第29話 二人分の涙

 日差しにまぶたをくすぐられる感覚があって、フィトは眠りから覚醒した。そっと目を開ける。戸口から燦々と明るい日の光が差し込んでいた。


「フィト!」

 悲鳴のような声が聞こえた。ロイファ。

「どうしたの?」

 怪訝けげんに思いながら彼は身を起こす。重いマントがずり落ちていって体が軽くなって、気持ちよさに大きく伸びをした。

「よかった、もう、目が覚めないかと……」

 飛んできたロイファに彼はいきなり抱きすくめられた。彼女は完全な涙声で、びっくりしてフィトは瞬きをする。


「いったいどうしたの」

 周りを見回す。彼が眠る前と何の変化もない、石造りの小屋の中だ。ザントスとキアネスもいる。金茶の髪の少年は困り顔。そして黒髪の男の平静な顔が、フィトはかえって気になった。

「何が……あったというわけでは、ないんだけれど……」

 ようやく少し身を離して、ロイファはフィトの頬をぎゅっと両手で挟んできた。やっぱりその瞳には、涙がにじんでいる。

「フィト……フィト……」

 彼女は泣き出しそうに繰り返すばかりで、理由が分からない先駆けの子カイルドは困惑する。

「なぁに、ロイファ」

 彼の采女ウージナが悲しんでいるのが気がかりで、フィトは彼女に問い返す。

「どうしたの?」

 けれどロイファはただ、今にも泣きそうな表情をしているだけで、まともに答えない。


 何度も何度も尋ねて、それでようやく彼女は言い出した。

聖女マトゥナの……」

「聖女? 彼女がどうかしたの?」

 思わず身を乗り出したフィトを、ロイファは涙で一杯の瞳で見つめてくる。彼女は何度か口を開け閉めして、やっと掠れた声で続けた。

「聖女の……所にたどり着いたら……お前が、消えてしまうって……」

 彼はもう一度瞬きした。

「そうだよ」

 明るく答える。

「聖女に会えたなら、僕は消滅する」


 ヒッと鋭い息の音がした。ロイファが彼から手を離し、自分の口を覆う。

「それがどうかしたの?」

 やっぱり分からなくて、フィトは首を傾げて訊いた。だが彼女は震えながら、頭を横に振るばかり。

「……ロイファは、知らなかったんだよ」

 横からザントスに言われて、フィトは振り返った。

「何を?」

「だから、お前が、消えてしまう運命だってこと」

「そっか」

 うなずいたものの、まだ合点が行かない。

「でも、どうしてこんなに泣きそうなの?」

 今度はフィトが采女の腰に腕を回した。

「ねえロイファ、どうしたの?」

「だって……だって……」

 彼女の口から漏れてくる声に、フィトは耳を澄ませる。

「お前、嫌じゃないのか……? 消えて、しまう、なんて……」

 さらに分からなくなって、彼はまた首を傾げる。

「どうして嫌なんてことがあるの? 僕は聖女に会いたい。彼女の元にたどり着きたい。それが僕の願いなんだもの!」

 にっこり笑った。


 しかし、

「そんな!」

 激しい悲鳴とともに突然肩をつかまれた。

「駄目だ! 聖女にたどり着くなんて駄目だ! 他の先駆けの子にさせればいい、お前は副帝アミントになればいい!」

「えっ?」

 フィトは息を飲んだ。とっさに体を引きはがそうとするが、ロイファは肩をつかんだ手を離さない。

「副帝になれば消えずに済むんだろう!? だからそうすればいい! 消えるのは他の先駆けの子だ、お前はこのまま、あたしと、一緒に……!」

「そんなの嫌だ!」

 フィトは叫んだ。彼女の手首を強くつかむ。

「聖女にたどり着くのは僕だ! 僕は彼女に会いたい、会いたいんだ!」

「駄目だ!」

「どうして! どうしてそんなこと言うの、ロイファ……!」

 困惑のあまり、フィトの目にも涙がにじんできた。

「ロイファは僕の采女でしょう……?」

「采女だからだ!」


 少年が近寄ってきて、ロイファの肩に手を置いた。

「落ち着けよ、こいつの言うことも、聞いてやれ」

「嫌だ!」

 彼女は置かれた手を激しく振り払った。その弾みに、フィトからも彼女の手が外れる。

「あたしは嫌だ! そんな、そんな……!」

 ロイファの瞳から涙がこぼれていた。なぜ彼女が泣いているのか、フィトには分からない。彼女の言っていることがフィトには理解できない。

「ロイファは僕の采女なのに……どうして……」

 彼は呟く。

「僕の願いを、そんなに嫌がるの……」

 ビクリとロイファの体が反応した。彼女は跳ねるように立ち上がり、そして身を翻して小屋から飛び出していった。フィトは呆然とそれを見送るしかなかった。


 後を追って駆け出そうとするザントスを、キアネスが引き留めた。

「待て、お前が行っても、頭に血が上ったあの女を連れ戻せないだろう。私が行く」

 金茶の髪の少年は顔をしかめて立ち止まった。代わって黒髪の男が戸口から出ていく。

 パタリと何かが、床に置いたフィトの手の甲に落ちた。視線を落とす。パタタとまた落ちた。それで初めて、フィトは自分が泣いているのに気がついた。

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