推し量れるというものである。

 土のついた指をいじり、何気なく言葉を発しながら小玉はうつむく。

「そう、あたしじゃ代わりになれないし……」

 しかし、次の王じいさんの言葉でばっと顔をあげた。

「いんや、代われるぞー」

「……えっ?」

「んん?」


 以下は話がしょっちゅう変なところに飛ぶ、王じいさんの話を編集したものである。といっても、まとめると一言で済む。

 ――女でも、兵士にはなれる。



 辛抱強く話を聞いていた小玉は、ここで王じいさんの腕をぐっと掴む……ご老体に配慮しつつ。

「それ本当!?」

「うむー。わしの伯母おばさんが若いころ、食うに困ってなー」

「……身近だね!」

 意外に近親に実例があった。となるとこれは信じてもいいと小玉は思った。ご老人は昔のことについては、正しいことを覚えているというし……相手がけていることは、一応考慮している小玉であった。

 小玉はふうと一つ息をついた。興奮を抑えるためのものだった。


 思いつくことがあった。

 後々のことを考えると、それははたして天啓だったのか、それとも魔性のささやきだったのか。ともかく、そのときの小玉にとってそれは、今彼女に重くのし掛かる悩み全てを解決する、すばらしい考えに思えた。

 そう、一つではなく全てを。


「ありがとうじいさん! これでなんとかなるかもしれない!」

「おーう。役に立ってよかったわー」

 王じいさんが笑いかけてくる。それにつられて小玉も笑った。少し心が晴れた気がした。

「あっ、じいさん! どこ行ってたんだ!」

 王じいさんが、笑った勢いのせいでえほえほとしわぶいていると、男の焦った声が響いた。王じいさんの息子である。

 じいさん、どうやら徘徊はいかいしていたらしい。

「おーう、小玉ちゃんになー、伯母さんが兵士になった話をしてなー」

「はあ!? なに小玉ちゃんに迷惑かけてんだ! ……ごめんな小玉ちゃん、うちのじいさんが。この前みたいな失礼なこと言ってないか?」

 ちなみに「この前みたいな失礼なこと」というのは、小玉の破談がなかったこと前提で話しかけてきたということである。そういえば、さっき言っている。

 しかしこういう場合の礼儀どおり、小玉は「いいえ」と言っておいた。実際のところ、小玉は失礼だと思っていないので、嘘はついていない。

 それに仮に失礼だと思ったとしても、それ以上に有益な話を聞けたので、なに一つ問題はなかった。

 王じいさんの息子はほっとしたように笑うと、じいさんを促した。

「そっかそっか、ならよかった……ほらじいさん行くぞ!」

「んー、飯はまだかいのうー」

「まだだよ! じいさん探してたから、朝からみんな食ってないんだよ!」

 親子を見送ると、小玉はくわを持ち直した。とてもいい思いつきをしたものの、今帰っても家族は出払っている。そうであるならば、今は農作業をするしかなかった。

 ――でも、帰ったら絶対にこのことを伝える。そして説得する。

 その思いを胸に、小玉は再びくわを振るいはじめた。

 小玉の胸には一つの思いがあった。


 ――あたしは元々、兄ちゃんの代わりのために生まれたんだから。


        ※


 夜になった。

 食事の後、兄嫁が妙に厳かに明かりをともす。いつもならば「もったいない」と誰かが言うところであるが、今日についてはそのようなことを言う者はいなかった。

 ちなみに昨日は誰も明かりを灯すことに気が回らなかったため、終始真っ暗なまま大混乱していたことになる。


 さて、これから家族会議である。


 母を議長に据えて、今後のことについての話し合いが始まった。

「大体お荷物だのなんだのって言ったって、今この家の男ではあんたしかいないんだよ。立ちゆかなくなるだろうが」

「いや、まあ……」

 会議といっても、やっぱり兄に対する糾弾の色合いのほうが強いが、無理もない。昨日彼は命の危機を脱した後、今度は村長の村へ特攻をかけようとする母を無理矢理止めたため、よけいにとげとげしい目で見られていた。

