第39話 兄弟の闘い
自分の方に向かってくる弟の姿を見た瞬間、キアネスの体を貫いた激情。その正体を知覚することのできぬまま、彼は大きく両腕を広げる。
「地にそそり立つもの、空をうがつもの、岩拳!」
呪札を放てば、岩の腕が弟へ伸びる。ザントスは身を沈め、キアネスを見上げた。強い視線。
その低い位置から繰り出された剣を、再び岩柱を現出して防ぐ。激突音。岩と剣が噛み合い、力が拮抗する。
「王位が欲しいんなら、最初から言えよ! 俺に! ちゃんと!」
弟の怒声に、兄は歯を食いしばった。あまりにも楽天的に過ぎる、弟。
「言ったら、お前はどうしたと言うのだ……」
うなると、弟はさらに怒鳴った。
「喜んでくれてやったさ! 俺は王位なんて
「……まさか! お前がそうでも、他の者が承知すまい!」
キアネスは叫んだ。
「お前はメルローダから、皆から慕われて……愛され、て……っ!」
弟の表情が、一瞬変化した。と、激高した声が響く。
「他のやつのことなんて知るか!」
ザントスは
「てめえと俺が、どうしたいかだろうが!」
キアネスは息を飲む。
「もっと自分の望みに、正直になりやがれ! 言ってみやがれよ!」
自分の望み。それは。
――ザントスのことが、ずっと。誰もに慕われ、愛されるザントスのことがずっと。
うらやましかった。
自分は――ザントスになりたかった。成り代わりたかった。
脳裏が赤く染まる。頭が熱く熱く熱くなる。自分の髪が広がるのを感じた。そして左手が、先から光の粒子に変わっていく。
「私の望みは……!」
それ以上言えず、キアネスはただ右腕を振った。三本の岩の腕が一度に弟へ向かう。
ザントスは敏捷に後ろへ跳び、そして横に走り出す。側面に回ろうというのか、させまいとキアネスは柱を次々と地から立ち上げて弟の進路を塞ぐ。
「まだるっこしいんだよ! てめえは!」
柱を避け走りながら、苛立ちを露わにして弟は怒鳴る。
「もっとはっきり言え!」
兄はぎりっと唇を噛む。自分は弟を。自分は弟に。
愛されなかった自分――愛されたかった自分。だがそれを認めることは、キアネスにはできなかった。彼は自分を守るために、自分を隠してきた。
左手が光となって消えていく。もう何も掴めないその手を、彼は弟へ向け伸ばした。
「お前に命令される覚えは、ない……!」
◇
ザントスは歯噛みする想いだった。今どんな顔をしているのか、兄は自覚しているのだろうか。きっと、していない。
自らの体を光の粒子に変えながら、苦痛に
ザントスは兄が泣くところを初めて見た。兄がここまで感情を露わにしているのを、初めて見た。
「じゃあこう言おうか!」
ザントスは肺の空気を全て吐き出して叫ぶ。
「俺は、兄上の望みが、知りたい!」
兄が小さく唇を開いた。何かを言おうとしているのか、それが聞きたくてザントスは兄へと駆ける。しかしまた岩の巨塊が出現して彼を阻む。
兄が常に張り巡らせていたような、壁。
ザントスが近づけない間に、キアネスは言った。
「……私は、全てを手に入れられるお前が、妬ましい! だから……っ……!」
「違うだろ!」
ずっと嘘をつき続けていた兄のことが、ザントスは嫌いだった。だからこそ、渾身の力で怒鳴った。
「嘘言ったって分かんだよ!」
「何が……分かると……!」
兄の声が高くなった。ザントスがこれまで聞いたことのないような、動揺しきった声、涙が混じった声。
どんなに走っても兄に近づけない。岩の壁が出現するのが速すぎる。そして兄の左腕はすでに肘までがなくなっていた。
だからザントスは、重たい両刃剣を投げ捨てた。
「どんだけ長い間、一緒にいたと思ってんだ!」
軽い身になって、兄の攻撃を防ぐのを放棄して駆ける。キアネスはたじろいだように一歩
「……お前だって、私を嫌っているくせに!」
岩の腕が伸びてくる。ザントスはそのまま走った。
岩は彼の体を貫こうとする、しかし直前に、突然動きを止めた。
ザントスはその横をすり抜けて兄へたどり着き、そして涙を流し震えている兄を、兄の頬を、渾身の力で殴った。
「兄上が嫌われてるんじゃねえ! 兄上の壁が嫌われてるんだ!」
襟元を掴み、自分の方へ引き寄せる。
「壁作ったまま他人に近づこうとしたって、相手からは壁しか見えねえだろうが!」
兄は茫然とした様子だった。だが数瞬後、ぎっとザントスをにらんだ。頬が、血の色が差して赤い。
「壁が必要な者を、理解もせずに! 偉そうなことを!」
兄の右腕がザントスの頬を殴った。衝撃に兄の襟から手を離す、
しかし兄の拳は弱かった。それはキアネスの体が脆弱なためか、それとも。
弟はもう一度、兄の顔を殴り返した。
「いらねえよそんなもん!」
そして兄の左腕をきつく掴んだ。それはもう二の腕の半ばまで消えている。
「俺がいるだろうが! 何のための弟だよ!」
これ以上消えないように、きつくきつく兄の腕を握った。
「俺が兄上を守ってやるよ!」
兄の口が開閉する。後じさろうとした。
だがザントスは腕を掴んだ手を離さない。
「お前が……そんな……わけが……」
頭が横に振られる。二度殴られた頬は真っ赤になっていた。いつも冷たく白かった兄の顔に差した、生気の色。
「俺を信じろよ! そんでそれ以上に、兄上は」
耳元で怒鳴ってやるために、ザントスは兄をもう一方の手で抱き寄せた。
「自分のことを、信じろ! 自信を持て!」
弟の腕の中で、兄の体が大きく震えた。
「……けれど……私は……誰からも……」
泣いている兄の声が、耳のすぐそばで聞こえた。ザントスはそんな兄を抱きしめる。
「大丈夫だって!」
兄の涙が肩に落ちるのを感じながら、言ってやった。
「俺は、兄上のことが好きだよ!」
自分でも驚くほどの大声。
「ずっとずっと、大好きだったよ!」
だって一番年の近い兄弟で。いつでも自分のことを気にかけてくれて。ずっとずっと一緒だった。
やがて、弱々しい呟きが聞こえた。
「ザン……トス……」
兄の残された右腕が、ザントスの体を抱いた。
「兄上、大丈夫だ」
弟は兄の背を、掌で叩いた。何度も、何度も。
「俺がついてる」
ザントスより四才年上のはずの兄は、小さな子供のように、声を放って泣き始めた。
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