紅霞後宮物語 第零幕/雪村花菜

富士見L文庫

第一部

第1話 伝説に至る道〜若き少女の悩み〜

 昔、ある女性がいた。


 希代の天才と呼ばれた彼女の才能は、軍事方面に突出していた。一兵卒から出世を重ね、女性として初めて将官になり――それだけでもごく普通に語りぐさになってしかるべき人物であるし、実際その時点ですでに同時代の人間からも取りざたされてきた。

 しかし彼女を伝説の人たらしめたのは、その後の人生によるものだ。

 

 ――三十代にしていきなり皇后になる。


 意外性に満ちた生涯を送る人間は、歴史を概観すればそこかしこに見受けられる。しかし彼女の場合は、その中でも群を抜いた人生である。

 しかも後宮入りしてからも、ただ後宮の闇の中に消えていくでもなく、颯爽さっそうと戦場を駆け回り、一武官であったころよりも多く周囲に話題を振りまいた。

 まさしく綺羅星きらぼしのような存在で、すでに斜陽にあった国を一時だけ照らした。


 彼女のいみなは記録に残っていない。名字が「かん」であったため、単純に関皇后、あるいは本人との関わりが深かった軍の名をとり、「武威皇后」とも呼ばれる。

 それでも民衆は彼女の名前が残っていないことをまったく気にせず、後には神格化するにまで至る。

 武芸と子どもの守護の神として長く愛されている彼女であるが、そんな彼女が、そもそも兵卒として軍に入ったのはなぜなのか。

 その経緯は、部分的にしか知られていなかった。


        ※


 小玉しょうぎょくは「関」という自分の名字を、あまり気にしたことはない。なぜなら村のほぼ半分が「関」だからだ。ちなみにもう半分は「陳」である。したがってこの村の人間は、お互いの名字をほぼ気にしないで生きていく。


 しかし人生に一度だけ、名字を気にするときがある。

 結婚である。


 この国の決まりでは、同じ名字の人間が結婚してはいけない。したがって小玉は結婚相手を「ちん」姓、あるいは村でもごく少数の、他の名字の人間から選ばなくてはならなかった。


 これが十二歳のときである。


 そして確率的になんの意外性もなく、「陳」姓の同い年の少年と婚約が整った。同じ村に住む少年で、要するに小玉の幼なじみである。

 特に障害もなくまとまった縁組みは、このまますんなりと成立に至るだろうと誰もが考えていた。というか普段そんなことを意識する人間などまるでいないくらい、まったく問題なく動いていた。

 途中、小玉の祖母が亡くなり、喪中のため結婚が一年遅れた以外は。


 ……しかし、結果的にいえば、その一年で問題が発生したのである。



 さて、十五歳になった今。

「お前は俺のことなんか好きじゃないんだろう!」

「はっ……えっ?」

 いきなりそんなことを言われて、小玉は驚きのあまり目をきょときょとと動かした。


 そりゃあ驚きもする。


 これが「彼」以外の人間であれば、「いや好きじゃないし」とあっさり言い放つところであるが、お相手が自分の許婚いいなずけとあっては。

「ほら、その反応!」

 図星なんだろうとやけに偉そうに言われたおかげで、すっと頭が冷える。

「待って、待って。いきなり結婚相手に呼び出されて、てっきりいつもの兎狩りかな、よし自慢の投石の腕を見せてやるとか思って付いてったら、最初に言われたのがそれだよ。びっくりする以外なにがあるの」

 自分でもよく言い返すことができた! と思うくらい、理屈になっている(ただし長い)言い分だったのだが、許婚は猜疑心さいぎしんに満ちた目を向けてきた。

「……そんなふうに落ち着いて言えているあたりがあやしい! やっぱり俺のことそんなに好きじゃないんだろ!?」

 そんな彼に、小玉は半ば悲鳴みたいな声を上げる。

「じゃああんた、あたしどうすればいいのさ! ねえ!」

 びっくりしても駄目。落ち着いても駄目。

 そうなると人生経験をそう積んでいない小玉は、万策尽きた状態になる。というか、人生経験をそうとう積んでいる人間にとっても、この状況はいささか荷が重いものに違いなかった。