「そのあたりのことも考えると、お前が行くべきじゃないってことはわかるってもんだろう」

「でもさ、それ言ったらきりねえだろ。だからくじ引きなんだよ」

 う、と母は詰まった。兄、いきなりの正論であった。

 しかし、母も負けない。

「……大体お前、結婚できて幸せだから行くとか言いながら、新妻置いてくってなんだい。嫁のこと考えな、嫁のこと」

 今度は兄がう、と詰まった。母も母で正論だった。

 聞いていた三娘がまたぽろぽろと泣きだした。見ていて胸が痛くなる。小玉はよくわかっていた。この親友が、心底兄のことが好きで嫁に来たことを。

 兄は足のせいで、ずっと嫁の来手がなかった。言い方は悪いが、「あんな半端者にうちの娘はやれるか」というやつである。本人も完全にあきらめていたくらいだ。

 そんな兄が兄嫁と結婚できたのは、嫁本人が本当に強く望んだのと、名前どおり三女だったため、「三番目の娘くらいなら、やってもいいか……」と、彼女の実家が譲歩したからである。

 だからそこまでしてやってきた親友のためにも、兄は行くべきではないのだ。


 小玉は軽く呼吸を整えて、今日思いついたことを述べた。

「あたしが代わりに行く」


 ちょうど母と兄が黙った瞬間に放ったせいか、小玉の声は妙に辺りに響いた。

 二人はぐりんと首を回してこっちを向いた。さすが親子、こういうところが息ぴったりだ。兄嫁のほうは思わず泣きやんで、大口を開けた。

「……えっ、どこへ?」

 間抜けな声をあげる兄の目を、まっすぐ見つめて小玉は言い放った。

「あたしが兵士になるの。兄ちゃんの代わりに。王じいさんが言ってた。女でも兵士にはなれるって」


        ※


 少し話は変わるが、小玉と兄の年齢はけっこう離れている。

 それは兄の足が原因だった。

 兄は三歳のころ、木登りをしている最中に蜂に刺されて転落し、足に怪我を負った。本人は蜂に刺されたことのほうに大泣きしていたそうだが、足のほうがはるかに大事だったらしく、以来歩行が困難になった。

 そのとき両親は、子どもをこれ以上作らないことにしたそうだ。もちろんそれは兄のためだ。貧乏なのに兄が無事に育ったのは、関家が子沢山ではなかったからという事情による。

 しかししばらく経って、周囲の反応から兄が嫁をもらえそうにないという予想が立ったのと、兄の足が意外に回復したことから、家の存続を考えて両親はもう一人子どもを作ることにした。そうして生まれたのが小玉である。


 こうやって説明すると、小玉は完全に家のために生まれたようなものであるが、内実はちょっと違う。

 そもそも子どもの体が不自由になった時点で、どこかにこっそり捨てるのも珍しくないご時世に、大事に育てることを選んだ家である。遅くに生まれた小玉は、両親にも兄にも可愛がられた。また小玉が物心ついたころには、ちゃらんぽらんに見えて意外にたゆまぬ努力をしていた兄は、労働力としてそれなりに使えるほどに足が回復していた。

 そういうわけで、小玉本人はそういう事情を知っていてもまったく気にせず、すくすく育って現在に至るわけだ。

 とはいえ、小玉は小玉なりに自分の役割をわきまえていた。


 ――兄ちゃんの代わりに、なんかできることを頑張る。


 だから素早い動きができない兄に代わって、狩りは小玉の仕事だった。もっとも小玉が捕まえられるのは兎のような小物くらいだったが、それに特化しただけにすばしっこく動く獲物を捕まえる技量に関してはなかなかのものである。

 また技量を磨くに伴って、本人も同年代の少年に比べても際だって敏捷びんしょうに動ける活発な……活発すぎる少女に育った。


 元許婚もといいなずけをはるかに超えるくらいに。

 もしかしたら元許婚が破談を言い出したのは、このあたりのことも原因かもしれないが、今となってはわからないことである。


 なんだかんだで結局、兄は無事に結婚し、小玉の「兄ちゃんの代わりに、なんか頑張る」役割は終わったわけではある。しかし今新たに発生したのだと思えば、小玉にとっては「自分が代わりに兵士になる」という発想はまったく無理のないものだった。


