第2話 弟王子の鬱屈
デイアコリナの第八王子ザントス・フラオ・デイアコルは、気乗りしない足取りで王城中庭を見下ろすバルコニーへ向かっていた。
よほど近衛団か騎士たちに混じって観戦しようかとも思ったのだが、それはそれで変な騒ぎになっておちおち観戦していられない気もする。
結局ザントスはバルコニーに足を踏み入れた。その途端、既にいた人々がざわつく。視線の集中を痛いほど感じ、彼は少し顔をしかめた。すると、
「ザントス様!」
澄んだ声に呼ばれて、あれっと目をやる。薄桃色のドレスを着た幼なじみが席から立ち上がって駆け寄ってきた。よく晴れた空からの日の光で、結い上げた金髪が輝いている。
「メル? なんでここにいるんだ?」
彼女は先駆けの子を世話する責任者のはずだった。
「先駆けの子様が熱を出してしまわれて。この闘技会にはご臨席なさらないことになりました」
「だったら看病してないと」
「そうするべきかとも思ったのですけれど、代わりに闘技会を見届けるお役目も同じくらい大事なことでしょう?」
幼なじみのメル――アデルフル公爵令嬢のメルローダはにっこりと笑った。頬に薔薇のような赤みが差している。そのうれしそうな表情を見て、彼女がここにいる理由は先駆けの子の代理などではないとザントスは察した。
「さあザントス様、こちらの席で観戦いたしましょう」
メルローダが指したのはバルコニーに設けられた席のうち一番前の中央、一番良い席だった。
「いや俺、もっと隅っこのほうでいいから」
首を横に振ってザントスは末席の場所へ行こうとしたが、そこで兄や姉たちまで立ち上がった。
「どうぞ、ザントス殿」
「あなたが前へ進むべきですわ」
口々に言い出す。さすがにこうなるとザントスも無理に末席に座れなくなってしまう。
「ね、ザントス様」
ねだるようにメルローダが言って、そっと腕を取ってくる。仕方なく彼は兄姉を押し
ザントスが座ると、メルローダは当然のように隣に座った。どうにも落ち着かない彼は無意味に自分の金茶の短髪をかきむしった。
「お行儀が悪いですわよ」
幼なじみは軽くにらんでくる。
「いーじゃん、別に」
「よくありませんわ、ザントス様は王位にだって即ける方なのですもの」
「そんなもん、なりたくなんかねえよ。そもそも俺は末子なんだし」
「またそんなことおっしゃって!」
メルローダの声の他に周囲からも囁きが聞こえる。内容は聞き取れなくても、だいたい察しがついた。
幼なじみの父親は、王家の傍系にもあたる最有力の貴族、アデルフル公爵。そして公爵はたった一人の娘のメルローダを溺愛していることでも有名だった。
さらに、王族や貴族の間で知れ渡っているまことしやかな噂があった。メルローダは王子ザントスに恋慕の情を抱き、他の男とは絶対に結婚したくないと父親に訴えている――というもの。たぶんそれは事実なのだろうと、当の相手本人であるザントスも、幼なじみをよく知るだけに思っていた。
その結果として、アデルフル公爵はザントスの協力な後ろ盾になってきてくれた。それは身分低い妾妃から生まれたザントスにとってありがたいことと言えた、のだが。それに留まらず公爵は、ザントスを次の国王に即けようと大っぴらに活動し始めた。他の貴族への根回し、国王や有力王族への働きかけ、近衛団や騎士たちへの圧力。ザントスの耳に入ってきているだけでも多岐かつ活発すぎるぐらいだったから、裏ではどれだけの金品を賄賂としてやり取りしているのだろう。
正直迷惑すぎて、ザントスは困り果てていた。妾腹かつ末子の王子である彼が王位に即くなんてとんでもないと公爵へは何度も言っているのだが、公爵は笑顔とともに否定してくるだけ。その態度は頑としていて、言葉にはせずとも「娘の婿には国王になってもらわねば困る」と断言していた。
この一年ほどの公爵は、ザントスを先駆けの子に仕える
ふとザントスがメルローダの方へ顔を向けると、隣に座る彼女は無邪気に首を傾げて「そろそろ闘技会が始まるでしょうか」と笑った。今幸せで、将来の幸せも欠片ほども疑っていない笑顔。
彼は彼女のことが好きだ。好きなのだが、それは幼なじみとして、妹に近い存在としてであって、異性としてではない。何と言うか、彼女を女として捉えられないのだ。
それでもたぶんこのままいけば、彼はメルローダと結婚することになるのだろう。王子である以上、結婚相手を自由に選べないことなど当然で、幼なじみの恋を成就させてやれるだけマシなのかもしれない。
だが国王になるのはどうにも嫌だった。それは生母の遺言にも反していた。自分は得意の――というよりそれしか取り柄のない――剣の腕を活かして、近衛団長あたりになるのが身の丈に合っている。国王にはもっと、なりたいと思っている者がなればいい。例えばすぐ上の兄のような。
急に気がついてザントスは周囲を見回した。長い黒髪を持った、すぐ上の兄王子の姿がない。
兄は無駄なことが嫌いな人だから、観戦はしないのだろうか。それとも、兄自身を随伴者とするための裏工作を、今も懸命にやっているのだろうか。
そこへ高らかな
「始まりますわ!」
メルローダが明るい声を上げる。ザントスも兄のことを一時頭から払い、改めて中庭へ向き直った。どうしようもなく鬱屈を覚える日々の中で、この闘技会はせめてもの気晴らしになってほしかった。
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