第34話 絶望と裸体

 フィトは一人きりで歩いていた。足早に、前だけを見つめて。

 けっして後ろは振り返らないと決めていた。振り返ったら最後、戻りたい気持ちが抑えきれなくなると分かっていたから。


「ロイファの、馬鹿……っ……」

 呟いても、耳にする者はいない。それがひどく彼にとって悲しい。先駆けの子カイルドは、本当は一人で旅をするようにはなっていないのだ。必ず付きそう采女ウージナ随伴者アレシオ、彼らと共に、旅をするべきなのに。

 ザントスがロイファのそばに残ったことに、フィトは複雑な感情を抱いていた。残り一人となった随伴者までもが彼に従うことをやめた、失望。そして、今までにないくらい弱くなっているロイファを守る者がいる、安心。実際ザントスが残っていなかったら、フィトはもうとっくに引き返してしまっていたかもしれない。


 それほどまでに、采女ロイファは先駆けの子フィトにとって大事な存在だった。どうしようもなく、慕わしい。そしてだからこそ、

「ロイファの……馬鹿……ぁ……」

 彼女に自分を否定されたことが、どうしようもなくつらかった。

 ぐいと彼は拳で目をぬぐった。風が冷たくて、目に染みた。


 急がなければいけない。かなりのおくれを取ってしまっている。本来のあるべき旅程なら、明るいうちに境界ケントを越えるはずだったのだ。

 フィトは前方に目を凝らしたが、彼の求める聖樹カルフの姿は影も形もなく、ただ空と岩と石しかない荒れた景色が広がるだけだった。

 人の世界との境界を越えなければ、聖樹を見ることはできない。それを知っている彼の中で焦りがつのる。


 そして一つの不安。自分の行うべき旅の全てを生まれ落ちた瞬間から知っていた、彼でさえ分からないこと。

 采女たちを伴わない先駆けの子が、境界を越えることは、できるのか――?

