第2話

「水ですか? それともコーヒー飲みますか?」


「えっと……、じゃあコーヒーお願いします」


 返答を受けて、彼はキッチンのほうへ向かった。


 ようやく手に入れた休息の時間に、わたしの心は久しぶりに安らぎというもの得た。なんにしてもよかった。わたしはテーブルに腕を枕にして顔を伏せた。


 わたしが《なにか》から逃げた末に辿り着いたのは、小さな喫茶店のような建物だった。中に入った今でもここが喫茶店なのかどうかわからない。第一、こんな時間まで営業している喫茶店があるのだろうか?

 考えると不思議なことばかりだけれど、それでもわたしが助かったのはここがあったからだと思う。


 知らない、見えない《なにか》に追われ続けたわたしは、遂にと言うべきか、ようやくと言うべきか、どちらでも構わないけれど、とにかく体力の底が尽きた。正確なことを言うのなら、体力はとっくに尽きていて、そのことにわたしが気付いていなかっただけだった。必死に、死に物狂いで走っていたから、気付く余裕がなかった。今までの自分の運動神経からはとても考えられないことだったけれど、その点は自分の体に感謝していた。明日は――いや、ここにある時計はすでに零時を回っていたから、今日なのだけれど、筋肉痛になることは間違いない。


 体力の尽きたことに気付いたわたしの前に現れたのが、いまだに光の灯っていたこの建物だった。建物まで走り、許可も得ずに飛び込んだ。一刻も早く誰かに会いたかったから、人に会いたかったからだ。


 誰にも迷惑をかけたくないとか思っていたくせに、結局、誰かに助けを求め、自分の身の安全を、心の休養を欲してしまった。


 中にいたのは高校生くらいの茶髪の男の子だった。茶髪と言っても不自然に染めた髪ではなく、自然な色をした茶髪だった。彼はわたしの姿を見て当然目を丸くしたが、理由も訊かずに、お客さんが来たかのように席に通してくれた。


 このとき、目の前の人が少年ではなく、大人の人だったら泣いていたかもしれない。年下の前で泣くのは、なんとなく嫌だった。


「大丈夫ですか?」


 彼がわたしに訊ねた。

 わたしは顔を上げて「大丈夫だよ」となるだけ優しく言った。


 彼はコーヒーをテーブルに置き、そそくさとキッチンのほうへ戻って行った。


 喉が渇いていたわたしはコーヒーを飲もうと思ったが、それがホットコーヒーだったため、一気に喉を潤すことはできなさそうだった。テーブルに備え置いてあるスティックシュガーを三本取り、全てコーヒーの中に入れる。このくらい入れないと苦くて飲めないのだ。


 わたしはコーヒーをちびちびと飲みながら建物の中を見た。最初にわたしが思った通り、ここは喫茶店なのかもしれない。時間が時間だからか音楽はないが、カウンターキッチンや、各テーブルに置かれたメニュー表やスティックシュガーがそう思うには充分な材料だった。雰囲気も悪くないと個人的な感想も含まれた。


 備え付けられている時計は昔ながらの振り子時計だった。田舎のお婆さんの家でも見なかったものだけれど、この喫茶店自体はそんなに古くはない。ただ振り子時計だけが歴史を感じさせ、この店で浮いているものだった。


「この喫茶店は母さんの夢だったんですよ」


 彼がキッチンから出てきて、わたしに言った。彼は少年のようだけれど、遠くから見れば少女に見えないことはない風貌をしていた。


「少し小さいですけれど、まあ趣味みたいなものだったので」


「そうなんだ……」


 彼はわたしと対面するように席についた。特に迷惑ということでもないし、言ってしまえば誰かが傍にいてくれるのは心強く、そして嬉しかったのでわたしはなにも言わなかった。


 そしてもう一つ言わなかったことがある。


 彼は、この喫茶店が夢であることも趣味であることも過去形で言った。それはたぶんそういうことなんだと思う。


 おそらく彼の母親はもうこの世にはいないのだろう。だから、この喫茶店のことを話していたときの彼は寂しそうな顔だったし、声も昔を懐かしむようだった。わたしの母親はまだ生きているから、彼がどんな想いを抱いているのかなんてわからなかった。きっとそれはいつかわかるのだろうけれど、今のわたしには到底理解できるものじゃない。


 わたしは暗い考えを振り払うように彼に声をかける。


「……こんな時間までやってるなんて珍しいね」


「いえ、やってはいないんです。さっきも言った通り趣味みたいなものだから、ここも家の一部なんです」


 わたしは勝手にあがってしまったことをすぐさま謝ったが、彼は「別にいいですよ」と言ってくれた。


「わたしの名前は小谷(こやと)。あなたは?」


「俺の名前は朝霞です。近衛朝霞(このえあさか)」


「いい名前ね」


「あなたも」


 それからわたしは朝霞くんと少し話をした。時間があれだから両親に連絡を入れようと思ったけれど、基本的に放任主義である両親だからその必要はないか、と判断し連絡は入れなかった。わたしが家に帰らないのは今日に限ったことではないので、両親も、またか程度にしか思っていないだろう。朝霞くんはその辺を気にしているようだったけれど、そういうことには口を出すべきではないと思っているのかなにも言わなかった。


 朝霞くんは見た目通り年下だった。しかし、高校二年生と意外にわたしと一つ違いだった。彼を無意識の内に見てしまったが、何回見ても高校二年生には見えなかった。中学生といっても通じるんじゃないだろうか。けれど、それは朝霞くんの身長が低いとかそんな理由ではない。雰囲気がそんな感じなのだ。柔らかく、優しく、温もりのあるような雰囲気が朝霞くんにはあった。春の陽気に似ていると思った。できることなら抱きしめてしまいたいくらいだ。そう、ネコの雰囲気にも似ているかもしれない。


「ところで小谷さんはこんな時間になにをしていたんですか?」


 そう朝霞くんに言われて思い出した。そして気付いた。《なにか》に追われてここに辿り着いたのだ。すっかりここに馴染んでしまい考えることを止めていた。


 しかしあの《なにか》をこの喫茶店に入ってから感じることはなかった。あんなにも背中にひしひしと伝わってきた《なにか》が消えたのは、何故だろう。建物内には入れないとか? と考えたがそんなことはない。


 わたしが《なにか》を感じたのは学校だったのだから。


 朝霞くんに話すべきなのだろうか。しかしこんな突拍子のないことを話されたら、朝霞くんは困るんじゃないか。わたしだってこんなことをいきなり言われても「はい、そうですか」と信じることはできない。


「別に話したくないのならいいですよ。無理して聞こうとは思ってませんから」


 わたしが考え込んでいるのを見て、朝霞くんはそう言ってくれた。きっと朝霞くんはいい子なんだろう、と勝手に思った。


 そんな彼に話さないわけにはいかないかもしれない。こんな時間に厄介になってなにも言わないというのは、自分で自分が許せない。わたしの話すことを朝霞くんが信じてくれなくて、わたしをいぶかし気な目で見たところで、わたしが喫茶店から出ていけばいいだけの話だ。そしてまた《なにか》と追いかけっこをすればいい。わたしが捕まるまで終わることのない追いかけっこをどこまでも続ければ――。


「信じてもらえるかわからないけど……」


 わたしは勇気を振り絞って朝霞くんに話すことにした。

 なにから話せばいいのかわからない。


 いや、考えるまでもない。


 やはり、初めからだろう。

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