 それでも小玉は心の底ではまだほんのちょっと余裕があった。なんといっても相手は自分の許婚だし、それ以前に赤ん坊のころから付き合いのある幼なじみだ。話せばわかる……というかまず、なにをどうしてそういう考えに至ったのか、話を聞かせてくださいという気持ちでいた。


 次の瞬間までは。

「俺との結婚をやめてくれ」

「えっ……」


 頭の中が真っ白になった。さすがにこれ以降は冷静さを取り戻すことができず、小玉はただ呆然と相手の言い分を聞いた。

「俺は俺のことを、愛してくれている人と結婚したい」

 言い分といっても、これだけだったが。


 ――愛。


 思春期の少年が口にするには、中々勇気の要する言葉を平気で口にして、彼は妙に颯爽と去っていった。呆然としたままの状態でそれをただ見送った小玉は、やがてぽつりと呟いた。

「愛」

 呟きを、重ねる。

「愛って……なんだろう」

 学者級の深遠な疑問であった。若干、それを追及するどころではない状況なのではあるが。

 一方的に破談を言い渡されたとはいえ、それでも小玉はまだ悲観しきってはいなかった。結婚は両者だけのものではない。家と家との結びつきでもある。彼一人が結婚したくないといっても、はいそれでやめましょうということにはならない。


 後の小玉であれば「結婚したくないんだったら、結婚やめようか、うん」とその場で言ったであろう。

 だがこのときの小玉はまだ、そういうすれた境地には至っていなかった。許婚に未練がある以前に、自分一人だけの問題ではないのだ、他の人も関わってくれるのだということに安心できるような年頃だった。


        ※


 しかし、翌日。

 許婚の両親が、小玉の家に結婚の破談を申し込みにきたのである。

「すまんが大花たいかさん、この話はなしに……」

 言い切る前に、母である大花が激怒した。隣にいた兄嫁の三娘さんじょう裂帛れっぱくの気合いを込めた声で命じる。

「よし三娘、熱湯持ってきな!」

「はい!」

 嫁は姑に従順だったが、それを慌てて兄のちょうが止めた。

「おいやめろよ、沸かすためのまきがもったいねえだろ! 誰がると思ってんだ!」

 姑と嫁はそこではっ、と我に返った。そういう言葉で沈静化する人間しかいないのが、この家である。


「あんたんちとは長い付き合いだ。詳しいこと言ってみな」

 沈静化したとしても、母はすごい形相で事情説明を求めているが、これは当然のことだろう。

 許婚の父親が汗を拭き拭き説明を、

「いやそれが……うちの息子に、別の縁談が出て」

「ふざけるな!」

 ……開始したところで、今度は兄が激怒した。今度は誰も止めなかった。

「結婚する一月前に、よその女といい仲になるとか! お前ら息子をどう育ててるんだよ!」

 急に立ち上がろうとして、ぐらりと体の平衡を失う。それを慌てて三娘が支える。兄は幼いころに負った怪我が原因で、足を悪くしていた。

 しかしそれでも殴りかかろうとする。三娘は兄が上手に殴れるような角度で支えている。なんとも美しい夫婦愛である。新婚なのにもかかわらず、この二人は夫唱婦随の域に達していた。


「……いいよ兄ちゃん、やめて」


 それを小玉が止めた。ここまでずっと呆然としていて、自分のことなのに一切口を挟めなかった彼女だったが、今兄夫婦の様子を見て、ふと気づいてしまったのだ。

 ――どのみち、ここで強引に結婚を推し進めたとしても、自分と彼は、兄と兄嫁のような関係にはなれない。

「やめて」

「小玉……」

 もう一回繰り返すと、兄は渋々というように振り上げた腕を下ろした。


 まあ、最終的には母が殴ったんだが。


 母はぎりぎりと歯ぎしりをしながらそれでも耐えていたが、相手が「これは少しばかりの気持ちだが……」とひもに通した銭の束を差し出したところで、彼女のなけなしの忍耐の限界が来た。

