第35話 痛みと決断

「やめろ!!」

 男に激しく突き飛ばされ、ロイファは床に倒れた。

「やめろ、そんなことは!」

 彼女は倒れ伏したまま、のろのろと視線だけを上げた。飛びのいたらしい男は、暗がりの中でまったく表情が分からない。

「お前まで……」

 ロイファは呆けたように呟いた。

「あたしを拒絶するのか……」


 どうすればいいのだろう、自分は。もう、あと他にできることは。

 救いを求めてさまよわせた視線が、何か光る物を見つけた。金属の輝き。

 彼女の剣だった。

 彼女の人生の象徴。かつては憎悪の対象でもあった物。けれど彼女が、ただそれだけを頼りに生きてきた、生きてこざるをえなかった、モノ。


 ロイファは緩慢に身を起こし、手と足を使って這っていった。そして剣を取り、右手で柄を、左手で鞘を持って、抜き放ち。


「ロイファっ!」

 強い力が彼女の右腕を拘束した。

「……放せ……!」

 力の限りもがいたが、相手の力が強すぎた。あっという間に彼女は後ろから抱きすくめられた。相手の腕が彼女のむき出しの胸に回されていた。


「やめてくれ、ロイファ……」

 耳元で聞こえた男――少年――ザントスの声が震えているのに、ロイファは突然気づいた。腕の力と真逆の、弱々しい声だった。

 驚きに彼女の体から力が抜けた、途端にさらにきつく抱きしめられる。

「俺は……」

 ザントスが続ける。

「俺にとって……お前は大事なんだ……だからそんな真似は、やめてくれ……」

 泣き出しそうにさえ聞こえた。

「俺にとってだけじゃない、フィトにとってだって、お前は大事なんだ……俺たちにとって、お前はとんでもなく大事なんだよ……!」


「嘘だ……」

 ザントスの言っていることなんて、信じられなかった。

「フィトだって、お前だって……あたしを拒絶したじゃないか……」


「それは! お前が大事だからだ!」

 彼女の体を締めつける力が、さらに強くなった。

「俺たちはお前のことが好きなんだ! 好きなんだよ!」

 意味が分からなかった。

「何を……言って……」

 ロイファは呟く。

「フィトは……あたしのことを……嫌って……だから、一人で……」

「違う! 俺は――!」

 ザントスの熱い息が彼女の耳にかかる。

「――俺は、お前のことが好きだ!」

 身震いするほど熱かった。

「だから分かる、フィトもお前のことが好きだ!」


「だったら、どうしてあの子は、あたしを……置いて……」

 分からない。信じられない。

 彼女の目から涙があふれ出す。

「あたしは、あの子を……育てたくて……あの子の将来を、見たくて……」

 素晴らしい剣士になるに違いない、彼女の「子供」。

「あの子は……あたしの……理想の……剣士に……」


 だがザントスが彼女を揺さぶった。

「駄目だロイファ! あいつに自分の願いを、押しつけるな!」

 ぐっと彼女の息が詰まった。

「押しつけて……なんて……」

「フィトは、一方的に押しつけてくるお前が嫌なんだ! あいつを、縛るな!」

「縛って、な……」

 切れ切れにロイファは反駁はんばくするが、

「じゃああいつの、あいつ自身の望みを、聞いてやれ!」

 あの子の望み? そんなの「母」の自分は全部承知している。

「でもあの子の望みは、あの子のために、なら、ない、だから……」

「そんなのあいつが自分で決めることだ!」


 自分で決める。

 その言葉が、ロイファの脳裏を矢のように貫いた。


 彼女が小さな子供だった時。孤児院に見知らぬ男たちがやって来た。彼らは他の子供たちや彼女を無遠慮な目で眺め回し、それから孤児院の大人たちと何か話していた。重そうな小袋が男たちから孤児院の者に渡されるのを、彼女は見た。

 そしてロイファはいきなり手を掴まれた。そのままどこかへ、男たちは彼女を連れて行こうとした。

「なっ、何するのっ……!」

 小さな彼女は抵抗しようとした。だが相手の力が強すぎて、まったく抵抗にならなかった。彼女を引きずる男が、ちらりと彼女を見下ろし言った。

「お前はこれから、戦士団に行くんだ。そこで剣士になるんだ」

「そっ、そんな、勝手に決めないでっ……!」

 だが男はもう彼女を見もしなかった。

「お前に自分のことを決める権利は、ない」


 思い出した。自分の運命を自分でない者に勝手に決められたことを、思い出した。

 彼女の意志が、望みが、完全に無視されたこと。誰にも聞いてもらえなかったこと。

 彼女は望んで剣士になったわけでは、ない。

 では、あの子は? あの子の意志は、望みは?

 ――あの子に、自分で決めさせる?


 ロイファは震えだした。体がどうしようもなく、冬の極寒にさらされたように震えて、止まらない。

 あの子は将来、すばらしい剣士になれるのに。なるのに。

 しかし彼女も繰り返し言われた。「お前ならいい剣士になれる」と。でも彼女は、ちっともうれしくなかった。嫌だった。

 彼女の意志が、無視された結果だったから。


「フィト……」

 ロイファは理解した。理解してしまった。なぜ、自分が拒絶されたのかを。彼女は頭を両手で鷲掴み、かきむしる。

 あの子の意志、彼女の「子供」の意志、それは――。

「あいつを全部、受け入れてやれ!」

 声がした。あの子の望みを受け入れる。あの子の望みを叶えるのを助ける。

 たとえそれが、彼女の願いに反していたとしても。


「フィト……」

 彼女の目の前に、あの子の顔が浮かんだ。明るくて、無邪気で、彼女を信じきった、彼女の「子供」の笑顔。

 あの笑顔を、もう一度見たい。そのために自分ができること。

 あの子に、会いたい。


 采女ウージナにして「母」である、ロイファはゆっくりと顔を上げた。

「……行こう」

 口を開いて、言った。血を吐くような気持ちだったが、それでも言った。

「フィトを、助けに行こう。追いかけよう!」


「……よし!」

 ザントスが彼女を放し立ち上がった。ロイファも立ち上がり、彼に向かい合う。

 差し込む光の中で少年の顔は紅潮していた。彼女も頬の熱さを感じていた。

「ありがとう、ザントス」

「……礼も何もかも、後だ後!」

 少年が投げてきた自分の服を受け止めて、ロイファは笑った。

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