第5話 虚弱な子供
扉が開いてその部屋の中が見えた時、ロイファはびっくりして目を見開いた。
部屋中央にいきなり太い木が生えていた。木の根本だけ床石が切れてむき出しの土になっていて、逆に頭上を仰げば透明な天井を突き抜け枝が大きく広がっていた。しかし秋だからか葉は一枚もなかった。夕日の赤い光が部屋いっぱいに降り注いでいる。何とも不思議な光景だった。
「お入りくださいませ、ロイファ様」
薄桃色で装ったご令嬢様に促される。ロイファは歩き出そうとして、慌てて自分のドレスの長いスカートを持ち上げた。ええいもう面倒くさい、いっそ思い切りたくし上げた。膝下まで丸見えにして、眉をひそめるご令嬢様と侍女たちに構わず大股で踏み込んでいく。
壁際に寝台があり、ご令嬢様がそちらを指し示す。ほんの少しだけシーツが盛り上がっていて、近づいていくとシーツに埋もれるように小さな子供が横たわっていた。以前見た白い髪の子供だ。目を閉じていて、まったく血の気のない顔。人形よりもいっそ死体すら連想させた。
「
ご令嬢様がやさしい声で呼びかける。するとゆっくり、ゆっくり、子供の薄いまぶたが開いた。
赤い瞳。間近で見るそれはやはり生気に乏しく、本当に石、装飾品に使われる貴石のようだった。焦点が合っていない。
「ご気分はいかがですか」
問われるのにも反応しない。ご令嬢様はほんの小さくため息をついたようだった。
「ロイファ様、ご挨拶を」
侍女たちに押し出されて彼女は子供の枕元に立たされた。しかし挨拶といっても、何と言えばいいのだ。
「えっと……お前が、先駆けの子?」
我ながら間の抜けたことを言ったと気づいてロイファは赤面する。
と、子供の瞳が揺れた。何かを探すように小さく動き、やがて、彼女と視線が合った。子供は確かにロイファのことを見つめてきた。
「あなたが……」
か細い声が聞こえた。
「僕の……」
しかしそこで子供は咳き込んだ。あっという間にその咳は激しくなる。
「お、おい、大丈夫か?」
ロイファはうろたえ手を伸ばしたが、その手をどうすればいいか分からずにさまよわせる。そんな彼女をご令嬢様が押し
「失礼いたします」
白い布を子供の口と鼻にあてがう。つんと薬草の匂いがした。徐々に咳が小さくなっていく。ロイファはそのそばでただ突っ立っていた。なんだこの子、何かの病気持ちなのか?
「おい……先駆けの子って、旅をするんだよな?」
おそるおそる尋ねると、ご令嬢様は「何を言ってるんだ」という顔で振り向いた。
「はい、
「い、いや、そんな……」
無茶な。こんな子供にそんな長い旅は無理だ。そして自分が世話をするのも無理だ。
だがご令嬢様は枕元にあった水差しからコップに水を注ぐと、ロイファへ向けて突き出してきた。
「さあロイファ様、先駆けの子様にお水を」
有無を言わせぬ空気が、ご令嬢様と侍女たちから漂ってきていた。
仕方なくロイファはコップを受け取る。背を押されて子供に近づき、またどうしていいか困る。
「えーと、ほら、起きて……」
声を掛けてみたが、子供は赤い瞳で彼女を見上げるだけ。
「起こしてさしあげてください」
後ろからご令嬢様が言ってくる。なんでそんなことまで。だが子供が動かないので、ロイファは片手で子供を抱えるようにして起こした。
「ほら、水」
口元にコップを押しつけ、傾ける。その途端、
「ごほっ! ごほ、ごほ……!」
子供がまた激しくむせた。
「先駆けの子様!」
ご令嬢様と侍女たちが子供に殺到する。ロイファは彼女たちに突き飛ばされ、遠くへ追いやられた。
大騒ぎになった寝台から一人離れて、ロイファは水のコップを持ったまま茫然と突っ立っていた。
自分は剣士だ。こんな虚弱な子供の世話なんて無理だ。無理だ。絶対無理だ。
そんな言葉が彼女の脳裏を駆け巡っていた。
◇
清潔で柔らかで肌触りのいい寝台の上で、ロイファはまんじりともできずにひたすら寝返りを打っていた。
「冗談じゃない……」
無意識のうちに何度目かのぼやきをこぼす。頭の中ではあの薄桃色のお姫様の声がこだましていた。
『よろしいですか、ロイファ様』
お姫様は小さな子供へ説明でもするような口調で、こんこんと語ってきたのだった。
『我が国は既に後れを取っているため、聖樹への旅はできるだけ急いでいただく必要があります。聖樹にたどり着くことができた先駆けの子を奉じる国が、
各国に生まれた先駆けの子は聖樹を目指す。そしてたどり着いたら皇帝が世界を治める百年の黄金期がやって来る。そうしたら天災は起こらなくなり、飢饉も起こらなくなり、魔獣はすべて森の奥深くに姿を消し、人々は安寧の中に暮らせるようになるのだ――小さかったロイファが孤児院で聞かされた、おとぎ話。
彼女は低くうなって、また寝返りを打つ。暗黒期の
寝台に横たわっていた子供を思い出す。ろくに会話もできない、水も飲めないほど虚弱な体。
『お世話いただくのがあなた様のお役目です』
無理だ、そんなのは無骨な剣士の自分にはどうやったって無理だ。
ふいに彼女の耳に小鳥のさえずりが聞こえてきた。薄目を開けてみれば、寝台の上に光が差している。けっきょく一睡もできないまま朝になってしまったらしい。
「……冗談じゃ、ないっ」
ガバッとロイファは体を起こした。逃げよう、采女になるのが決定してしまう前に。彼女はそう決心した。
自分がいなくなれば準優勝の娘が采女になるだろう。良家出身の娘なら、きっとあの子供の世話だってちゃんとできる。弱々しい赤い瞳を思い出す。きっとその方があの子のためにもなると思った。
慎重に周囲の気配を探った。しんと静まり返って人が動く物音はしない。少なくとも、まだ。ならば今しかない!
ロイファは部屋の隅へ突進すると、箱にしまわれていた彼女のボロ服とボロ鎧、片刃剣を取り出した。侍女たちによって処分されそうになったのを、何とか強引に確保していた物だった。
滑らかに輝く絹の夜着を乱暴に脱ぎ捨て、慣れ親しんだボロ装備を身につけていく。ごわごわとした感触に、思わずほっと息をついた。
準備万端整えて、カーテンの隙間から外の様子に目を凝らしてから、窓を大きく開け放した。
部屋は二階だったが、幸いすぐそこに立ち木があった。一息に窓枠に足を掛け、ロイファは木に向かって跳んだ。
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