第25話

「遅い到着だな」


 鳴さんは、わたしたちが階段手前まで来ると、明後日の方向を向きながらそう言った。あまりにも暗すぎるために、そこまで近づかなければ視認することはできなかった。なぜかはわからないけれど、街灯もあるのにここだけは周りよりも数段に暗かった。


「退いて。ヒナは急いでるの」


「それはできないな。そういう手筈なのだから」


 鳴さんは立っているだけなのだけど、わたしとひなちゃんはその先へ進めなかった。脇を通り抜ければいいのに、それができない。仕方なく、わたしたちは足を止めていた。息も絶え絶えなわたしにしてみれば、好都合な休息の時間だ。全力疾走後の、階段の駆け上がりなどできっこない。途中で必ず倒れてしまう。


 隣に立つひなちゃんからは、これまで感じたことのない敵意を感じる。一発触発しそうな状況。わたしは黙ることしかできなかった。


「朝霞からなにを聞いてるの」


「なにもかも、と言ったら?」


「それを聞いた上でも、そこを退かない気なんだ」


 ようやく、鳴さんが顔を向けた。


「聞いたからこそ退かないのかもしれない。私は私で、あいつにはあの子のことで感謝をしているし、ある程度の頼みなら聞き入れるさ」


「……時間稼ぎだね」


「そう解釈してもらっても構わない。もしかすれば、すでに朝霞の望みは叶っているのかもしれないな。そうとなれば、私がここにいる理由とはなんだ」


「どうせ時間制限なんでしょ。数時間もしたら、お前はここを去る手筈なんだ」


「正解だ。では、お前が私の相手をする理由はなんだ。お前の力を持ってすれば、私ごとき矮小なアヤカシなど赤子を捻るよりも容易いだろうに。しかしお前はそうしない。あるいはできないのか。ならばできない理由とはなにか」


「答える理由はないよ」


「答えなければ、そこを動けないだろう?」


 どういうことなのか、わたしには理解できなかった。この場にいながら、この場で起きていることを把握できていない。鳴さんの、言葉の意味がわからない。脳内で霧散されていく。


「どうして動けないのかわからないのか? わからないのならそう言ってくれれば説明してやらないこともない」


 鳴さんは静かに、この場にふさわしくない清涼な声で言う。


「お前たちが動けないのは、他でもない恐怖という感情のせいだ。この先へ行くことに恐れ、慄いている。私がなにかをしているわけではない。お前たちはお前たち自身のせいで、その場から動けなくなっている。お前たちの頭の中で作り出した勝手な悲劇がこの先にあり、その現実を受け入れたくないと身体が恐怖している」


 この場合、心か。


 鳴さんはそう言葉を結んだ。


「ヒナが恐怖なんて感じるわけない」


「どうかな。ならばなぜそこから動かないんだ。私が時間稼ぎをしていると思っているのなら動くべきだろう?」


 どうする、とわたしは頭の中で何度も反芻した。ひなちゃんがあれだけの焦りを見せたのだ、只事ではないなにかが起きているはずだ。そしてその中心にいるのは、間違いなく朝霞くんだ。彼は『コックリさん』と交渉すると言っていた。その場所に、この先にある神社を選んだ。人が来ないことを知っていてのことだろう。


 朝霞くんは一人になりたかった。


 わたしだけではなく、ひなちゃんまで蚊帳の外に置いた。


 彼女の気持ちが今ならわかる。居ても立ってもいられない。しかし足が前に踏み出そうとはしなかった。あの暗闇の穴に近づくことを拒絶している。鳴さんが言っているのは、このことなのだろう。


「お前は朝霞の望みを知っているんじゃないか?」


「なんのこと」


 鳴さんはひなちゃんの言葉を無視する。


「あるいは、言われたことがある」


「それで?」


「そのことがお前を縛っているのだろうな。お前も朝霞もこの地に縛られ、そしてさらに、朝霞はお前に縛られ、お前は朝霞に縛られている。お前たちのことをすべて知っているわけではない。だが、朝霞とお前にはあまりにも心を縛る糸が多過ぎるようだ」


「お前には関係ない」


「そう関係ない。私も、そこの女も、あの子も関係ない。朝霞とお前の問題だ。しかし私たちの縁は繋がった。繋がってしまったのか、繋げられたのかは知らない。あの屋敷に、この短期間で朝霞を変える存在が現れたのだと考えれば、まあ偶然ではないのだろうが」


 わたしたちの出会いが偶然でない?