「あんたらの気持ちが、薄汚れてることはわかったわ!」

 そう言って、銭の束をむちみたいに振り上げて相手をぶん殴った。ちょっとやりすぎな感もある。絶対にあれは痛いと、見ていた小玉は思った。

 しかし実をいうと、「やめて」と言っておきながらも、それでかすかに胸がすっとしてしまった自分がいた。

 それを恥じればいいのか、それとも当然のことと思っていいのか、小玉はわからなかった。


        ※


 最終的に、突き返された銭を抱えて、ほうほうの体で「元」許婚の両親は帰っていった。

 ぼんやりと座ったままの小玉の肩に、兄がぽんと手を置こうとして、なんとなく思い直し、隣に座ってきた。

「おい、小玉」

「うん」

「気にすんな。お前にはちゃんと魅力がある」

 兄は確信に満ちた声で言い放った。小玉はその横顔を見る。

「兄ちゃん……」

「お前は胸に肉はねえけど、腹にも肉がねえからな!」

「兄ちゃん、慰めになってないよ」

 でもそれが兄なりのいたわりの言葉であることは、小玉にもわかっていた。小玉はほのかな笑みをようやく口元に浮かべた。

 小玉を兄が(兄なりに)慰めている横では、母と兄嫁が二人よりももう少し現実的な話をしていた。


「お義母さん。あのお金、出所はどこでしょうね?」

「あー……言われてみれば不思議だね」

 母が首をかしげる。

「ですよね。あの家、うちと大体同じ台所事情のはずですもの」

 あんな銭の束持ってくるなんて、絶対訳ありですよと兄嫁は主張し、それは本当にそのとおりだった。


        ※


 なにかあったら村長さんに報告だ。


 こういうことは、この村に住む者に限らず、共同体に住む者の義務である。その鉄則に基づいて、母と兄は早速村長のもとに話をしにいった。

 そして激怒に激怒を重ねて、帰ってきた。

「なにがあったの?」

 結果的にこの家で一番冷静な人となってしまった小玉が問いかけると、兄はむっつりと黙り込み、母が事情の一切合切を説明してくれた。とはいえ、たった一言であるが、それだけですべてがわかった。


 曰く、小玉の「元」許婚を地主の娘が見初めた、と。


 そうか、と小玉は思った。さっきからわかっていた事実が、胸の中で言語化されたのを感じる。

 ――あたし、捨てられちゃったんだ。


 兄がここで、吐き捨てるように言った。

「あんな男のどこがいいんだよ。うちの小玉と顔で釣り合う程度なのに」

 ……小玉への気遣い上、内容的にいささか問題はあるが。しかし兄の言っていることは真実であり、また理があった。

 本当に、小玉と彼はお世辞ではなく(けなしでもなかったが)、「お似合いだね」と言われていた二人だったのだ。

 地主の娘であれば他にいくらでも男は選びようがあっただろうに、なぜ彼を好いたのか、実をいうと許婚であった小玉にもわからないというのが、身も蓋もなさすぎる事実であった。


「でもなんで村長さんがそんなこと知ってたの?」

「あいつら、根回ししてやがった」

 お前さんたちには気の毒だが……というふうに言われたのだという。さすがに彼もこの辺りの地主が絡んでくると、そういう態度をとるしかなかったのだろう。それは一家全員も納得していた。必要であれば、長いものに巻かれるのもよしというものである。

 それにもうこの縁談に未来はないということは、家族全員の目から見てもわかりきったものだった。またそうであれば他の縁談に未来を見いだそうというのも、これまた家族全員の一致した意見であった。