 フィトは強く頭を振り、無理に弱気を振り払った。ともかく前へ進まなければ。前へ。前へ。

 しかし気持ちはどうしても背後、後方に引かれる。ロイファはどうしているのだろう。浮かぶ自分の思念に、彼は苛つく。

 前へ、聖樹へ、聖女マトゥナのもとへ。けれど、ロイファは。


 そんな心が千々に乱れた状態だったフィトは、だから気づくのが遅れた。

 鋭く飛来した石弾が避けきれなかった彼の頬を裂く。ぱっと鼻をつく、自身の血の臭い。

 彼は横に跳んで抜刀し、続く石弾を弾いた。すばやく四方を見た目に五人の人影が飛び込んできた。


「本当に一人だ。なんて愚かなデイアの兄弟!」

「オストの兄弟!」

 先駆けの子と、采女と、三人の随伴者。完璧にそろった旅の一行だった。自分との明らかな差――湧き起こった悔しさと妬ましさに、フィトは思わず歯を食いしばる。


「これなら僕が相手をする必要もないな」

 対して、勝ち誇った表情でオストコリナの先駆けの子は言い放った。

「よし、僕と采女は先に行く。お前たちでこいつを足止めしろ」

「そ、それは、私たちだけでは――」

 随伴者の一人が焦ったように口走ったが、

「人間ごときが、僕に口答えする気か!」

 怒りも露わな声に、言い出した者は青ざめて押し黙った。


「ま、待てっ!」

 フィトは叫んで踏み出したが、随伴者たちが彼を取り囲んだ。三人がかりでく手を阻まれる。

「そこで君がもたもたしているうちに、僕が聖樹へ、聖女のもとへ至る。じゃあご機嫌よう、兄弟!」

 オストの兄弟は采女を従え、フィトに背を向ける。同時に随伴者たちが動いた。


「はあっ!」

「せっ!」

 剣の二人がフィトに肉薄する。フィトは即座に剣を振り上げ右からの突きを弾き、頭上でもう一人の剣を受け止めた。

 ギシ、相手の腕力にフィトの剣がきしむ。弾いた剣はすぐに返され、がら空きのフィトの胴へ迫る。たまらず、フィトは無理に左へ体をひねった。ザッとマントが切り裂かれる。

 そして頭上の剣が突然外され、フィトはたたらを踏む。その隙に突きにのどを狙われ、かろうじて身を沈めた。髪が切られる感覚。

 立つと同時に彼は大きく後ろに逃げようとしたが、足に石弾が突き刺さった。

「つっ……!」

 声を漏らしながら転倒した。ぎりぎりで身を転がし、上から迫る剣から逃れる。


 やっと起き上がった時には、相対する三人は目を見交わしていた。

「先駆けの子がこんなに弱いなんて……」

「我らの先駆けの子様とは大違いだ」

「このデイアの子供が特別弱いのか?」


 フィトは必死に剣を構えた。その心に、ひたひたと忍び寄ってくるものがあった。

 一人きりの先駆けの子。

 采女に否定された先駆けの子。

 そんなものは、もう、先駆けの子ではない……?

 恐ろしい絶望が、フィトの心をおかそうとしていた。


   ◇


 フィトを生き延びさせるために、自分ができること。

 ロイファの頭は打ち鳴らされる鐘の中に入れられたように、ガンガンと何かが一杯に反響していた。その痛みに彼女は両手で耳を押さえた。だが殴りつけるような反響は止まらない。


 あの子の赤い瞳が目に浮かぶ。彼女を拒絶する瞳。涙の浮かんだ瞳。

「フィ……ト……」

 自分が呟いた声もロイファの耳には届かない。代わりに聞こえたのはあの子の声。

「こんな狂った采女なんて!」

 狂った。狂っている。自分は狂っているのか?

 激しい目眩に彼女は立っていられなくなり、ずるりと壁に沿って崩れた。


 あの子の白い髪、血の気のない白い肌。折れそうなほど細い手足。何もかもが貧弱な体。だから自分はあの子を護りたくて。あの子を育てたくて。なのに、なのに。

 彼女を拒絶する赤い瞳。

 あの子は自分の「子供」なのに。あの子を育て上げることが、自分の望みなのに。


 ……絶対に、あの子を死なせるのは、嫌だ。

 あの子を死なせないために、自分にできること。それは――。


 ロイファはゆらりと動いた。閉じていた目を開くと、暗がりに差し込む光を受けて少年――男が自分を見ていた。

 彼女は膝立ちになり、上衣に手をかけた。男の口が開いたが、その声は聞こえない。彼女は上衣の胸元を留める紐をシュルリと解く。解放感。そう――このまま。一気に上衣を脱ぎ捨て、脇に投げ捨てる。

 そしてもう一枚。男の口がまた開いたが、彼女は構わず脱ぎ捨てた。乳房が冷たい空気に触れ、揺れた。


 男が彼女のむき出しの乳房を凝視しているのを、はっきりと感じた。

 ロイファは下から男を見上げていた。男の体が反応している。だが離れた場所で、男は動かない。

 だから彼女は膝立ちのまま、男ににじり寄っていった。腕を広げ、相手を抱擁しようとするかのように。

 あの子を抱擁しようとするかのように。

 すべてはあの子のために。


 彼女は男の所までたどり着き、しかし男はまだ微動だにしない。だから彼女は手を伸ばし、男のズボンを緩め、そして下着を。


   ◇


 キアネスは待っていた。屋外はいよいよ沈もうとする太陽の光で長い影が生じていた。彼の影が、小屋の戸口を塞いでいた。

 彼は待っているだけでいい。そうすれば采女は狂い、弟は破滅する。そしてキアネスは、望みのものを手に入れる。


「堕ちろ……」

 冷静な顔の装いを保ったまま、だが知らずキアネスは呟く。

「堕ちてこい……!」

 小屋の中の光景を、弟の姿を見透すように、暗い目を細く細くした。

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