第5章
第31話 決裂と別離
「ロイファ、寒い? 僕のマントも羽織る?」
膝を抱え座っている
太陽はとっくに南中を過ぎ、傾き始めていた。彼らはその日、出発できずにいた。
ロイファは小さく首を横に振ったが、フィトはやはり自分のマントを彼女に掛けた。と、腕が伸びてきて、彼の手に触れる。
「大丈夫だよ」
彼は采女の手をしっかりと握った。
「もうあの裏切り者に酷いことはさせない!」
彼女の唇が、ほんのかすかに微笑んだ。
「俺とフィトが守ってやるからな! あの野郎、今度会ったらぶっ殺してやる!」
ザントスも気炎を吐いていた。
「ちょっとは食べたほうがいいよ、ほら、パン。干し肉のほうがいい? 干し果物は?」
朝からまったく食物を摂っていない采女が心配で、フィトは持っているだけの保存食を並べていった。温かい物が用意できればいいのだが、呪士がいなくなったため火がない。
ロイファは置かれた食べ物に手を出そうとしない。それでも彼は干し果物を取って、彼女の口元に差し出した。
「ほら、食べよう? ロイファ」
ほんの少しだけ唇が開いた。そこへフィトは果物を滑り込ませる。
彼女の歯がかじる感触が指に伝わってきて、彼はにっこり笑った。ロイファの目元も笑みの形を取る。
そうやって時間をかけて少しずつ、フィトは彼女に食事をさせた。ようやくある程度の量をロイファが食べて、彼は安堵の息を吐いた。寄り添って座り直す。
「よかった。これですぐ元気になるよ!」
顔をのぞき込むとまだ采女の表情は硬い。無理もない、あんなに酷い裏切りを受けたのだから。
キアネスの裏切りの意図をどうして自分は見抜けなかったのか。フィトは自責の念で唇を噛む。
「ごめんね、ロイファ。僕があんなやつを
彼女は首を横に振る。
「フィトのせいじゃない……」
采女のやさしさがうれしくて、彼は彼女の手をぎゅっと握った。
「もう大丈夫だよ、だから」
フィトは笑顔で言った。
「一緒に頑張って
◇
ぎくりとロイファは身を震わせた。目の前の先駆けの子は満面の笑顔だ。自分の進む道を、未来を、疑っていない笑顔。消滅して――死んでしまう未来を。
「嫌だ!」
ロイファは叫んだ。とたんに先駆けの子の顔も強ばる。赤い瞳が動揺を示して激しく揺れた。
「……どうして、そんなこと言うの」
困惑の色もあらわな声に、ロイファは余計に悲しくなる。
「嫌なんだ……絶対に嫌だ!」
「どうして、ロイファは僕の采女なのに」
采女、そんな役割で呼ばれるのは苦痛だった。
「……采女だの、先駆けの子だの、そんなものが何だって言うんだ! くだらない……!」
フィトが息を飲んだ気配があった。直後に彼は大きな声で叫ぶ。
「僕は先駆けの子だ! それを
「違う……!」
言葉が出てこない。何と言えば伝わるのか分からない。
「お前はおとぎ話の先駆けの子なんかじゃない、そうじゃなくて……!」
あたしの大事な「子供」だ、そう言おうとする前に彼がロイファから飛びのいた。
「ロイファ……一体、何を……言ってるの……」
彼の顔からは完全に血の気が失せていた。出会った頃のような、生き物でないような真っ白な肌の色。
「僕を、先駆けの子を、否定するの……?」
「違う、お前は! 先駆けの子じゃ! なくて!」
フィトは跳ねるように立ち上がり、ロイファから顔を背けた。体ごと背を向けた。
「聞いてくれ、フィト!」
「嫌だ!」
彼女の方を向かぬまま、先駆けの子は拒絶する。
「こんな……狂った……狂った采女なんて……!」
狂った? 自分は狂っているのか? いや狂っているのは先駆けの子ではないのか? 先駆けの子を取り巻くすべて、それを決めた天ではないのか? もうロイファには分からない。
「こんなの……僕の、ロイファじゃない……!」
