第4話

「そんなことがあったんですか」


 朝霞くんはわたしの話を黙って聞いてくれた。否定することもなく、親身になってくれた。わたしは朝霞くんの優しさに少し泣きそうになってしまったけれど、やはり年下の前で泣くのには抵抗があった。


「追いかけてきたモノを《なにか》と言っていましたけれど、どうしてですか? 話の流れから考えてみれば、それは当然『コックリさん』なわけじゃないですか」


「どうしてかわからないけど、あれは『コックリさん』じゃないと思ったの」


『コックリさん』の姿をみたことがないわたしには、あの異様な手を見ただけではそれが『コックリさん』であると断定することはできない。違うかもしれないし、そうであるかもしれない。けれどわたしは何故だか前者だと感じた。


「俺、『コックリさん』ってやったことありませんけど、それでも注意事項を破るというのはなかなか凄いことだと思いますよ。思い切ったことをしましたね」


「ははは……、今思うと、わたしって凄いことしたんだなぁ。だって『コックリさん』だよ? 初体験だったし、なにが起きているのかわからないし、なんなのかもわからない……」


「でも友達を助けるためにやったんですよね。かっこいいと思いますよ、俺は」


 そう言ってもらえると嬉しかったが、この件にしてみれば無謀が過ぎた。あまりにも自己犠牲が激し過ぎる。ほとんど投身自殺じゃないか。


 しかし、今はそんな後悔をしたところで、現状が変わることはないのだ。


 わたしがやるべきことは『コックリさん』の怒りを鎮めて、帰らせることだった。


「となると、小谷さんはその《なにか》をどうにかしないといけないわけですね」


「うん。それと『コックリさん』も」


「ああ、そうか。《なにか》をどうにかしても、まだ本命である『コックリさん』が残ってますね。ちなみに『コックリさん』ってどうやって帰すんですか? あ、もちろん『コックリさん』をやるということはわかってます。けれどあれは怒ってない『コックリさん』なら帰せるんでしょう? すると怒ってる『コックリさん』はどうやったら帰せるのかな、と思って」


「わからない。あの儀式って『コックリさん』を強制的にどうにかできるものじゃないの。わたしたちが『コックリさん』にお願いするものだから、『コックリさん』がお願いを聞いてくれなかったらなんの意味もない……」


「手詰まりってことですか」


「ごめんね。こんな面倒なことに巻き込んじゃって。本当はこんなつもりなかったんだけど――一人でどうにかするつもりだったんだけど、やっぱりわからないことはわからないし、わたし一人で抱え込むには重すぎた。誰かに話して少しでも荷を下ろそうとして、それに朝霞くんを使った。……本当に、……ごめん……」


「構いませんよ――と言いたいところですけど、俺はそんなに器が大きくありません。だけど面倒なことに巻き込まれたなんて思ってませんし、小谷さんがここに来たのもなにかの縁なんだろうなくらいにしか思ってません。それにやっぱり一人で解決しようとした小谷さんはかっこいいと思います。だから俺は、小谷さんを手伝いますよ」


 朝霞くんは「コーヒーのおかわり入れてきます」とカップを持ってキッチンへ向かった。本当に気のきくいい子だ。それに心も澄んでいる。純粋無垢、というわけではないだろうけれど、それに近い子なんだ。きれいな気を持った人間とは、あの子のことだろう。


 その場に一人残されたわたしは改めて今後の対策を考える。とりあえず朝まではここにいさせてもらおう。押し付けがましいけれど、朝霞くんは話を信じてくれているようだし、それくらいなら許してくる気がした。もしそうなったのなら、今度ここに来たときはお礼をしなければならない。


 ふと窓から見える外の風景になにかが映ったような気がした。


 まさか、まだいるのだろうか――当たり前だ。《あれ》はわたしがここに入って行くのを見ていたはずだ。


 わたしはそこでようやく思い至った。いや忘れていたかったのかもしれない。考えたくなかったのだろう。


 今の今まで《あれ》のことを夢幻であり、現実ではない、と。朝霞くんに事情を話しながらも、それは想像の話だと、見て見ない振りをしていた。不思議な感覚だった。たしかに《あれ》を見たくないと思っていた。忘れたいとも。だけどわたしは今の今まで朝霞くんと《あれ》について話していたのだ。それにわたしは《あれ》についての対策も考えていた。それなのにどうして――。


