第6話 無謀な追いかけ

 呼ぶ声に、ゆっくりと先駆けの子カイルドは目を開けた。透明な天井から降り注ぐ光に瞬きをする。

「お目覚めになりましたか、先駆けの子様」

 金色の髪の娘が、寝台の横から彼の顔をのぞき込んでいた。手が伸びてきて彼の額に触れる。冷たい手。

「熱は、だいぶ下がったようですね。これなら午後には采女ウージナ選定の儀を執り行えるでしょう」

 周囲の侍女たちが安堵の息をつくのが聞こえた。だが彼は、まだ体がとてもだるい。頭がほてって寒気もしていた。


「朝食をおとりになりますか」

 金髪の娘がまだ声をかけてくるが、先駆けの子はのろのろと首を横に振った。

「では、せめて水だけでも」

 娘の手に引き起こされ、彼はなんとか寝台の上に座る。やっぱり娘の手は冷たい。口元にグラスがつけられ、ほんの一口だけ飲んだ。

「樹にも」

 そこで先駆けの子はようやく声を出した。

「樹にも、水をあげて」

「はい、もちろんでございます」


 侍女たちが動いた。桶を片手に柄杓ひしゃくで水を汲み、部屋の中央に立つ樹の根本に静かにかけていく。天井から降り注ぐ光の中で、清水に濡れた土がきらきらと輝いた。この樹を人間たちは子供樹カルフィンと呼んでいた。彼は、この樹に生じた卵から生まれた。

 水やりの様子を見届けてから、先駆けの子はまたシーツの中に潜り込んだ。冷たい手がシーツを彼の上に掛け直す。

「では私は、采女になるお方のご様子をうかがってまいります」

 金髪の娘が離れていく。先駆けの子はまた目を閉じた。


 だが、彼の再びのまどろみはあっという間に破られた。侍女たちの話し声、慌ただしい足音が彼を覚醒させる。

 何だろう――この、感覚は。先駆けの子はだるい体を無理に動かし、寝台の上に起き上がった。

「先駆けの子様!」

 彼が身を起こしたことに気づいた侍女が駆け寄ってくる。

「一大事でございます! 采女様が、采女となられるお方が――!」


 采女。彼の脳裏に瞬時に像が広がった。背の高い娘。赤い短い髪。茶色の、射抜いてくるような、目。

「お姿がどこにもありません! この城の中に、おられません!」

 突き飛ばされでもしたように、彼は息を呑む。

 いない?

「今、近衛の騎士が総出でお探ししていますが、なにしろこんなこと、ありえないことで、城下の市民に知られるわけにもいかず、いったいどこへ行かれたのか……」


 先駆けの子は無言のままシーツから体を出し、寝台から下りた。そしてそのまま、部屋の出口へ向かって急いで、だがふらふらとしながら歩いていった。

「先駆けの子様!? ど、どちらへ……」

 立ちはだかるように彼の前に立った侍女を、彼は見上げた。口を開く。

「どいて」

「え、その……」

「どいて」

 ひどく狼狽うろたえた表情で侍女は一歩退いた。その横を彼はすり抜ける。


 彼は夜着と裸足のまま、開いたままだった扉から外へ出た。左右へ顔を向ける。どちらへ行けばいいのか。

 ふっと、温かい匂いがした。彼は熱でふらつく体で、匂いのする方へ向かって歩き出した。

「先駆けの子様!」

「お待ち下さい!」

 いくつもの声と足音が後ろから追いかけてきたが、彼はそれに一切構わずただ匂いだけを追った。


 たどり着いたのは二階の部屋だった。

「先駆けの子様……っ!」

「ただ今、手を尽くしてお探ししております!」

 温かい匂いがしている。これは、そう、日光の匂いだ。

 指示を出す者、部屋を駆け出していく者、残された物はないか探す者、駆け込んできて大声を上げる者。采女がいるはずだった部屋は混沌で満たされていた。部屋の中央に立った先駆けの子に、誰も注意を払う様子がなかった。


 周囲を見回す。窓が開いていた。その先に、大木があった。温かい匂いは大木の方へ続いていた。考える前に彼は窓へ歩み寄って、窓枠に手をかけた。細い腕に力を籠める。

 ふわっと、体が浮いた。

 先駆けの子は漂うように体を持ち上げ、足で弱々しく窓枠を蹴った。外へ、水中を進むように、手足で空をかいて進む。

 しかし彼の手が大木の枝に触れた瞬間、浮力が失せてガクッと全体重が腕にかかる。

「……!」

 弱い腕は自分の重みを支えきれず、彼は一気に落下した。


 大木の根本に生えていた灌木かんぼくの茂みに彼の体は突っ込んだ。痛みに声も出せず、身を丸めて耐える。初めて感じる、焼け付くような苦痛。

 そんな彼の鼻先に、また、温かい匂いがした。先駆けの子は何とか首をもたげてそちらを見た。

 赤毛の娘の後ろ姿が、見えた気がした。足早に遠ざかっていく、背の高い幻影。

 彼は必死に立ち上がり、すぐにまた転んだ。それでも地を這うようにして、彼女の後を追った。


 やがて人や荷馬車がひっきりなしに出入りしている場所に行き着いた。王城の通用門だった。

 かぎ裂きと泥だらけになった夜着に裸足、髪には小枝や葉が絡まった姿で、先駆けの子はふらふらと門番の前を通り過ぎようとした。

「何だ、そこのガキ!」

 怒号とともに太い腕が伸びてきて二の腕を捕まれた。

「いつの間に入り込んだ! この浮浪児が!」

 そのまま乱暴に、門の外に投げ出された。先駆けの子は力なく地面に倒れ込む。


「どけどけ! ひき殺されたいか!」

 荷馬車が蹄と車輪の音を轟かせてほんのすぐ脇を通り抜けていった。

「邪魔だぞ、ガキ!」

 男の声とともに腹を蹴られる。先駆けの子の細い体は吹っ飛んで壁に打ちつけられた。口の中に何かがこみ上げてきて、彼は吐いた。

 だがそこで、温かい匂いがした。

 彼は必死に目を開けた。

 背の高い赤毛の娘が歩いていく姿が見えた。

 壁にすがるようにして立ち上がった先駆けの子は、幻影の背中を追って、素足でよろよろと道を歩き始めた。

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