第30話 望みと資格

 探すために呪術を使う必要があるかとキアネスは考えていたが、そうするまでもなくロイファの姿はすぐに見つかった。

 小屋から大きく右に回り込んだ場所、岩が小高く積み上がった陰に、赤毛の娘は座り込んでいた。


 抱えた膝の間に顔を埋め、肩を震わせている様子は、ひどく女々しかった。この娘らしくないという感想が、ちらりとキアネスの頭をよぎった。

「ロイファ」

 声をかけながら近づく。びくりと彼女の肩が揺れたが、逃げようとはしなかった。その横に彼は腰を下ろす。


「それほどにつらいのか、あの子供が消滅するのが」

 返答はない。だがすすり泣きをこらえている気配がはっきりとあった。

 風が吹いていた。荒涼とした岩場の上を、キアネスたちがいる場所から小屋へ向かって。

 彼はその風が止むのを待ってから、再び口を開いた。

「あの子供を、生き長らえさせたいのか」

 この問いには反応があった。彼女はわずかに顔を上げ、うなずいた。

「そうして、お前はどうしたいんだ。あの子供を生き延びさせて、それから」


 しばらく沈黙があった。それからかすかな声が聞こえた。

「……あの子を、育てるんだ……」

 彼女の肩は、まだ震えていた。

「あの子を、すばらしい剣士に、あたしが育てるんだ……」

 その返答にキアネスは苛立ちを感じ、しかしそれを表に出さないよう注意深く声音を選びながら、言葉を続けた。

「だがな、あの子供は先駆けの子カイルドだ。聖女マトゥナのもとへ、自らの死へ向かうことしか考えていない」

 鋭く息を吸う音。彼女の頭がまた膝に押しつけられる。


「先駆けの子は、人とは違うことわりで動いている。あの子供を翻意させることは、できないだろう」

「そんな……」

 本当にか細い声。動揺を形にしたような声。

 また風が吹いてきたので、キアネスは待った。風が逆向きになり、彼らの声が万が一にも小屋へ届かなくなるのを待った。

 そして、彼は懐に入れた左手で呪札をつかむ。


「だから、お前次第だ」

 赤毛の娘はぴくりと動いた。そろそろと顔が上がり、キアネスの方を窺ってくる。涙でいっぱいの茶色い瞳。赤くなった鼻。青く震えている唇。まったく美しくない顔だった。反吐が出るような、醜さ。

「お前次第だ」

 キアネスはゆっくり繰り返した。

「先駆けの子が自ら望みを放棄しないのなら、采女ウージナであるお前が阻むしかない」

「それって……」

 わずかな希望に取りすがる声。

「どうすればいいんだ……? あたしは、どうすれば……」


 キアネスは一つ息を吸った。

「簡単なことだ」

 そして一気に身を起こし、右腕で娘を地面に押し倒した。同時に左手の呪札を掲げ、詠唱する。

「堅固たる岩根、強靱なる結晶、石軛」


   ◇


 瞬間、何をされたのか全く分からなかった。ロイファが反応できない間に、彼女の四肢と首、腰を固い感触ががっしりと取り巻く。

 もう、彼女は体を動かせなくなっていた。


「な……!」

「おっと」

 さらに詠唱が続き、彼女の口に猿ぐつわを噛ませるように石が入り込む。

「ぐっ……!」

 反射的に拘束を解こうともがく。だが続いたキアネスの言葉に、彼女はぴたりと動きを止めた。

「あの子供が死へと向かうのを、止めたいのだろう?」


 キアネスが彼女の上に覆い被さってくる。彼の流れるような黒髪が、彼女の頬に触れる。

「簡単なことだ、お前が、采女の資格を失えばいい」

 何を? どうしようと言うのだ?