 あくまで、小玉にとっては。


 母と兄にとっては、衝撃的すぎる内容だったらしく、

「あたしはお前を、そんなことさせるために育てたんじゃない……!」

「ごめん、ごめんな! 俺がこんなんで! なんで俺、くじ引きのときにもっと嫌だって言わなかったんだ!」

 二人して号泣し始めた。あれ意外だなと小玉は首を傾げたが、兄がさりげなく自分の行いを反省したようで、その点では満足だった。

 兄嫁は完全に途方にくれたようで、二人の背中をさすりながら、小玉に非難がましい目を向けた。

「小玉……あんたもうちょっと、言い方ってもんがあったと思うの」

「そうかな……」

「そうよ! だいたいあんたが行くってなに!」

 兄嫁がきいっと怒鳴る。彼女にとって小玉が代わりになると夫が行かなくてすむという事情は、この際別の問題であるようだった。

 母は嗚咽おえつ混じりに、途切れ途切れ悲痛な声を出す。

「あたしの産んだ子は、どうしてこうも親不孝な……」

 親不孝とか出されると、ちょっと胸が痛む。しかし、母は次の瞬間なにかに気づいたようにばっと顔をあげ、ちょっと前が嘘だったかのように、はきはきとした声を出した。

「そうだ! 女でも兵士になれるんだったら、あたしが!」

「ちょっと待てー!」

 兄と小玉が息ぴったりに同じ言葉を発した。

「確かに母ちゃんだったら、めっちゃ戦えそうな気がするけど、絶対に駄目だからな!」

「母ちゃん行かせたら、それこそ親不孝者として語りぐさになっちゃうよ!」

「いや、でも!」

 母は自分の思いつきを捨てかねるようであった。どうしようと思ったところで、兄嫁が少し厳しい声を出す。

「お義母さん、駄目です」

 う、と母が詰まった。

「……駄目かい」

「駄目です」

 子どもたちの抗議に耳を貸さなかった母が、ちょっと引き下がりはじめた。小玉はおお、と感心しながらその光景を眺めた。母は兄嫁を実の娘のように可愛がっているが、やはり実の親子と嫁姑よめしゅうとめという関係では諸々もろもろ違いが出てくる。それがいいこともあれば悪いこともあるが、今回はいい方向に行ったようだ……と思ったところで、兄嫁が胸を張って事態をさらに混乱させる言葉を投げ込んできた。

「姑を危険なところに行かせるなんて、嫁として絶対にあってはならないことです! それくらいだったら、あたしが!」

「そこでお前も出しゃばるのかよ!」

 兄が思わずといったように叫んだ。

「そこは当初の予定どおり、やっぱり俺が行くから!」

「いやだから、兄ちゃんがいなくなったらそれはそれで困るんだよ!」

「だからって、妹を行かせるわけにはいかないだろ!」

 言い合う兄妹に、ぐいっと身を乗り出す母と兄嫁。

「だからあたしが!」

「ううん、あたしが!」

「二人はいいから! 話がややこしくなるんだって!」

「そうよそうよ!」

 

 侃々諤々かんかんがくがく――結局、誰もが「自分が行く」と言い出して、収拾がつかなくなったのである。



 なおその日は結局、元々少なかった明かり用の油の備蓄が尽きた時点で、全員も力尽きてやっぱり寝た。

 そして日を改め、「兄が行くか、小玉が行くか」で争点を絞って協議をすることとなった。もちろん争点を絞るまでにも、激しい討論が繰り広げられたのは言うまでもない。そして論題が限定された後も堂々巡りになったのも、これまた言うまでもないことである。

 かくして肉体労働に従事している関家では珍しく、頭脳を活性化させる日々が続いたのだった。


        ※


 そして数日後。

 寝不足を顔にり付けた関一家は揃って村長の家まで来た。彼らを見た者は皆、一様に怪訝そうな顔をする。それもそうだろう、旅支度をしているのは兄ではなく妹の小玉なのだから。

 村長の家の前には、すでに他の四人とその家族が集っている。当然ながら皆男だ。彼らと並べば、十五歳の彼女はとても小さく見える。

「これは……一体」

 戸惑いを隠せない顔で村長がつぶやく。小玉は一歩踏み出して、きっぱりと言った。


「兄ちゃんの代わりに、あたしが行きます」


 周囲が息をむ音が聞こえた。揃って同じ音を立てたため、存外大きく辺りに響いた。そして誰もが沈黙した一瞬の後。

「ばっ……馬鹿もん!」

 村長が小玉を罵倒ばとうした。しかし小玉は一切ひるまず、相手をにらみ付ける一歩手前の眼差まなざしで見据える。

「なんでですか。一家から一人を出せばいいなら、あたしが行ってもいいでしょう。女が兵になったって話を聞きました」

 あれから小玉は、王じいさんから聞いた話を盾にあくまで家族を説得し続けた。むろん家族のほうからも引き続き大反対された。しかし説得の成否は、今彼女がここにこうしていることが示している。

 今もまた、村長に向かって言いつのる。まずは無難な材料から。

「うちには男は兄ちゃんしかいません。兄ちゃんがいなくなれば家が立ちゆかなくなるし、兄ちゃんは元々足が弱いから、帰って来られないかもしれない。そしたら誰が面倒見てくれるんですか」