 しかし、話はそううまくはいかない。


        ※


 小玉は十五歳。村ではこの年齢だと、結婚適齢期を過ぎかけている。

 それは男側もそうで……要するに、他に適当な相手がいなかった。しかも単に小玉があぶれているだけならばまだ諦めもつくが、別の問題が発生した。

 数少ない独り身の少年・青年の家に話を持ちかけても断られるのである。

 理由は、結婚一ヶ月前に破談になった娘はちょっと……というものであった。


 ここで話を振り返ってみる。

 小玉の破談は、先方から一方的に申し渡されたのである。

 それも、完璧に先方の都合で。


 つまり小玉は悪くない。いや、本当に。


 その話が広まっていないから、周囲がそういう反応を示したのか……と最初、小玉たちは思った。しかしそうではなかった。話自体は、どこの村にも一人は生息しているおしゃべり好きのおばちゃんによって、破談の翌日には村に広まっていたという。


 ……しかし、断られるのである。


 元許婚たちの圧力がかかっているからという理由でもない。破談からほどなくして、元許婚は元気に婿入りしていった。両親込みで。

 村からいなくなる以上、どんな悪評を広められてもかまわないという態度で出て行った彼らの姿は、一種の清々すがすがしささえ覚えるほどであった。


 ……しかし、断られるのである。


「これって、どういうことですかね」

 ここは、「困ったときの村長さんに相談」である。関一家(といっても村長の家も関姓なのだが)は、ぞろぞろと村長の家に向かった。

 すると、こんなことを言われた。

「言い方は悪いが、小玉はもう傷物だからなあ」

 本当に悪い言い方だった。

 母が固い声で言う。

「……この娘は別に悪いことしてません」

「知っとる」

「相手の事情で、一方的に破談になりました」

「うむ」

「川沿いの陳家の馬鹿息子とは、手をつないだことしかありません」

「そうだろうな」

 村長は小玉をちらっと見て、やけに力強くうなずいた。いやまあ確かにそうだし、そこは認められなくちゃ困るのだが、その反応に妙にひっかかるところを感じた小玉だった。

 母が、念を押すように言う。

「今あたしが言ったことは、村中知っていますよね?」

「当然だな」

「じゃあなんで、うちの娘が傷物になるんでしょうね」

 それに対して村長の反応は、実に理屈にかなっていないものだった。

「男側から破談にされるとなるとなあ……」

 小玉はやりとりを聞いて、思う。


 ――駄目だこのおっさん、話が通じない。


 今は元許婚より、この村長のほうを殴りたい、と小玉は思った。


 なお、本当にしょうもない後日談であるが、このときの小玉の欲求は、十年後くらいにややかなうこととなる。


        ※


 母子三人は、悄然しょうぜんとして家に帰った。

 なぜなら、納得してしまう部分があったのだ。当事者たちからしてみると「なんで?」な出来事が、他者にとっては「それとこれとは話が違う」場合があるということ。

 そして今回がその、「それとこれとは話が違う」場合であるということ。


 皆、この村で産まれて育った。

(おおむね)この村の価値観で生きてきた。


 そうであるからこそ、他の人の「そういう感覚」がわかってしまうのだ。

 おそらく自分のことでなければ、小玉たちもまた村人と同じ対応をとってそのことに疑問さえ抱かなかったのだろう。


 ――そういうことに疑問を持てて、良かったじゃない。


 小玉は半ば自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。何度も。



 家の中に入ると、兄嫁が繕い物をしていた……小玉の花嫁衣装だった。

 もうすぐ完成するというところで、ずっと放置していたものだ。

「義姉さん、それ……」

「いつか使うものだから、手が空いたときに針を入れなきゃね」

 そう言って彼女は小玉に笑顔を向ける。

 無性に、ごめんなさいと言いたくなった。でもそれを言ってはいけないのだということもわかっていた。

