第28話 知った事実

 聖殿エジラでの食事と打って変わって、携帯食料による夕食はとても味気なかった。燃やす薪になるような物もなく、キアネスが呪術でおこした火で沸かした白湯だけが温かい物。

 ロイファだけでなく、全員言葉少なだった。


 食事が終われば早々に、固い石の床でマントにくるまって横になる。深まりつつある秋の夜だ、体に冷気が伝わってくる。屋外でないだけが、かろうじてマシなだけだった。

 ほどなくロイファの耳に健康的な寝息が二つ聞こえてきた。しかし彼女は寝付けない。

 体の位置を変え、小屋の入り口の方を見る。開け放された戸口にはキアネスがいた。満天の星灯りを背景に、うずくまる黒い影。


 どれだけ時間が過ぎただろう。ふいに、影が振り向いた。

「ロイファ、眠れないのか?」

 押し殺した低い声。

「ああ……」

 誘われるように彼女は体を起こした。

「見張り、替わろう」

 彼女が戸口へ行って腰を下ろしても、キアネスはすぐには動かなかった。隣りあって座り、降るような星の光を浴びていた。暗い周囲を見張るために他の灯りはない。


「あの、聖女マトゥナって……」

 とうとうロイファは呟いた。

「あたし、知らなかった」

 冷たい秋の風が吹き抜けていき、彼女は身震いする。

「お前は先駆けの子カイルドの旅路のことを、ほとんど知らなかったからな」

 キアネスの声は歌のような低い響きだった。それまでの彼を思うと意外なほどに、とてもやさしいものに聞こえた。


 そのせいで、ロイファの口がまた開いた。

聖樹カルフに、あの娘がいるんだ?」

「そうだ」

 うなずく気配。

「分からないんだ、どうしてフィトがあの娘にあんなにこだわるのか」

 どうしてあんなに怒り出したのか。彼女は膝を抱えた。今夜はひどく、冷える。

「分からないのか?」

 低い声に苦笑のようなものが混じっていた。彼女は彼へ振り向き、素直に言った。

「分からない」


 キアネスはゆっくり口を開いた。

「先駆けの子は、聖女に恋をしているのさ」

「……恋!?」

 つい大きな声を出してしまってから慌てて後ろを振り返る。

 子供は「うーん……」と小さく寝言を言って寝返りをし、少年は反応すらしなかった。

「恋、って、フィトはまだ子供じゃないか」

 意識して声を押し殺し、それでも必死で言ったが、

「子供か? あれだけ成長しているのに」

 問い返された。一拍置いてからロイファはうなった。もう一度後ろを振り向く。

 彼女に背中を向けているフィト。聖殿を過ぎて、また身長が伸びた。もう十四才程度の外見になっていると、彼女は認めざるをえなかった。


「でも、まだ声変わりだって……」

「そんなもの、恋をするのに必要がないだろう?」

 言い返すこともできず彼女はうなだれた。

 恋。フィトが。あんな……正体も分からないような少女に。

「だけど、あの子は昨日初めて、聖女を見たんだろう?」

 なおも彼女は強弁する。あんな会ったとも言えないような、たった一目見ただけで。


 だがキアネスは相変わらずやさしく、年少者に説いて聞かせる口調で続ける。

「それは、あの子供が先駆けの子だからだ。先駆けの子は皆、生まれ落ちた瞬間から聖女に恋をしている」

 歌うように、おとぎ話を聞かせるように言った。

「先駆けの子たちが聖樹を目指すのは、兄弟同士で争うのは、聖女を手に入れんとしてのことだ」


 彼女のフィトは、おとぎ話の登場人物なんかじゃないのに。

 背後から軽やかな寝息が聞こえてくる。無邪気に眠る子供は、確かにそこに存在している。

「分からない……だって……」

 ロイファは呟いたが、その後に何と言えばいいのかさえ分からなかった。数瞬の間、風の音だけがしていた。

 急に、彼女からフィトが遠ざかっていく気がした。体ごと子供の方へ振り返る。手を伸ばした。だが届かない。ただ無心に眠っているフィトは、遠い遠いところにいた。


 嫌だ。ロイファの中に強い衝動が起きた。この子が自分から離れていってしまうのは嫌だ。それは許しがたい苦痛だ。自分がこの子を育て上げるのに。自分こそが、この子の「母」なのに。

 星は音もなく瞬いている。岩ばかりの大地に、突然一陣の荒い風が起こった。ロイファの短い髪が乱される。それも闇の中、誰も目にはしない。


 風が止んでから、キアネスがまた口を開いた。

「……もしかしたら、お前はあのことも知らないのだろうか」

 彼女の体がぎくりと緊張した。まだ何か、自分だけが知らないことがあるのか? フィトのことで?

「な……何のことだ?」

 ロイファは待った。だが男は黙ったままだ。

「何のことなんだ」

 きっとやさしい、おとぎ話のようなことなんだろう。根拠もなくそう期待して、だが彼女ののどは急速に干からびていった。冷たい風がまた彼女をなぶっていく。


「そうだな、教えておいたほうが、いいだろう」

 男はゆっくりと、奇妙なほどゆっくりと言った。ごくりとロイファののどが上下する。

「聖女にたどり着く先駆けの子はただ一人。その他の先駆けの子は、やって来る黄金期において副帝アミントとなる」

 ここまではいいかと問われて、彼女はうなずいた。知らなかったことだが、そんなのはどうでも良いことだった。

 だがキアネスは察したらしい、説明を続けた。

「副帝の役目は、皇帝セアゼルの補佐とそれぞれの国の統治だ。皇帝が在位するのと同じ、百年間、各国に立つ」


「……それだけ?」

 そんなことならロイファにとって関係のないことだ。ほっと安堵して、確認のためだけに訊き返した。

 しかし男が首を横に振る気配がした。

「一方、聖女にたどり着いた先駆けの子は」

 瞬間、ロイファの胸で心臓が跳ねた。

「皇帝になるんだろう?」

 気づけば急いで割り込んでいた。自分でも理由が分からない強烈な悪い予感。叫び出して男の言葉を遮りたい。聞きたくない、聞いてはいけない!


 だがキアネスは淡々とした声で告げた。

「消滅する」


 風が吹き渡る音。男が何を言ったのか分からなかった。

「え……」

 阿呆のような声を漏らした彼女に、彼は繰り返した。

「聖女にたどり着いた先駆けの子は、消滅する」

 ロイファの思考が停止する。そこへ男の言葉が降りそそぐ。

「先駆けの子の消滅後に、皇帝が新しく聖樹から出現する。彼を国に連れ帰るのが、采女ウージナ随伴者アレシオの新しい役目になる」


 それでキアネスは身じろぎして、立ち上がった。

「そろそろ私は休む。見張りは任せた」

 引き留める間もなく彼は小屋の中に入っていった。ロイファは全く動けない。身体が、精神が、凍りついたようだった。

 消滅――消える? フィトが? ロイファのあの子が、いなくなってしまう?

 絶叫の形に口が開く。だが声は出ない。フィトの寝息が耳にかすかに聞こえた。健やかな呼吸の音。ロイファの手の中で、成長しつつある子供。

 彼女は何もできず、ただ岩の一つになったように、荒涼とした世界の中にいた。

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