「イレギュラーな私を除けば、あの屋敷に訪れたのは二人の人間。この意味がわかるな?」


「黙れ!」


「黙らない。私はそういうアヤカシだ」


 鳴さんは静かに言い放つ。


「朝霞は人間だ。お前のモノにはならない。アヤカシのようにはなれない」


 アヤカシにはならない、と鳴さんは言った。


 そして続ける。


「当たり前のように死ぬ」


 理解を超えた会話が――一方的な会話がそこにはあった。


 こうしている間も、神社内にいる朝霞くんと『コックリさん』の間でなにかが行われているはずだ。まともな交渉ができなかったのかもしれない。どんな恐怖がそこに蔓延っているのか、わたしには想像もつかない。たとえ想像ができたとしても、目を逸らしてしまうのだろう。


 その瞬間、わたしの視界が少し明るくなった気がした。


 そうだった。わたしには「それ」ができるのだ。


 こういうときにこそ使える力が私にはある。


 深呼吸をして、ほんの少し前の自分を思い出す。あの頃の感覚を取り戻さなければ、前には進めない。


 問題は、鳴さんがわたしの行動に対してどう動くかだ。時間稼ぎをしているとは言っていない。ただそこにいるだけなのだとしたら、話はとんとん拍子で進む。


「鳴さん」と呼ぶと、鳴さんは静かにわたしを一瞥した。ひなちゃんの視線も感じた。


「なんだ」


「あなたは、そこから動かないんですか?」


「どうして動く必要がある」


「じゃあ、朝霞くんからはなんて言われてるんですか?」


「お前たちの相手をしろと言われたな」


 時間稼ぎをしろとは、たしかに言われていないようだ。


 そして動こうともしていない。


 ならば――。


「ひなちゃん!」


 わたしは鳴さんに目を向けたまま、彼女の名前を呼んだ。


「わたし、先に行くから」


 それから一度集中するために、目を瞑った。視界が黒一色となった。あの神社への入り口と同じだ。


 人間は本能的に暗闇を恐れる。それは普段の生活において多くの情報を取り入れているのが視覚だからだ。他の四つの感覚よりもその情報量が多く、それが遮断されることで、通常の行動をとることが難しくなる。身体が自然と委縮してしまうのだ。世界が暗くなることで、自分の置かれている状況がわからなくなる。感覚が不安定になり、自分の身体がきちんと動かせているのかも確認できず、周りでなにが起きているのかも把握できず、その結果が不動だ。


 理解できない状況が、恐ろしい。


 それはアヤカシのことも同じだ。


 見えないということは、人間にとって恐怖でしかない。


 だけど……。


 だけどわたしは、それから“逃れる術”を持っている。


 目を開き、一気に駆け出した。先ほどまで足が動かなかったのが嘘のように、足を一歩、また一歩と確実に前へと踏み出していける。


 足の速い方ではないわたしだったけれど、すんなりと鳴さんの横をすり抜けて行けた。本当に動きはないらしい。一瞥もくれることなく、鳴さんはひなちゃんのことだけを見ていた。


 そして件の入口へと――その石段に足をのせた。両側から無秩序に生え伸びている草木が視界と体勢の邪魔をし、敷き詰められた落ち葉が足場を悪くしていた。気を抜けば、足を滑らせてしまいそうである。