 母と兄が、ちょっと薪を採ってくると言って家から出て行った。いたたまれなくなったのだろう。それを逃げとは思わなかった。

 二人にもごめんなさいを言いたかった。でもやはり言えないのだと思った。


 言ってしまったら、自分が悪いことになる。

 そうなったら、みんなの心が折れてしまう。

 それだけは、してはいけないことなのだ。


 小玉は声の震えを押し殺して言った。

「ありがとう、でも……でも、義姉さん刺繍ししゅう、ちょっと苦手でしょ」

「あっ、言ったわね。確かに小玉のほうが得意だけど」

 言葉ほど悔しくなさそうに、兄嫁が言う。

 元許婚と同様に、彼女もまた小玉の幼なじみだった。その中でも特に親しい――親友と言ってもいい間柄だ。だからこんなにも気安く話すことができる。

 年も同じで、彼女がこの家に嫁にくるのと入れ違いに、小玉も嫁に行く予定だった。もしかしたら同じ年に子どもが産まれるのかもしれないね、と話し合ったこともある。少し照れくさくて、でもほんのりと心が温かい時間だった。


 しかし今となっては、彼女は兄と幸せに生活し、小玉はこのざまである。


 もしかして兄嫁はなにか負い目を感じているのかな、と小玉は思った。そんなこと、感じる必要ないのに。でもそれを口にしたら、この親友はそんなことないと激怒するだろうから、小玉は疑問をそっと胸の中にしまった。

 そして兄嫁の横に座って、布を手に取る。

「貸して。この部分、あたしやるから」

「あ、そう。じゃああたしはここの部分やるわ」

 兄嫁はあっさりと譲り、布の端っこを手に取った。

「ええ? 目立たないところ選んじゃって」

「目立つところは、刺繍が得意な人がやればいいんですー」

 そう言って、兄嫁は再び手を動かし始めた。小玉も針を取り、やりかけだった刺繍を仕上げ始めた。

 これまでで一番丁寧に、手を動かした。

 きっと使わないであろう、花嫁衣装に。


 ――衣装が完成しても、小玉の縁組みが整うことはなかった。


        ※


 そうして三ヶ月が過ぎた。

 小玉は一人で木の実を採りに、森の中に入っていった。最近、一人になる時間が増えた。あえてそういう仕事ばかり選んでいるし、家族もそれを容認している。

 落ちているものを拾う他、木になっているものも収穫する。小玉はひょいひょいと木に登った。同年代の男の子と比べても、運動神経には自信がある。

 そして籠がいっぱいになったところで地面に腰掛け……そのまま身じろぎ一つせず、考え始めた。


 ――ところで、自立というのは難しいと思いませんか。


 ……などと呼びかけ調にしてみても、この場には小玉一人である。そもそも声に出していない。

 そして、「ところで」などと、話を変えるときに用いる言葉を使うのも不適当だ。さっきの収穫の最中から、同じようなことしか考えていないのだから。

 そう、自立とか自立とか……あと、ちょっとひねって自活のことを。

 小玉はもう結婚のことは諦めていた。しかしそうなると、どう生きていけばいいのかわからない。女はすべからく結婚するべきものだと思っていたし、周囲に結婚していない女など小玉より若い娘しかいない。

 ならば自分一人で生きていくしかない。その考えに至るのはとても簡単であったが、そこから先に進めなかった……もう何日も。

 なんとも不毛だ。そしていつの間にか日が傾いている。


 ――あーあ。


 小玉はため息をついて立ち上がった。ずっと地面に座り込んでいたので、ちょっと腰が痛い。尻についた草の切れ端をぱんぱんと払う。

 そうして籠を手に取ると、えっちらおっちらと歩き始めた。今日も建設的なことは何一つ思い浮かばなかった一日だった。

「どうしようかなあ……」

 歩きながらぼそっと呟く。ここ最近の口癖だ。

 何度呟いても悩みの答えは出ないとわかっているのだが、それでもまた「どうしようかなあ」と呟いてしまう。どうしようもないときほど、「どうしようかなあ」という言葉が出るのだな、と小玉は少し哲学的な考えに至っていた。


