第11話 誘惑の手紙

「こちらの杖はいかがでしょう、軽くそれでいて堅く、荒れた道を歩かれるのに最適かと――」

 商人の流れるような売り口上に、キアネスはただ軽く手を振った。相手はすかさず次の商品を差し出す。

「こちらの外套は、雨をけっして通さず、日差しもよく遮り、それでいて蒸れることもない逸品で――」

 それにも手を振る。貧相な身なりの商人は詫びながらへこへこと頭を下げた。

 夜、キアネスの自室。燭台の少ない空間は薄暗い。


 随伴者アレシオに選ばれれば周囲の態度は変わると思っていた。けれどまったく変わらなかった。もう一人の随伴者に選ばれた異母弟ザントスのもとには、「未来の国王」の歓心を買おうと貴族や大商人がひっきりなしに訪れているそうだ。一方、兄のキアネスのところにやって来るのはこんな、名も知らぬ旅商人だけだった。


 目の前の商人は次に、掌ほどの大きさの鏡を差し出した。

「こちらは、呪士の方が遠方との連絡にお使いになるよう作られた物でございます。液体の血ではなく、紙や布に染み込ませた血でも用いることができるお品です」

 また手を振ろうとして、だがふとキアネスは気づいた。


 確かに旅に出る間、王城との通信手段は必要だろう。呪士同士が遠隔通信を行うには、双方の血を含ませた呪具を用いるのがもっとも確実だった。

 しかし今回は王城から出発するのだから、キアネスと王城側の呪士が直接呪具に血をしたたらせておけば済む。紙や布に染み込ませた血である必要は、ない。


 彼は探るように商人の顔を見た。壮年のその男は、暗がりの中でこびへつらう笑みを口元と頬に貼り付かせている。だが目の奥がひどく鋭く光っていた。

「このように、鏡の裏の一部がひねって外せるようになっておりまして、ここに紙なり布なりを納めるのです」

「ふうん」

 キアネスは気のないような声を出してみせた。

「珍しい物だな、どこで作られたものだ?」

 商人は笑顔のまま答えた。

「隣国オストコリナでございます」

「……ほう」


 と、その男は急に窓の方へ首を向けた。

「今の季節は、オストからこのデイアコリナに向けて飛んでくる、渡り鳥がいるそうですね」

「ああ……そうだな。ごくたまさかに、この王城の庭でも見かける」

 そうでございましょう、と商人は大きくうなずいた。キアネスは椅子の肘掛けに深くもたれた。

「その珍しい鏡だけ置いていけ。他はいらぬ」

「ありがとうございます」

 壮年の男は自分の子供のような年のキアネスに向かって文字通り這いつくばり、それから部屋を出ていった。


 キアネスはまた手を振って、控えていた侍女たちを下がらせた。そして机の上に置かれた鏡を取り上げる。

 見た目はごく普通の鏡だ。材質は良いが装飾もさしてなく、なにより呪具なら当然あるはずの呪文字や呪陣が施されていない。

 彼は商人がしていたように、裏の一部をひねって開けた。予想した通りその中に精緻な彫り込みが隠されていた。きわめて複雑な呪陣。


 それを片手に持ったまま、キアネスはもう一方の手を懐に入れた。一枚の呪札を取り出す。

「包む大気、漂う水、月光のベール……」

 低く呪文を唱え、意識を広げていく。大きく、部屋を越え、王城を越えるほどに。ほどなくベール、王城付きの呪士によって作られた結界に意識が触れた。

 その外側に、夜だというのに、一羽の黒い鳥が旋回していた。

「揺風」

 キアネスが唱え札が光の粒子となって消えると同時に、結界にほんの小さな穴が開いた。すかさず黒鳥が飛び込んでくる。


 彼はごくゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。窓を開くと黒鳥が飛来し、音もなく窓枠に降り立った。

 鳥は何か言いたげにくちばしを開くが、鳴き声は上げない。足には紙が結ばれていた。

 キアネスは指を伸ばし、それを解いて広げた。書かれていた文字に視線を落とす。


『不幸にもその能力に応じず遇されている王子殿へ申し出たき事あり。』

 そんな甘い文言で手紙は始まっていた。末尾にあるのは確かに、隣国オストコリナの国王の署名。その横に明らかな血の跡。

 申し出とやらの内容は、キアネスこそがデイアコリナの次の国王になるべきで、そのための後ろ盾にオストの国王がなろうというものだった。

 その代わり、キアネスにオストコリナが求めることは――自国への裏切り。


 彼の脳裏に、薄桃色がよく似合う少女の姿と、金茶の髪を輝かせる少年の姿が浮かんだ。

 ほんの数回瞬きするだけの時間も必要なかった。それでもう心は決まっていた。

 黒鳥が運んだ紙を、鏡の隠しくぼみに納め元通りに蓋を閉める。それから机の上にあった紙片を取り、ペンでただ一言書き付けた。

『承知。』

 机の引き出しから小刀を取り出す。鞘を払うと、刀身はまるで挑発するように輝いた。あの商人の目と同じ光だった。

 彼はためらわず左手、親指の腹を切る。見る見るあふれだした血を紙片にぐいっと押しつけた。

 べったりと、親指の形の血印がなされた。キアネスはそれをただ見つめた。


 紙片を細かく畳んで黒鳥の足に結びつけると、鳥はただちに飛び立った。

 それを見送ったキアネスの口が、笑いの形になる。

 彼は声を出さずに哄笑した。狂ったように笑った。身をよじり、やがて膝をつき、ただ天を仰いで笑った。

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