 混乱に支配され、ロイファは唯一動く目で、食い入るようにキアネスを凝視する。しかし彼の黒い瞳はロイファを見ていなかった。


 彼の手で何かが光った。短刀。

 身をすくめたロイファに、しかしそれは直接振り下ろされなかった。鋭い刃が切り裂いたのは、彼女の鎧の継ぎ目。

 革の胸当てが払いのけられ、解放されて大きく膨らんだロイファの胸を、キアネスが鷲掴みにした。そのまま短刀が彼女の服を一息に切り裂く。

「……!」

 石の拘束の中でロイファは跳ねた。キアネスの手で乳房が外気にさらされる。


 彼女はまたもがこうとしたが、

「あの子供を、死なせたくないのだろう?」

 キアネスの声が耳の中で、頭の中で響いて動けなくなる。

「分からないのか? 先駆けの子には必ず采女が必要だ。采女を失った先駆けの子は聖女を目指す資格を失う」

 キアネスの顔が彼女に迫った。吐息が彼女の頬にかかる。熱い。寒い。熱い――!


 男が何をしようとしているのか既にロイファは悟っていた。

 キアネスの手が彼女のズボンにかかる。

「お前が采女の資格を捨てれば、あの子供は死なずに済む」

 黒い瞳が、ロイファの目をのぞきこんだ。冷たい、ぞっとするような瞳。

「お前は、何を望むのだ?」

 何を。何を。

 男の手が彼女のむき出された足にかかった。足の拘束が外れ、そして。


「ロイファ――――っ!」

 突然フィトの叫び声が聞こえた。

 ハッとロイファが我に返るのと、キアネスが彼女の上から飛びのくのが同時だった。

「てめえーっ!」

 ザントスの絶叫。剣が鞘走る音。キアネスが詠唱し、濃霧が立ちこめる。

「出てきやがれ! キアネス!」

 怒号に高らかな笑い声が重なった。

「兄を呼び捨てか、ザントス!」

「てめえなんか兄上でも何でもねえ!」


「ロイファ、大丈夫、ロイファ」

 フィトの声が霧の中から聞こえ、彼女の体に暖かい何かが掛けられた。フィトの上着?

「どこだ! 卑怯だぞ、出てこい!」

「卑怯? それはお前のことだろう!」

 キアネスの声は、反響しているかのように四方八方から聞こえた。

「俺のどこが卑怯だって!?」

「その、まったく無自覚なところがだ!」

「訳分かんねえ! ぶった斬ってやる!」

「できるものならやってみろ!」

 再び笑い声。


「この……裏切り者!」

 フィトが甲高い怒声を上げた。

「ハ、愚かな弟、愚かな子供! 私はその女の望みを叶えてやろうとしただけだ!」

「そんなわけあるか!」

 ザントスの怒号。

「ならその女に訊いてみるがいい! ロイファ、お前の望みは何だ? 何だ?」

 哄笑。狂ったような、すべてを吐き出すかのような。それにロイファは逃げ場なく取り囲まれた。体が、震えた。


 そして笑い声は急速に遠ざかっていった。

「逃げるなキアネス!」

「また会おう、すぐに会おう……!」

 彼の声が消えるのに合わせ、冷たい霧も風に吹かれて晴れていく。

 そして太陽の光が鋭くロイファの目を射た。


「ロイ……」

 彼女へ振り向いた金茶の髪の少年は、しかし焦ったように顔を背けた。

「お、俺、マント取ってくる!」

 そのまま振り向かずに小屋へ向かって走っていく。

「ロイファ、大丈夫?」

 フィトは「すぐ外してあげるから」と言いながら剣を振るって、彼女を拘束する石を割っていく。

 だがすべての拘束が外れても、ロイファはそのまま動けなかった。


「どこか怪我したの、痛いの? ねえロイファ」

 横たわったままの彼女に、フィトは抱きついてきた。

 温かいその体温に、ふっとロイファの気が緩む。彼女の目から、涙がこぼれだした。

「どうしたの!?」

 彼女は黙ったまま、子供の体に腕を回して抱きしめた。そしてそのまま、泣き続けた。

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