 そもそも本来なら今頃は、もっと別なことで悩んでいるはずだったのだ。そう……たとえば嫁姑よめしゅうとめ問題とか。

 そんなことで悩みたいと思ったことは一度もなかったが、今思えばそれで悩むような人生のほうがずっと楽だったと思う。

 嫁姑問題に悩む前提として必要なものは、結婚である。あと、相手の母親が存命だということも。

 思えば彼――元許婚は両方の条件を満たしていたなあと、なんとなくしみじみとしてしまった。いや、くどいようだが嫁姑問題に悩みたいわけではないのだけれども。


 実をいうと、破談から今に至るまでの経緯に色々思うところはあっても、「悲しい」と思ったことだけはない。

 それは多分、心のどこかが麻痺まひしているからだ。

 一方的な破談を言い渡された日から、心の一部が暗くて見えないのだ。直視してしまえば泣き出しそうな気がするから、小玉はその暗がりをのぞき込まない。


 率直に言おう。小玉からしてみても、元許婚はそんなにいい男ではなかった。小玉と容姿の上で釣り合う程度だったのだから、推して知るべしというものである。

 だが、気のいい男だった。共にいて苦にならない相手だった。だからそれなりにいる幼なじみの中で、彼がいいと思った。

 かといって、本当に彼のことを好きだったのかと言われれば、ためらいながら「それほどでもない」と答えるしかなかっただろう。

 近くにいて、なにかの切っ掛けでお互いを結婚する相手として意識したにすぎない。その切っ掛けさえも覚えていないのだから、きっとささいななにかで左右される程度のものだったのだ。

 どこかで一歩間違っていれば、幼なじみである兄嫁が今の自分の立場にいたかもしれない……いやまあ彼女は兄にぞっこんだからそれはないだろうが、もしかしたら他の幼なじみが彼の許婚になっていたかもしれない。そんな予想がつくくらい取り替えが可能な関係ではあった。

 だから、彼が地主の娘を選んでも無理はないとわかっている。金とかの問題ではなく、自分に熱烈にれている娘のほうが結婚相手としてはいいだろう。むろん、金があればなお良いのだが。


 でもなあ、と思う。

 そんなにも熱烈に好きなわけじゃなかったけれども、好きであることには変わりなかったのだ。

 ほんのりとした気持ち。それだけでは駄目だったんだろうか。


 救いといえば家族が優しいことだ。今も。父はすでに亡いが、母も兄も兄嫁も自分を疎むことなく扱ってくれる。だがそれだけにこう思うのだ。


 ――自分はここにいてはならない。


 気丈を絵に描いて飾ったような母が、夜こっそり涙をぬぐっている姿を見ることもある。寝たふりをしてそれを見なかったことにする度に、その気持ちはますます強くなる。自分はいるだけで母を悲しませる存在になってしまった。


 それでも今はまだいい。

 だが、十年、二十年と実家に居座り続けたらどうなるだろうと、気が遠くなるような気分になることがある。

 もし家族が自分を疎ましく思ったら……それは今、小玉がもっとも恐怖することであった。そうなったら自分は、心の意味でもいる場所がないのだ。


 それくらいならば、今出て行きたい。

 すべてに疎まれた後に出て行くのと違い、今出て行くのならば、故郷は優しい場所として思い返せる。

 だが、どうやって出て行けばいいのだろう。考えはいつもそこで行き詰まる。

 単に村を出て行くだけならば簡単だが、その後自活していかなければならないのだ。何とかなるさと楽観するには、自分があまりにも世間知らずだと小玉はわかっていた。

 どこか自分を雇ってくれるところがあればいいのだが、これまで村から出たことのない自分にそんな伝手つてなどあるはずがない。男に食い物にされて、落ちぶれるのがせいぜいである。