「いやしかし……」

「なにより兄ちゃんは新婚です」

 なにか言おうとする村長の言葉を、無理矢理遮って続ける。ここからが小玉にとっての本番であった。

「誰もが妻と離れるのだ。それくらい我慢……」

 しろ、と村長が言い終える前に、小玉はちょっと深めの事情をべらべらと述べはじめた。

「兄ちゃんの話じゃありません。義姉さんの話です。兄ちゃんが行っちまったら、まだ新婚なのに姑と小姑との三人暮らし。しかも兄ちゃんになにかあったら、そのまんま後家としてずーっとうちにい続けるんです。子どももいないのに」

 言いながら「ほんとにひどいなこれ」と思う話である。多分うちならばそれなりに仲良く暮らせるだろうなとは思うが、それとこれとは話が別である。

「村長さん、あんただったら自分の娘にそんなひどいことできますか」

 村長はちょっと黙った。さすがに理があることはわかったようだった。

「……だがなあ」

 それでもしつこい村長に、小玉は切り札を叩きつけた。

「兄ちゃんになんかあったら、祖先の供養はあたしの子どもがしなくちゃいけないから、結婚する必要があります。その場合、結婚相手を世話してくださいよね。あたしの一族の中で一番偉い人なんだから」

「……うーむ」


 そう、村長の名字は「関」であり、同じ一族であり総領でもある彼は、親族の系譜を絶やさないようにする義務がある。普段はみんな意識していないし、村長自身、そこまで頼もしい人でもないが。

 そして彼は、小玉の結婚について「無理だろ」と言っている立場である。その世話をするのは絶対に嫌がるだろうと、小玉は踏んでいた。

 実際、村長は明らかに悩んでいる。どちらをとるか、頭の中で天秤てんびんにかけているのだろう。


 考え込む風情の村長に、小玉はここで口調をがらりと棒読みに変える。

「でも、ここであたしのほうが行ったら、そういう必要はないですよねー。しかもあたしだって手に職持つことになりますから、ここでずっと独り身のまま一族のお荷物になるより、ずっといいですよねー。うちの家族も、それで賛成してくれたんですよー」

 棒読みではあるが、嘘ではない。家族をこれで説得できたのは、まぎれもない事実である。

 この村ではどのみち自分に未来はない。それくらいならば、よそに出ていったほうが生きていく道はつかめそうだ――そう真剣な眼差しで述べる小玉に、とうとう家族も折れたのだ。

 とはいえ現在もすごく苦い顔をしているので、納得はしきっていないようだが……しかし今大事なのは、村長がどういう反応をするかどうかだ。そしてここにおいて、村長は難しい表情ではあるものの黙り込んでいる。

「…………」

 彼は小玉のわかりやすい懐柔策に、見事に嵌まったようだった。


 ――よし、勝った。


 小玉は心の中で、拳をぐっと握った。あとは言質を取るだけである。


 ――いいって言え、いいって言え……。


 小玉が呪いのように、頭の中で何度も呟いていると、不意に横から明るい笑い声が響いた。ちょっと場違いにも思えるそれを発したのは、徴兵しにきた武官のうちの一人であった。

「よいではないか」

 おそらく責任者なのだろうその人物は、まばらに生えた顎髭あごひげをさわりながら、小玉を見てしきりにうなずいている。

「いや、孝女のかがみだな。実に見事だ」

「で、ですが……」

 今日なにかと遮られっぱなしの村長が、汗をきながらなにか言おうとする。その村長をまた遮り、武官はまた大らかに笑った。

「なに、心配ない。女でも使い道はある」

 ――使い道。

 言い方がなんだか怖い。小玉と同じことを感じたのか、ここで母が声をあげた。

「あの、使い道というのは……」

 すると責任者らしい人間はこう言った。

「んん? まあ、後宮の警備などだな」

「『こうきゅう』?」

 耳慣れない言葉だった。母と同様、横で聞いていた小玉も首を傾げた。そんな彼女たちに、武官は親切に説明してくれる。

「お上のおきさきさまの住まわれるところだ。男は近寄れんところだからな」

「で、では国境に送られるということは……」

「まずないな。そもそもこんな小娘、送ったところで邪魔だ邪魔。はっはっは」

 あっけらかんと笑う彼の言葉は身もふたもない。だが、聞いている側にとってはとても頼もしいものだった。

 母を始め関一家の顔が明るくなる。小玉の心も明るくなる。それはなんだか危険なことがなさそうな気がした。

 あとは徴兵期間の間に、なんとか自活する方法を探っていこう。小玉はそう思った。久しぶりに明るい未来をのぞけたような気がした。


 これも全部王じいさんのおかげだと、小玉は心の底からじいさんに感謝した。その王じいさん一家は、村長の家を取り巻く野次馬の中にいた。王じいさん本人はなにを考えているかわからない様子でぼけっと突っ立っていたが、その一家は真っ青な顔で小玉たちを見ていた。彼らは自分のところのけかけたじいさんが、ある一家の命運を変えたことを察したらしかった。