 どうして忘れかけていた。


《あれ》との追いかけっこはまだ終わっていない。


 それに気付くと、ふと疑問が浮かび上がってきた。気付いていれば――いや、忘れていなければ当然、最初に思い浮かぶことだったのに、今更になってようやく浮かび上がってきた。


 何故入ってこない、と。


 教室の扉を破壊してまでわたしを追いかけてきた《あれ》が侵入してこないというのは不自然だ。外と中を隔てているものはこの窓一つの薄さだ。入ってこようとすれば、すんなりと侵入することができるだろう。朝霞くんには申し訳ないけれど、窓を破壊して入ってくることだってできるし、壁だって赤子の手を捻るくらい簡単にぶち破ることだってできる。透過して入ってくることも考えられる。しかし、教室の扉を破壊したくらいだ。そんなことはできてもしないかもしれない。


《あれ》は人間じゃないんだ。そのくらい容易い。


 それなのにどうして? なんで?


「ふわぁー」


 わたしが考えを巡らせていると、朝霞くんが入って行ったキッチンとは反対側から、重そうな瞼を擦りながら女の子が奥から出てきた。


 長く赤い髪、サイズの合っていない赤いパジャマ、明らかに大き過ぎる赤いサンダルと、赤一色の可愛らしい女の子だ。五、六歳くらいの風貌である。朝霞くんの妹だろうか? それにしても似ていない。ハーフというわけじゃないだろう。朝霞くんの茶髪と違って、彼女の髪色は明らかに不自然だ。赤過ぎる。


「なんだ、起きたのか」


 キッチンから朝霞くんが戻ってきた。やけに時間がかかったような気がするけれど、朝霞くんは「ホットにすべきか、アイスにすべきか迷ってたんです」と照れながら言った。


 可愛過ぎる兄妹だった。


 朝霞くんが席に戻ると、ぴょこぴょこと妹さんがわたしたちのいる席まで歩いてきた。そしてそのまま朝霞くんの膝の上に、そこが定位置だと言わんばかりに座った。


 どうぞ、と朝霞くんはアイスコーヒーを渡してきた。わたしがさっきホットコーヒーに苦戦していたのを見ていたのだろう。やっぱり気のきく子だ。


 朝霞くんの前には牛乳が置かれていたが、朝霞くんが飲む前に妹さんが喉を潤すために消費した。口の周りに牛乳でできた髭が残り、それがまた妹さんの可愛さを倍増させた。


 なんだ、これ。可愛過ぎるだろ!


「それで、このお姉ちゃんは誰なの?」


 冷えた牛乳を飲んで目が冴えた妹さんが訊いた。


「小谷さんだ。なんでも『コックリさん』――のようなモノに追われているんだって」


 妹さんの質問に答えたのは朝霞くんだった。しかし、幼い子に、ましてや深夜に『コックリさん』のようなオカルトな話を妹さんにする朝霞くんは少しずれているような気がした。


「ヒナこそどうしたんだ? こんな時間に起きてくるなんて珍しいじゃないか」


 妹さんの名前はひなちゃんというらしい。


 どんな漢字が当てはまるのか知らないけれど、ぴったりの名前だと思う。


「少し外が騒がしくて。眠ろうにも眠れなかったんだよ」


「外か……、やっぱり風じゃないのか」


 二人がなんの会話をしているのかさっぱりわからなかった。


 外? 風じゃない?


 なんのことだろう。


 わたしには、なにも聞こえない。


「小谷ちゃんだっけ。小谷ちゃんがここに辿り着けて安息を手に入れられたのはいいけれど、それだけじゃあ解決になってないよ」


 わたしは困惑した。ひなちゃんがなにを言っているのかわかるけれど、その意味が全くわからなかった。ひなちゃんはわたしのことをなに一つ聞いていないはずだ。それなのに、あたかも全部聞いていたようなその口振りに、わたしの思考の働きがぎこちなくなる。


「……ひなちゃんには、なにかわかるの?」


「なにかって?」


「その……、わたしの置かれている状況とか、わたしはどうすればいいのか」


 解決策を、解放策を知っているのだろうか。


 五、六歳の女の子が?


 そんな疑問を晴らすように、ひなちゃんは言う。


「わかるよ。小谷ちゃんがどうして『コックリさん』に追われているのかも、どうして『コックリさん』が帰らないのかも全部わかるよ」


「どうして? なにも聞いていないのにどうしてわかるの?」


 そんなわたしのどうしようもない問いに、ひなちゃんは幼い無邪気な笑顔を見せた。そして、その理由を一言で済ませた。


「ヒナは人じゃないもん」

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