 じめついた空気が身体に纏わりついてくる。まるでなにかに掴まれているような感覚、先へと行かせまいとする意思のようなものを感じ取れた。


 長いトンネルは続く。ただただ暗い。ほんの微かな光がときどき足場を照らしているだけだ。その光は細く、風が吹けば草木が揺れ、消えてしまっていた。


 ただひたすら駆け上がった。


 ときには手を着き、バランスを保ったりもした。


 ふと、身体に纏まりついていた空気がなくなった。そのとき自分が視界を閉じていたことに、ようやく気付いた。


 ゆっくりと瞼を開いていくと、そこには二つの姿があった。


 一つは朝霞くんの姿。


 もう一つは――たぶん『コックリさん』の姿。


 その姿は、異様でしかなかった。身体の凹凸は女性のようである。人間のようだが首がなかった。そして背中からはまた別の胴体が多数存在し、そこから伸びる腕の長さはまちまちであるが、通常の人間よりは長いのは間違いないだろう。一つ一つが別の生き物のようで、まるで風に揺れているようにも見えた。そのいくつかの腕が朝霞くんの身体に伸びていた。腕を掴み、足を掴み、そして首までも掴んでいた。


 紺色に染まった空には、白い月が浮かんできた。そして『コックリさん』は、その月と同じような色だった。いや、純白さでいえば、『コックリさん』の方が上だろう。あまりにも世界から外れている。神聖なイメージがあった白色も、あれを見てしまえば、その価値観は一気に逆転する。


 そこにあるのは邪悪さだけだ。


 人の願い――欲望の塊。


 恐怖から目を逸らしたはずのわたしですら、その存在に釘付けとなってしまっていた。無理矢理脳裏に焼き付かされる。


 酷い頭痛が、わたしを襲った。あまりの痛みに、立っていられなかった。


 それでも、二つの姿から目を逸らすような真似はしない。一瞬でも目を逸らしてはいけないような気がした。


 朝霞くん……。


 声にはならず、その名前はわたしの内で響くばかりだった。彼はまだわたしの姿に気付いていない。そんな余裕がないことはわかっている。


 自分たちが招いた災厄だというのに、自分たちでは対処できないなんて、滑稽にも、惨めにも程がある。それに身勝手だ。渦中にいるはずなのに、いつの間にかそこから脱したような気でいる。もう終わったことだと、思いこんでいる。


 わたしもそうだったかもしれないと思うと、自分に嫌気が差してくる。朝霞くんたちが教えてくれなかったら、わたしは今日ものんきに過ごしていただろう。自分たちの過ちで苦しむ人が現れるかもしれないというのに、何事もないように決められない将来について考えていたはずだ。


 この状況は好ましくないけれど、この場にいれてよかったと思う。


 痛みに、顔が歪む。右目を開けていられない。


 不気味な白い塊が、いまだに朝霞くんを捕らえている。そう、あれはあまりにも存在を主張し過ぎている。たぶん、普通の人にもあの姿が見えるほどに……。


 しかし、突如、その白色を汚すものが現れた。


 舞い散る木の葉だと思った。


 虫が飛んでいるのかとも思った。


 だけど、そうじゃなかった。


 それは空中を飛散し、そして辺りに落ちていった。


 音がした。


 どこかで聞いたことのある音だ。


 すぐに思い出した。


 でも、どうして……。


 そんな音がするはずなんてない。


 その音を出せるものはないはずだ。


 しかし、それはたしかにそこに存在し、わたしを思考の世界から現実に戻した。


 飛び散ったものは、赤かった。


 白い塊がカンバスとなり、その色がわたしの目にはっきりと映った。


「あぁ……」


 声が上手く出せなかった。


 視線が『コックリさん』の腕の一本に釘付けとなっていた。すらっと伸びた細い腕の先が、赤く染め上がっていた。赤色が流れ出ている。その白い腕を伝って、ぽたりと地面に落ちた。


 腕だった。


『コックリさん』は、朝霞くんの右腕を引き千切ったのだ。


 そして、今、左腕も千切られた。その拍子に血が辺りに勢いよく飛び散り、びちゃっとあの不快な音を響かせた。


 朝霞くんが声を上げることはなかった。常人ならば、腕を引き千切られれば悲鳴の一つを上げるものだとは思うけれど、彼はそうではなかった。両腕とも引き千切られたことにより失神してしまったのだろうかと思った。しかし、朝霞くんの口は動いていて、その目はしっかりと眼前にいるアヤカシに向けられている。痛くないはずがない。いつ気を失ってもおかしくない。それでも交渉を続けてくれる彼を見ていたら、自然と涙が溢れてきていた。どんな感情が含まれているのか、判然としない。考えられない。


