第6話

 わたしは扉を開けた。


 夏の夜の空気が、わたしの体を包み込むように吹き抜けた。それだけで、わたしはじわりと汗をかいた。変に緊張してしまっている。


 わたしが見た先にそれらしきモノは見えなかった。辺りを見渡してもそれは変わらなかった。やはりまだ《現実》を見ることにどこか恐れがあるのだろうか。無意識の内にそれに縋って、助けてもらおうとしている。


 なんだか無性に泣きたくなった。朝霞くんとひなちゃんは今も席に座ったままだ。二人(?)で仲良く会話しているに違いない。そんな今なら、誰に見られることなく、自分の不甲斐なさに涙を流してもいいかもしれない、と。静かな夏の夜に、一人泣く女子高生というのも風情があるような気がする。


 ダメだ。そうやって余計なことを考えては、なにも変わらない。


 わたしは会わなくてはならない。


《現実》に――善孤に会って、話をしなくてはいけない。


 だけど、わたしにはやっぱりなにも見えなかった。


 ふと足に何かが触れた。風が吹いたのだと思ったが、前髪は揺れていなかった。


 わたしは足元を確認した。


 そこには小さな白い狐がいた。その透き通るような美しい白い毛並みにわたしは目を奪われた。それから目を逸らすことができなかった。


 これが善孤。ひなちゃんが言ったことがようやく理解できた。見ただけでわかる。その美しさが、その優しさが、その温かさが手に取るようにわかる。


「……ごめんね」


 わたしは善孤の顔をよく見るために屈んだ。善孤の美しい白い毛並みに目を奪われていたが、その瞳もまた美しかった。月のような黄金の瞳。吸い込まれてしまいそうなくらいだった。


 自然と涙が流れた。どうして流れたんだろう、と思ったけれど、たぶん善孤の優しさに自分の小ささが押し負けてしまったのだろう。善孤の優しさに一時でも甘えてしまった自分が悔しかったんだと思う。


 雫は頬を伝い、善孤の顔に落ちた。


「ごめんね。わたしが弱かったせいで、こんなことに巻き込んじゃって。変な契約とか結ばせちゃってごめんね。仲間のもとに帰りたいよね」


 善孤は、本来なら仲間と共にいるのが普通らしい。仲間と寄り添って、人間には想像のつかない長い年月を生きる。だから優しさを持っている。長い時間を仲間と争わずに済むように。それはひなちゃんが教えてくれたことだ。この善孤は仲間のもとを離れてまでわたしのもとに来たのだ。わたしが無理矢理呼び出してしまった。けれど善孤は優しいから、無理矢理呼び出されたとしても決して怒らない。


 善孤は術者の幸せだけを願うようになり、そのために力を使うようになる。


 そして力を使い果たすと……。


 涙はとめどなく溢れてきた。


 その一粒一粒にわたしの見てこなかったものに対しての懺悔の気持ちが詰まっているような気がする。見てあげられなくてごめんね、と。


「ありがとう。きみが来てくれたから、わたしは《現実》を見ることができるようになったんだよ。他の誰でもない、きみの優しさがわたしにそのことを教えてくれた。きみは立派に働いてくれたんだよ。悪かったのはわたし。きみを見ようとしなかったわたしが悪いの」


 善孤はわたしの頬をチロっとその小さな舌で舐めた。わたしが泣いているから心配してくれているんだろう。本当に優しい。


「さ、もう仲間のところへお帰り。わたしはもう大丈夫だから。きみが心配しなくてもわたしはちゃんと進路を決めるよ。現実と戦うよ」


 わたしの言葉を聞いてなのか、善孤はぴょんと跳ね、わたしから少しずつ離れて行った。その美しい白い毛が夏の夜に埋もれていく。その姿は、儚げ、という言葉がよく似合っていた。そんな風にしてしまったのだ。


 善孤は一度だけわたしのほうを振り返った。


 本当に優しいアヤカシだ。別れ際まで心配してくれるなんて。


 大丈夫、とわたしは涙を拭って手を振った。


 善孤はわたしの前から姿を消し、そこにはなにも残っていなかった。だけどわたしにはまだそこに微かだが、善孤の姿が残っているような気がした。

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