第32話 孤独と目眩

 周囲に溶け込み、中に潜む者を隠す霧。呪術の心得のある人間なら呪の気配に気づくだろうが、そうでない者にはただ舞い飛ぶ水分が光を反射しているようにしか見えない。

 その霧をまとってキアネスは一人、小屋の動きを見つめていた。オストコリナ側にはしる前に、手土産になるような事が必要だった。そしてそれは起こるはずだった。


 まんまと彼に裏切られた三人は、半日以上小屋から離れようとしなかった。キアネスの予想通り、ロイファが動けなくなっているのだろう。

 キアネスは旅の荷を持ち出せていなかった。食物も水もない。飲まず食わずのまま、じっと、小屋を見つめていた。彼はただ待っていた。待っているだけで、いいはずだった。

 裏切られた三人が彼を探しに来る様子は、まったくなかった。


 鳥の声も動物の声もない。草も木も生えていない、岩と石だらけの地。一人たたずむキアネスに触れるのは冷たい風だけ。

 慣れ親しんだ孤独に還っただけだ。まったく以前と同じ。異母弟と、異母弟と共にいる女のことを見つめているだけ。彼はくらりと目眩を感じた。

 キアネスの体力を奪っているのは、きっと吹き渡る風だろう。マントを身に巻きつける。だが暖かくはならなかった。歯を食いしばる。


 目の前に金茶の光が踊った。いや、目の錯覚だ。彼の作った霧が、日の光を反射しているだけだ。

 けれど光はやがて、幼い少年の姿を形作っていった。そしてその隣に、やはり幼い金髪の少女の姿も。

「嫌だ」

 幼い少年は口を尖らせて言った。キアネスは説話の本を手に困惑する。

「お前たちのために選んだ本なんだぞ」

 言い聞かせようとしたが、少女も首を横に振る。

「キアネス様のご本は、挿し絵がなくて、あまり面白くないです……」


 二人より年上とは言えまだ小さい少年だったキアネスは、完全な拒否を受けて胸がぎゅっと痛んた。それでも懸命に言い張った。

「そう言わずに、一緒に読むんだ!」

 王城の図書室を探し回って見つけた本。仲の良い三人の兄と弟と妹が、助け合って国を治める説話。それを最初に読んだ時、キアネスは飛び上がるほどうれしかったのに。


「こんなに天気がいいのに、つまらない本を読むなんて嫌だ!」

 幼い少年は立ち上がってしまった。どうしてこの弟は、こんなにわがままで――自分の感情をまっすぐに表現するのだろう。キアネスには理解できない。

「ねえメル、遊びに行こう! 何したい?」

「私、鬼ごっこがいいです!」

「待っ……」

 キアネスは手を伸ばしたが、

「じゃあメルが鬼!」

「きゃあ!」

 幼い二人は笑いながら、駆けていってしまった。キアネスの手は何も掴めなかった。


 もう一方の手から本が音を立てて落ちた。キアネスが立ち尽くしたままでいると、やがて侍女がやってきて屈み、本を拾おうとした。彼はハッとして、冷静な顔を作る。

 感情を表に出すなんて、してはならないことだ。他人に付け入る隙を与えてはならない。妾腹の王子という不安定な立場の彼は、なおさら。


 なのにどうして、同じ妾腹の王子である弟は、あんなに感情を露わにしているのだろう。いずれ弟は他人に足をすくわれる、自分がそれを救ってやらねばならない。

 そんな決意を、小さな頃のキアネスは心の中に持っていたのに――。

 どうして弟はすべてにおいて恵まれ、自分はすべてにおいてないがしろにされる?


 またキアネスの視界がぐらりと揺れた。

 不意に絶叫が耳を打った。

「嫌だ!」

 嫌? 何が嫌なんだ?

「嫌なんだ、絶対に嫌だ!」

 拒絶。拒絶。拒絶。キアネスを? キアネスが?

 やはり彼は拒絶されるのか。ならば彼は拒絶するのか。

 何が。何を。すべてが。すべてを。世界が。世界を。

 嫌だ……嫌だ、嫌だ! 彼は両手で頭を鷲掴み、叫ぼうと口を大きく開く。


 しかしその時、異質なモノが視界に飛び込んだ。

 異物はキアネスの幻想にヒビを入れ、微塵みじんに打ち破った。

 ハッと彼は顔を上げた。小屋から先駆けの子カイルドが出てきていた。背には荷袋。続けて弟の姿も現れる。

 二人は言い争っているようだった。切れ切れに聞こえる声。現実にキアネスの耳に入る声、目に入る姿。


 やがて先駆けの子は再び歩き始めた。しかし弟はその場に留まった。弟はしばらく立ったままでいたが、やがてきびすを返した。小屋へ入り、そのまま出てこない。

 先駆けの子が一人になった。采女ウージナ随伴者アレシオが後に残った。

 キアネスが待っていた事が起こった。


 一つ呼吸をし、キアネスは懐から鏡を取り出した。オストコリナから送られてきた、連絡を取るための道具。彼の裏切りのあかし。

 彼は詠唱を始めた。

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