『コックリさん』は、朝霞くんから手を放していた。白い腕が退き、朝霞くんの姿が完全に私の視界に映ることとなった。本当に腕はなくなっている。アヤカシがゆっくりと後退すると、辺りが不自然にざわめき始めた。内側から風が発生しているかのように、周囲の木々が外側へとなびかされる。


 そして、次の瞬間、白い塊は黒い液体になり、地面に染み込んでいくように消えていった。朝霞くんの両腕とともに。


 しばらくの静寂。朝霞くんはただ棒立ちになっているだけだった。わたしもなにもできず、その場に座り込んでいるだけだ。頭痛は引いていた。


「――あ」


 朝霞くんが、こちらを向いたので声をかけようと思った。彼があまりにも自然体でいるために、その両腕がなくなっていることを失念していた。


 しかし、朝霞くんはそのまま倒れ込んだ。


「朝霞くん!」


 彼のもとへ走り込んだ。周辺には血だまりができていた。飛散したあともしっかりと残っている。わたしはそんなことを気にせずに、血だまりに座り、俯せになった彼を仰向けにした。


 光の灯っていない瞳がわたしに向けられた。


「もう大丈夫ですよ」


 朝霞くんは微笑む。


「『コックリさん』は、還るべき場所へ還りました。交渉もしてみるものですね」


「そんなことより、腕が……」


「ああ、こんなもの必要経費ですよ」


 わたしは、そのとき朝霞くんの内を垣間見てしまった。


 無二である両腕を「こんなもの」と言ってしまう。


 彼にとって両腕は重要ではないということだ。


 たぶん、両腕だけではないのだろう。


 朝霞くんにとって、自分自身はなんでもないのだ。


 ときおり、朝霞くんが見せる闇。


 わたしが見てしまった闇。


「両腕だけで、この街の人たちを救えるのなら、安いものです。これで平穏が保てるのなら、誰だってそうするはずです。少なくとも俺はそうしました」


「それは失うものがないから?」


 朝霞くんの顔から表情が失せた。人形のような瞳がわたしに向けられていた。きっと泣くのを必死に堪えている姿が映ったことだろう。


 朝霞くんは、周りをなんとも思っていない。それはつまり、周りの環境が存在しないのと同じだ。わたしが現実を見ていなかったのと、同じ。そこに感情移入することなく、逆になにかを感じることもない。笑っていても、怒っていても、困っていても、それはただの演技でしかない。


 彼にとって、この世界は「無」なのだろう。現実はなにかもが存在する世界なのだけれど、朝霞くんはなにかもが存在しない世界として、この世界を生きている。自分が何者でもなく、取り巻く環境は存在しない。いつか覚める夢の一部くらいに感じているのかもしれない。


 早く夢から覚めたい。


 だから自分を大切にしない。


 それが夢から覚める方法だから。


 現実を「無」とし、「夢」と考えている。


 目を背けるだけでは意味がない。


 それでは夢で生き続けてしまう。


「そう……、ですね」


 朝霞くんは、わたしから空に視線を移行した。


「俺にはなにもないから、こんなことができるのかもしれません。普通はしませんか? この考えが普通じゃありませんか?」


「全然……。全然普通じゃないよ」


「こうして小谷さんと話せているってことは、俺はまだ生きてるんですね。それにきちんと考えられる。まだ時間がかかりそうか」


「ダメだよ……」と、わたしは声を絞り出す。しかし、朝霞くんは、それが聞こえていないように言う。


「小谷さんにお願いがあります。小谷さんがここにいるということは、ヒナもいますよね。あいつを俺に近づけさせないでください」


「どうして」


「お願いします。たぶん、鳴の奴はあいつから逃げてくるでしょう。勝ち目がありませんからね」


 朝霞くんは、微笑む。


 それが演技でも、構わなかった。


「鳴は、意外と臆病なんですよ」

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