第41話 愛する者

 フィトはまっすぐに聖樹カルフへ、その頂へ向かって飛んだ。

 厚く天を覆う暗雲に何度も稲光が走り、雷鳴が響く。彼の体のすぐそばを雷撃が落ちていく。


 至近距離まで近づいた聖樹は、より一層異様な姿を見せていた。

 歪んだ凹凸のある巨大な幹には縦横に脈がよぎり、のたうつ蛇体のようにうねった枝には一葉もない。

 樹と呼ばれているだけで、木ではないのだ。


 網のように絡み合った枝をくぐり抜け、彼は上へ上へと飛んでいく。

 息が上がり出す。押さえた左肩からは血が流れ続けている。

 それでもフィトは翼を振って上を目指して飛んでいく。

 愛する、愛された、ロイファに言われた通りに。


 雷が彼の体をかすめる。衝撃に吹き飛ばされそうになって、必死に翼を打ち振り耐える。

 そして、続けざまに落ちる雷の中に飛び込むように、雲の底へと突っ込んだ。


 白と灰と黒が激しく渦を巻く世界の中、雷光が水平に幾重にも駆け巡る。

 どちらが天で地なのか示すものはない。上下感覚が狂いだす。視覚に頼ることはもうできなかった。

 だからフィトは目を閉じた。


 何度も襲いくる雷鳴と衝撃。彼を捕らえようとする聖樹の枝。

 それでも彼は、ただ引かれる方向へ、心が引き寄せられる方向へと飛んだ。肩から手を離し、前へと差し伸べる。彼の求めるものへと。


 閉じたまぶたごしでも分かる閃光。雷が彼を直撃した。

「うわああああ――――っ!」

 フィトは絶叫し、それでも、翼を打ち振るのを止めず。


 突然何かを突き抜けた。一転して周囲を静寂が包む。ハッとして彼は目を開けた。雲の上に、たどり着いていた。


 そこに広がっていたのは、薄桃色の光だった。雲の表面に反射して、きらきらと輝いていた。

 雲を越えて突き出た聖樹の冠頂部が、まるで鳥の巣のような形を作っている。その巣の中心に、眠るように身を丸めた一人の少女――聖女マトゥナが、いた。

 薄桃色の光は彼女から放たれていた。長い髪が彼女の背後に波打っていた。


 フィトは静かに巣へと降り立った。

 そのかすかな振動を感じ取ったのか、少女がぴくりと動いた。彼女の目が、ゆっくりゆっくり開いていく。

 夢を見ていたかのように、ぼんやりとした薄桃の瞳。

 そして彼女は身を起こした。


 彼はそっと足を踏み出した。細い枝で編まれた巣がさざ波のように揺れる。彼女が彼を見上げていた。

 彼女のすぐそばに歩み寄って、ひざまずく。彼女の頬に手を伸ばした。血で汚れていたはずの彼の手も、白く輝いていた。


 指先が頬に触れる。と、彼女はふわりと微笑んだ。彼女の手が彼の手を取り、頬に押しつけられる。

 彼女の唇が開き、陶然と囁いた。

「ずっと、待ってた……」

 身が弾けそうなほどの歓喜がフィトの中に湧き起こった。


 自然と互いの体が近づいていった。彼の腕が彼女の背に、彼女の腕が彼の背に。

 互いにしっかりと抱き合って、彼らの体が光り輝く。

「愛している」

 彼は少女に囁いた。

 体の境界が無くなっていく。皮膚が融け合っていく。混ざり合っていく感覚。温かい。

「愛している」

 自分はロイファを、人間たちを、世界を。だからこそ聖女を。

 フィトは全ての想いを込めて、聖女に口づけた。


 それを最後に、彼らは輪郭をなくし、ぱしゃんと溶けた。


   ◇


 涙で濡れたロイファの目に、雷のものではない光が見えた。

 温かい、金色の光。

 はるか上空に初め小さくあったそれは、徐々に輝きを増していった。固唾を飲んで見入るうち、雷鳴の音が止んでいく。天を塞いでいた雲が強風に吹き散らされるように消えていく。


「あれは……!」

 ザントスの声がした。

「とうとう……」

 キアネスの声も聞こえた。

 ロイファは応えず、ただ光を見つめる。言葉にする必要なんてない、彼女には分かっていた。


 やがてゆっくり、ゆっくり、金色の光は下降を始めた。地上へ向かって。

 ロイファは駆け出した。

 降りてくる。やってくる。それを迎えるため、彼女は大きく腕を広げる。

 哀しみと、確かにある歓び。身を斬られるような切なさと、胸の内から弾け出すような希望。感情が彼女の中で暴れている。

 だからこそ彼女は、できうる限りに大きく腕を広げて、迎える。


 そして光は、ロイファの元へと降りてきた。彼女は全身でそれを受け止め、全霊で抱きしめた。

 金色に輝く、赤子ほどの大きさの卵。温かい。

 ロイファの目からはまだ涙がこぼれている。その滴を受ける度、卵は瞬くように輝きを揺らめかした。


 さぁっと、また別の光が差してきた。彼女は顔を上げる。

 もはや一片の雲も無くなった地平に、太陽が昇り始めていた。美しい、全てを祝福するかのように、光り輝く夜明け。

 黄金期の到来だった。

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