泣き声に聞こえたのは、彼女の錯覚なのだろうか。
そして先駆けの子は荷物をまとめ出した。
「ちょっ、待てよフィト!」
ザントスが慌てたように話しかけるが、手を少しも止めない。
「待たない! 僕は……行く!」
「行くって、無茶だろ!?」
だが子供はあっという間に出立の準備を整えてしまった。そのまま駆けるように戸口から出ていく。ザントスも後を追っていった。
ロイファは一人、石造りの冷たい小屋の隅に、残された。
◇
後ろから追いかけるザントスに構う様子もなく、子供は荷袋を背に足早に歩いていく。
「フィト!」
「僕は行くんだ! 聖樹へ、聖女の所へ!」
仕方なくザントスは子供の肩を掴む。
「ロイファを置いていく気か! お前の選んだ采女だろう!」
しかし子供はひどく乱暴に彼の手を振り払った。
「もうロイファのことなんて知らない!」
フィトは前だけを見て歩いている。しかしザントスから見ても分かるぐらい、瞳に涙がにじんでいた。
「彼女を采女に選定した、僕が間違ってたんだ!」
「フィト!」
思わずもう一度、子供の肩を掴んで力一杯引き寄せた。
それでやっとフィトは立ち止まった。けれどまだ、振り返らない。
「あれだけ強い女は他にいない! あいつ以上に采女にふさわしい女なんていなかった!」
ザントスは怒鳴った。子供は激しく首を横に振る。
「強いもんか!」
子供の頬に、とうとう涙が転がった。
「あんな、訳の分からない、無茶苦茶なことを言い出す、そんなの僕の采女じゃない!」
駄々をこねるように、白い髪の子供は何度も拳で目と頬をぬぐう。だが涙が止まる気配はなかった。
「僕を、僕のことを、あんな……否定……し……僕は……先駆けの子……!」
子供の口から
そのまま二人は立ち尽くし、その場には悲しい泣き声だけが響いた。
長い間黙って、子供が泣き止むのを待って。それからザントスはぽつりと言った。
「……なあ、フィト。ロイファは――」
子供の肩がまた震えるのが見えたが、ザントスはあえて続ける。
「あいつはな、お前に執着してる。執着しすぎてるんだ」
「だから、何……!」
今のロイファとそっくりな人物を、ザントスはよく知っていた。身近すぎるぐらい身近に、ずっといた。
「ロイファはたぶん、理想のお前――お前との関係があるんだ」
執着が強すぎるがゆえに、想いが強すぎるがゆえに、実際の事実が受け入れられない。黒髪の兄が金の髪の幼なじみに嫌われていった経緯を、ザントスは苦く思い出す。
「先駆けの子……人ならぬ者を、ロイファは受け入れられてない」
ザントスにしても、フィトのことをすべて受け入れられているわけではない。だが、ザントスとフィトの距離は遠かった。だからこそ上手くやっていける。
それに対して、ロイファとフィトは、あるいは兄と幼馴染みの少女は、一方的に距離が近すぎた。
先駆けの子はただ首を横に振る。
「分からない、分からないよ……!」
生まれ落ちてからいくらも経っていない子供は、理解するのを拒否していた。無理もなかった。
「僕は……行く! ロイファとは、一緒に行かない!」
そのままフィトは歩き出そうとする。
「だけど、ロイファを置いてなんか行けないだろ!」
ザントスが言っても、
「でも僕は行くんだ……っ……!」
「フィト!」
あくまで振り返らずに、子供は道を先へ進んでいってしまう。
ザントスは一瞬迷った。随伴者としては先駆けの子に従うべきだ。けれど彼自身が一緒にいたいと、距離を縮めたいと願っている相手は――ロイファだった。
結局彼は、立ち止まる。
先駆けの子がただ一人で旅を再開するのを、ザントスはただ見送った。
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