第22話

 空を少しだけ近くに感じられた。


 手を伸ばせば、そこにある雲を掴めるような気がする。


 俺たちが住んでいる街を見渡すことのできる小さな山に、ひっそりとその神社はあった。その名前は、地元に古くから住む高齢者にしかわからない。その名が記されていたはずの石碑は見る影もなくなっている。階段の始めと終わりのところに鳥居があったらしく、両端には切り株のようなものがあった。少しだけだが、朱色が残っている。しかし、その跡は、手入れをされず自然のままに伸びた木々や雑草たちに隠れていた。その木々たちは分厚い屋根を作り、階段まで光を通さない。昼間であろうと、真夜中以上に暗い。そのせいで、誰もここに近寄ろうとはしないのだ。あまりにも暗過ぎて、本能的に危機を感じ取るからだ。


 随分と前にここを管理していた神主とその家族がいなくなって、誰も掃除や修繕を行わないために、今はただの寂れた廃墟である。こんなところに神様はもういない。神様がいないということは、参拝者もいない。ここがなんであるかを知っているのは、好奇心に駆られて、石段でできた長い階段を昇ってきた者たちとごく一部の高齢者だけだ。


 本殿は形こそ残っているものの、屋根は瓦が吹き飛び、賽銭箱には枝や草が溜まり、壁や扉には大小さまざまな穴が開いていた。そこから中の様子を窺うことができた。端的に言えば、なにもなかった。神は祀られていない。その形跡が微かに残されているだけだ。


 人の近寄らない地のためか、ここには多くのアヤカシの気配を感じることができた。その姿を現すモノはおらず、どこかからこちらを観察しているようだ。久しぶりの人に慌てているのかもしれない。少し、ざわついている。


 小谷さんの家を後にしてから、二時間くらい経っただろうか。


『コックリさん』のことを聞いて、小谷さんは予想通り驚愕を露わにした。当然だろう。小谷さんにとってあれは終わったことで、その終わり方は綺麗なものだったのだから。後腐れのない別れをした。恐怖に駆られるだけの出来事が、自身を見直す転機になったのだ。小谷さんは特別な思いを抱いていたに違いない。しかしそれは逆に言えば、心に深く刻まれたことであり、その根底が覆れば、刻まれた出来事の意味合いは変わる。喜劇から悲劇へと。誇りをトラウマへと。


 だから今、彼女の心は不安定になっている。一歩間違えば、以前よりも「なにも見えなくなる」だろう。心を閉ざしていく。


 ヒナを小谷さんと行動させている訳は、つまり彼女の心の動きを抑制するためである。ヒナが傍にいることでアヤカシへの視界を閉ざすことはなくなるだろう。ヒナと行動させることでアヤカシを意識させる。もっともこれは、『コックリさん』から逃げなければ問題はないのだが、一応の保険だ。あとは『コックリさん』の分裂体に出くわした場合の護衛としての役割もある。不安や恐怖は心を大きく揺さぶる。そのときに拠り所がなければ、簡単に崩れ落ちてしまうだろう。小谷さんはヒナのことを偉大なアヤカシだと思っているし、それは間違いではない。不安や恐怖などの負の感情を包み込むことなど容易な器だ。ヒナの前では、そんなものは些細なことでしかなくなる。


 森に潜むアヤカシたちが騒いでいる。風と共にざわめきが流れていた。


 アヤカシたちの視線が身体中に突き刺さっているが、なるべく意識しないようにした。背後の視線に振り返ったところで、また背後に視線が突き刺さるだけだ。四方八方からの視線はもはや、見られていないのと同じだった。


 誰からも見られないことには慣れていた。


 また風が吹いた。さっきよりも強い風で、目を開けていることが難しかった。腕で風邪を遮るようにし、薄目を辛うじて開ける。


 そこには、いつの間にか鳴の姿があった。


「いい場所を見つけものだな。実にアヤカシ好みだ」


 この場所を選んだのは、ただ人目につかないからというだけではない。ここはアヤカシにとって居心地のいい場所なのだ。アヤカシの頂点とも言える「神」がいた場所。今はもう当時のような神聖な力は残っていないが、それでも大きな力がここには留まっている。例えるのなら、マイナスイオンが発生しているのと同じような効果がある。


「それで、どうするつもりなんだ」


「どうするもなにも、解決するに決まってるだろ」


「退治はしないんだな」


 鳴は地面を見ながらそう言った。階段から伸びる石畳の通路は、幅が一メートル五十センチほどで、本殿まで伸びている。なにも書かれていない。なにも置かれていない。ただの石が並んでいるだけだ。


「俺ができるのは、交渉だけだ」


「話して解決する問題だと思っているのか?」


「……話さなければ解決しないだろ」


「質問を変えよう。話して、なにをするつもりだ」


 俺は答えず、黙って鳴の目を見据えた。綺麗な瞳だった。


 鳴も目を逸らすことなく、俺のことを見ていた。


 見定められているのだろうか。


 見通す気なのだろうか。


 しばらくして、鳴は鼻を鳴らした。


「まあいいさ。今は答えないだけで、そのうち話す気になるだろう。そもそもお前が話さないのなら、私はお前を手伝わないぞ」


「あとできちんと話す」


 自然とそんな嘘が零れた。


「そうか」


「――それで、どうだった、街の様子は」


「変わったところはないな。いつも通りだ」


「『コックリさん』がいるのに、いつも通りなのか?」


「この街には、アヤカシが多く存在している。だからこそ普段との違いを見極めるのは難しい。一つや二つ気配が増えたところで、それは誤差でしか過ぎない。ただ問題を挙げるのなら、奴は分裂ができるのだろう? だとすれば、力が大きくなる前に分裂をしているのだろう」


「悟られず、力を戻す気か」


 分裂するのはあくまで、力を戻す、あるいは蓄えるための手段に過ぎない。広範囲に多くの分裂体が散らばった方が、効率がいい。ある程度の力を残しつつ、分裂。そして力を蓄え、また分裂。


 どこまで繰り返し、いつそれが終わるのかはわからない。しかし最終的には一つに戻るはずだ。『コックリさん』の欠片ではなく、『コックリさん』に戻る。


 その場所を、この神社にする。アヤカシに好かれるこの場所ならば、上手く誘導できるはずだ。相手にとっても都合がいいのだから。


 そのためには、鳴の力が必要だった。


 アヤカシという特性を、存分に発揮してもらわなければならない。


 人である俺にはできないことだ。


「今日中には、達成できそうか?」


「この場所なら大丈夫だろう。むしろ私がなにもしなくとも、向こうから来たんじゃないかとさえ思う」


「念のためだ」


「まあいい。夜になった頃に、ここで完全体になるはずだ」


 腕時計を見て確認すると、あと四時間ほどで日が完全に暮れる時間だった。この季節は昼が長い。


「そいつの目的はなんなんだ?」


「間違いなく術者たちへの復讐だ。それが始まりになるんだと思う」


「つまり、術者たち――人間への復讐ということか。見境のない奴だ。術者だけで留めておけばいいものを」


「仕方ないさ。『コックリさん』はただの降霊術じゃないんだから」

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