 もちろん行方をくらますだけならば話は早い。それはわかっている。しかしそれをやれば、家族はとてつもなく心配するはずだ。

 さらにいえば、行方をくらまして意気揚々と出発した直後に獣に襲われて死亡とか、そうでなくても食糧を失ってのたれ死ぬなんてこともありえる。


 人生、畑仕事の最中にぽっくり逝くこともあれば、長いこと寝付いてから死んでいく場合もある。事故で死ぬ場合だってある。

 小さな村なりに色々な死を見てきた小玉だから、死に方に注文をつけるつもりはない。だが、死んだ後は墓を作ってもらえるような終焉しゅうえんを迎えたい。

 そんなに無茶な注文はしないから。埋めた死体の上に、石一個置くぐらいでいいから。

 それくらいのささやかな願いは、持ち続けていたかった。


 ……人生の終焉までを考えるには小玉はまだ若かったのだが、ここしばらくの思索の影響でやたらと精神が枯れ果ててしまっていた。

 しかもやけに悲観的なことばかり考えているが、これは彼女の思考が暗黒面に落ちてしまっているからではない。実際にそうなってもおかしくない時代だったからだ。

 そういう点、関小玉という少女は、よわい十五にして極めて現実的な思考を持ち合わせていた。


        ※


 ため息をつき、小玉は家路についた。

 足取りは重くない。むしろ軽い。

 遅くなると家人に異様に心配されるからだ。今日はちょっと、精神世界面に入り込みすぎた。明日はもう少し控えめにしておこう……と、すでに翌日も悩むこと確定な思考のもと、小玉は半ば小走りで家へと向かった。

 家が見えたところで……おや、と思う。もう日はほとんど落ちかかっているのに、火を使っている様子が見えなかった。

 この村では村長といえど贅沢な暮らしはしていないから、煌々こうこうと灯りがともるということはない。それどころか燃料がもったいないので、日没と同時か直後に寝る家がほとんどである。

 小玉の家も例外ではない。しかし煮炊きするために火くらいは使う。そんな気配もないのはどういうことだろう。そもそも煙も出ていないなと不審に思いながら、小玉はいっそう足を速めた。

「ただいま!」

 家に飛び込み、ぎょっとする。

 母、兄、兄嫁が薄暗くなりつつある家の中、円陣となっ座っていた。

 彼らが小玉の声に、ぐるんと顔を向ける。暗い顔だった。

 まるで火事で焼け出された人みたいだと、とぼしい経験の中から小玉はよく似た事例を引っ張りだす。


 とはいえ現在、家には種火以外の火の気はほとんどないのだが。

 というかそもそも家、燃えてないが……問題はそこではないか。ないな。

 当然であるが、小玉はちょっと混乱していた。


「なにが、あったの……」

 恐る恐る問いかける小玉に、三人は暗いままの顔を見合わせ……不意に兄嫁がその場に突っ伏した。

「三娘!?」

 思わず「義姉さん」とではなく、名前で呼んで小玉は兄嫁のもとに駆け寄る。すすり泣く彼女の背をさすった。

「母ちゃん、兄ちゃん、どうしたの? 三娘の家で不幸でもあった!?」

 小玉のこの発想は、かなり順当なものだっただろう。しかしそれは予想だにしない方向で覆された。


 小玉の問いに、母と兄が顔を見合わせる。「どっちが言う?」というような、嫌そうな無言の譲り合いの結果、口を開いたのは母であった。

「小玉……長が徴兵されることになった」

「え……」

 小玉はあっけにとられた。兄嫁の背をさするのも忘れ、兄の顔を見つめる。母の言っていることが信じられなかった。兄に否定してほしかった。

 しかし兄は小玉の視線を受け止めず、ただうつむいた。


 ――本当のことなんだ。


 兄嫁の泣き声が一際高くなる。

 小玉は唇がわななくのを感じた。ここ最近、言いたいことがあってもあまり言えない状況が続いたが、今日このとき、小玉は言いたいことを思う存分叫んだ。

「ふざけんなよ!」

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