第6章

第38話 世界の越境

 キアネスは混乱していた。

 完全に屈したと思っていた娘が、突然剣を手に現れたこと。間違いなく堕ちるだろうと思っていた弟が、やはり剣を手に現れたこと。

 すべてが彼の予想と大きく食い違って進んでいた。


 そして、何よりも、彼は気づいてしまった。

 思い通りにならない、あまりにも自由な弟。自身の感情に正直で、それを表に出すことにためらいのない弟。キアネスはずっと、その異母弟ザントスのことが。

 王位が欲しかったのではない。やがて王位に即くだろう弟のことが。誰もに愛される弟のことが。


 両手で顔を覆った。彼は、感情をあらわにすることが、できなかった。

 岩と石ばかりの荒涼とした大地。そこで彼はただ一人、孤独の中に立ち尽くしていた。


「キアネス殿」

 懐のオストコリナの鏡が話しかけてくる。

「貴殿の言った策に乗った結果がこれだ。随伴者アレシオたちから連絡があった。デイアの先駆けの子カイルド一行は、境界ケントに向かった。境界の中にいる我が国の者は、先駆けの子と采女ウージナだけだ」

 どうしてくれるのだ、と責めてくる。要求してくる。


 キアネスは押し殺した声で答えた。

「私も……境界へ向かう」

 それしかなかった。追いかけるしかなかった。弟に、追いすがるしか。

 何か恐ろしいものが近づいてくるのを感じた。冷たい湿った足音が、聞こえた気がした。


   ◇


聖樹カルフが全然見えないけど、大丈夫なのかよ!?」

 走りながらザントスが叫ぶ。

 既に日は落ちたが、満天の星がロイファたちの道を浮かび上がらせていた。

「大丈夫! 境界さえ越えれば、すぐそこに見えるはずだから!」

 息を弾ませてフィトが答えた。彼は背の翼を羽ばたかせて飛び、まっすぐにロイファとザントスを先導していた。速い。

 ロイファは全力で彼を追いかけていた。


 フィトの白い髪が風に踊っている。背がさらに高くなったように見えた。たくましい背中、腕、脚。出会った頃の彼とは見違えるよう。

 ロイファはフィトを見上げ、熱いものがこみあげるのを感じていた。本当にこの子は、とびきりの男に、なった。


「境界だ! 越えるよ!」

 不安定に岩が積み重なった、まるで門柱のように見える物。それらが点々と横一列に並んだ場所を、三人は駆け抜けた。

 体を押した何かの圧力。厚いカーテンを押しのけるのに似た感覚がほんの一瞬だけあって。

「……あれは……!」

 前方、それまで全く見えなかったはずのものが、突然目に飛び込んできた。


 大地から沸き上がるように立ち上がった巨大な幹。周囲を抱えるのに人が何人必要なのかすら分からない、太いという形容すら当たらない、節くれ立ち、ねじれ、のたうち回っているかのような、それは異形だった。

 仰げば、天を覆うばかりに広がった枝がある。葉はなく、無数に過剰なほどに枝分かれし、上部は雲にまで到達していた。

 そして視界を焼く稲妻、轟く雷鳴、星の光を完全に遮っている暗雲。


「あれが、聖樹……!」

 人の生きる世界ではない場所に、それは天と地をつなぐように立っていた。


「オストコリナの!」

 フィトが一際大きな声を発し、ぐんと空高く舞い上がった。その先にやはり飛ぶ姿、そして真下に少女の姿があった。呪札を掲げる仕草。

「させるか!」

 ロイファは抜刀し駆けた。フィトは自分が護る!


 大きく放った斬撃を、オストの采女は飛びすさって避けた。若い、若すぎる、口を引き結んだ顔だった。

 すかさず呪札が返ってくる。

「天の輝き、地を裂く槍、雷轟!」

 カッと空が光り、次の瞬間雷が降りそそいだ。

 ロイファとザントスはすんでで避けたが、激しく地面が揺れる。


 強力な呪士。それでも、ザントスと二人なら! 彼女たちは同時に采女に肉薄しようとした、しかし。

 背後から迫った殺気に、ロイファは振り向きざまに剣で身を庇った。ドオンと腕に伝わる衝撃。大蛇のように連なった岩がガラガラとその場に崩れた。


 岩の源には、黒髪の男が立っていた。

「キアネス!」

 ザントスが叫んだがいらえはなく、ただ呪札を持った手が伸ばされる。金茶の髪の少年は男へ向かって矢のように走っていく。


 一方ロイファはオストの采女に向き直った。幼さの残る少女が甲高い声を放つ。

「勝利するのは、私を率いる先駆けの子様よ!」

 その言葉にロイファは強い違和感を抱く。そこへ再び雷撃。

「ちっ……!」

 彼女は下がるのではなく前へ駆けた。連続で落ちてくる雷より速く、采女へ接近を試みる。

「曲がり折れる大地! 歪土!」

 相手は早口で一気に土の壁を立ち上がらせた。少女の姿が隠れる。

 ロイファは即座に横へ跳んで壁を回り込んだが、その隙に采女は遠くへ。


 激しい戦いの中で、だがオストの采女の顔は奇妙に蒼白だった。怯えているかのような表情。戦い慣れていないのか、いや。

「采女! 何をやっている!」

 いきなり激しい怒声が降った。弾かれたように少女は上空を仰ぎ見る。

「早く僕を支援しないか!」

「は、はい!」

 少女は悲鳴を上げた。彼女の髪が、ざっと広がる。光の粒子に変じ、舞い散りだす。そして彼女の周囲を包むように、稲光が突き立ち始めた。


 これではロイファは近づけない。しかし限りがある髪ではすぐに呪が途切れるはずだと思ったその時、少女が自分の手首を短刀で切り裂いた。血がバッと流れ出し、地に届くより先に粒子になって消えていく。

「必ず、先駆けの子様を勝利させる! そうしなければ、私は……!」

 少女の言葉は、震えていた。


「お前たちはおかしい!」

 衝動的にロイファは怒鳴った。

 オストコリナの一行は、先駆けの子によって支配されていた。でもそんな関係は、おかしい。

「あたしたちは……」

 ロイファとフィトは「母子」であり、ロイファとザントスは「仲間」だった。

 彼女は剣を掲げた。

「勝つのは、だ!」

 びくっとオストの采女が大きく震えて、一瞬稲妻の柵が途切れる。そこへ向けてロイファは駆けた。

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