第33話 歌う声
フィトが出ていってしまってからも、ロイファは小屋の隅にうずくまっていた。開いたままの戸口から差し込む光も、明らかに夕焼けの色に移り変わっていた。
「……ロイファ、元気を、出せよ」
ザントスに呼びかけられるのも、もう何度目だろう。金茶の髪の少年は戸口近く、彼女から離れた場所に座っていた。ずっと彼女のことを曇った表情で見ている。
ロイファは弱く首を横に振った。抱えた膝をさらに身に引き寄せる。
「……フィトが……戻ってくれば……」
小さなため息が聞こえた。
「たぶん戻ってこないよ……あいつは。俺たちが追いかけるしかない」
彼女は膝頭に額を押しつけた。閉じた目に、「子供」の顔が浮かんだ。蒼白な顔。彼女を拒絶する顔。
「嫌だ……」
「ロイファ」
下を向いたまま、ロイファは言いつのる。
「あの子が、一人で旅なんかできるはずがない……だからきっと、戻ってくる……」
「……一人じゃ無理だろうと、何だろうと、フィトは戻ってこない」
「どうして分かる……!」
ザントスにあの子の何が分かるというのか。あの子は、自分の「子供」だ、あの子のことを一番分かっているのは、自分だ……!
「だって――」
ザントスは何か言いかけて、突然口をつぐんだ。それを不審に思ったロイファも次の瞬間気づく。
小屋の外で音がしていた。あれは、硬質の物が擦れる音――鎧の音。複数。
剣士としての本能が彼女の顔を跳ね上げさせ、身を起こさせる。ザントスは既に片膝立ち、剣に手をやっていた。
開け放っていた戸口の向こう、夕日を背にして黒々とした人影が立っていた。風になびく長い黒髪。
「キアネス……!」
ザントスが低くうなった。
キアネスの左右には鎧の兵士たちが並んでいた。彼が手を挙げると、兵士の一人が弓を構えた。その矢先に、火が灯っている。
あっと思う間もなく火矢が戸口から射かけられてきた。続けて二本、三本。一本が敷かれたままだった布に燃え移った。
「ちっ!」
立ったザントスが火を踏み消す。矢に巻き付けられた油布からもうもうと黒煙が上がり、ロイファは咳き込んだ。
「
ザントスが怒鳴ったのには冷ややかな声が返ってきた。
「先駆けの子がそこにいれば、な」
「……ち……くしょう……」
ザントスが歯がみして、ロイファも遅れてキアネスの言わんとすることを理解した。
今ここに先駆けの子はいない。いるのは
すっとロイファの顔から血の気が引いていった。
兵は何人だ? ザントスと二人で倒しきれるか? 戸口まで進んで確認しようとして、そこへすかさず火矢が続けて来る。立ちこめる黒煙。
「くそっ!」
ザントスがマントを振ってまとめて消そうとしているが、火矢が飛び込んでくるほうが速い。開口部の少ない石造りの小屋に、煙が充満し始めた。
「ぐっ、げほっ!」
このままでは煙で息が詰まって動けなくなる。無理にでも戸口から出ていくしかない! 涙のにじむ目で二人視線を交わし合った、そこへ詠唱が聞こえた。
「まずいっ……!?」
反射的に飛び出そうとしたのは間に合わなかった。
出口のすぐ外の地面からいきなり土の壁が立ち上がった。完全にふさがれ、小屋の中が急に暗くなる。
「この野郎!」
ザントスが拳で土壁を殴りつけるが、びくともしない。と、急にぽつんと小さく光が差し込んだ。
「うわっ!」
身をひねるザントスをかすめるように、また火矢が飛び込んできた。土壁に開けられた小さな穴からさらに火のついた
「げ、ほ……ごほっ!」
もう煙の出る先は、屋根に一つ開いている煙突代わりの狭い穴しかない。このままでは、間違いなく。
「いぶし殺すつもりかっ! 卑怯者っ!」
咳の合間からザントスが怒鳴る。キアネスの歌うような声が応えた。
「死にたくないか? 死にたくないのだろうなぁ?」
「馬鹿にしやがって!」
ザントスが蹴りとばしても土壁は揺らぎもしない。ロイファは息が苦しくなってきて、小屋の壁に背をつけた。
「生きたいか? 生き延びたいか?」
声はまだ続いている。
「だがロイファよ、生き延びてお前はどうする?」
どうするって? 生き延びたら、それは――。
彼女の思考をキアネスの声が遮った。
「先駆けの子の死んだ世界で、お前は生きるのか?」
ハッとした。
剣士の本能に支配されていた体から、急激に力が抜けていった。膝が、がくがくと震え出した。
一瞬忘れることができていた、彼女の中の絶望が、むっくりと首をもたげる。
ザントスが何か叫んでいる。だがロイファの耳に入るのは、外の歌うような男の声だけになっていった。
「このままだと、あの先駆けの子は死ぬぞ?」
そう、死んでしまうのだ、ロイファのフィトは。煙のせいではなく目に涙が浮かび始める。
「お前が何もしなければ、あの子供は必ず死ぬぞ?」
嫌だ――そんなのは嫌だ!
「お前は考えるのだろう? あの子供を生かすために、お前に何ができるのか」
あの子のために。ロイファの愛する、あの子を生き延びさせるために。
自分に何かできるなら教えてくれ!
叫びそうになったロイファより先に、歌う声は続けた。
「お前にもできることがある」
彼女は息を飲み、耳を澄ませる。まだ何か叫んでいた少年が、突然黙った。
「そこに男がいるだろう?」
男? ロイファは目を動かした。男――この少年? 暗がりの中で、少年もロイファの方へ振り向いているようだった。
「お前が、采女の資格を捨てればいい」
奇妙な静けさの中で外の声が告げる。
「簡単なことだ、お前が、処女を捨てればいい」
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