        ※


 さて一件落着といった様子で沸く関一家に対し、村長はまだなにか言いたそうであった。しかし次の武官の一言と眼差しに凍りついた。

「へんに足の悪い男をもらっても私も困るしな。死なせにやるようなものではないか……ここはどういう選び方をしているのやら」

「も、もうしわけ……」

 頭を下げる村長に、武官はひらひらと手を振る。

「ああ、もういい。そのおかげで目端が利く娘が来たと考えれば、悪くない」

 そう言って、彼は小玉を見て、満足そうに頷いた。


 かくして小玉は、軍人としての第一歩を踏み出す……前の地固めを、まずは終えたのだった。


        ※


 覚悟はしていたものの、別れはやはり辛かった。

「元気で」

「体に気をつけて」

 家族同士、交わす言葉が少ないのは、長い間口を開いていたらこみ上げるなにかがあるからだ。

 でもこれくらい大丈夫、と小玉は胸中でうそぶく。結婚してたらとっくに家を出ていたんだから、と。

 それには、多分に強がりが含まれていたけれど。

 そんな小玉の前に、兄嫁が立った。

「小玉、これ持ってって」

 手の中に押し込まれたそれを見て、小玉は目を見開いた。

「義姉さん、これって……」

「いいのよ、持ってって」

 有無を言わさぬ口調で兄嫁は言い、小玉の手をぐっと握ると、渡したものをそのまま懐に突っ込ませた。


 もらったものは、小さな財布だった。


 小玉たちは子どものころから、色々な手伝いをして小遣いを稼いでいた。そしてそれをため込んでいた。ささやかなへそくりとして、自分の身の回りのものを買うためにである。この村の女の子たちならみんなやっていることである。もちろん小玉も。

 だから小玉の懐には、すでに自分のへそくりの財布が入っていた。今もう一つ突っ込まれた兄嫁のそれは、小玉のものとほとんど同じ重さだった。


 彼女は自分の幼いころの苦労を、全部小玉に手渡したのだ。


 やはり断るべきだ。小玉はそう思い、口を開きかけた。

「なにかあったとき……病気になったときとか、どうしてもお金が必要になったときに使って」

 しかし、小玉の手をとり、握りつぶさんばかりに力を込めた兄嫁の言葉に、これは断ってはいけないのだとわかった。

「……うん」

「でも、無駄遣いしたら許さないから」

「しないよ」

 兄嫁の冗談めかした言葉に、小玉も笑う。懐をでながら言う。

「無事に帰ってきたら……そのときこのお金でお土産を買ってくるよ」

「あ、それくらいだったら、お金そっくりそのまま返して。好きなもの買うから」

「いや三娘、それ言ったら台無しだろ」

 ここで兄がぼそっと突っ込んだ。

「それもそうだね」

「お前も同意すんのかよ」

 お土産だったら自分の金で買おう。それくらい稼げるよう頑張ろう……その思いと二つの財布を胸に、小玉は村を出ていった。


 野を越え山を越える。そんな中、道の横で農作業をする男たちの中に元許婚もといいなずけがいた。相手のほうは小玉の姿を認めて驚きを顔に浮かべたのだが、小玉は彼がそこにいること自体気づかなかった。

 気づいたとしても、そのときの小玉にとってはどうでもよいことだった。彼女は前を――未来のみを見据えていた。

 もちろん未来が明るいものか暗いものかはわからない。それを小玉は小玉なりに把握していた。だが、その状態は昨日までの「未来がない」状態よりも、はるかに小玉の心を躍らせていた。


        ※


 関小玉、十五歳。

 これが後世にとどろく伝説へと至る、最初の歩みである。

 そして兄の身代わり云々うんぬんはともかく、「男に振られて軍に入った」および「痴呆が進んだ老人の言葉に後押しされた」という事情は、まったく知られることなく未来へと至ることとなる。

 というか、そこらへんのことが轟かれたら、いろんな人間が困ったはずだ……もっとも本人は、気にしないだろうが。

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